2-2 親子のかたち
「これからのことを少し話そうか」
「これから?」
「そうだな」
博人は一拍置いた。
「まず、今の生活をどうするか。いくつかのことは早めに決めておいたほうがいいと思ってな」
明美も頷く。
「退院したばかりだもの。いきなり全部を決める必要はないけど、毎日過ごすうえで決めておいたほうが楽なこともあるでしょう?」
「……うん」
蓮は姿勢を正した。
「まず、身体のことだ」
博人が言った。
「先生とも話したが、以前の身体に戻るかどうかは、今のところ分からない。だから、少なくとも当面は、今の身体で生活していく前提にしたほうがいい。これでよかったか?」
蓮は視線を下ろし、今の身体を見つめた。
「そうだね」
「俺の個人的な考えとしてだけど、無理に女性としての振る舞いを心掛けたりする必要はないと思っている」
「そう?」
「無理に行動を変えても窮屈なだけだろう?それに、もともと蓮は、年齢に対しては落ち着いている方だからな」
「わかった。あんまり気負わずにいくことにするよ」
「ちなみに、戸籍は十八歳になるまでは変更できないらしい」
「じゃあ、当面の間は戸籍上は男性のままになるってことだね」
年齢のほかにもいろいろ条件があるようだが、図らずしてすべてクリアしているのだから皮肉なものだ。
法律というのは、たいそう重要なものらしく、前例のないことには対応が難しいのだろう。
ただし、法律が自分を守ってくれていると思えば、文句も出なかった。
次に母が口を開く。
「それから、大事なのは普段の生活よ。例えば、女性らしい名前に改名するっていう方法もあるの」
「名前を変えるっていうのは、考えもしなかったな」
蓮は間髪を入れず答えた。
母にも父にも、綾香にも悠真にも、何度も呼ばれ慣れ親しんだ名前だ。
「そう。蓮が良ければだけど、私は変えなくても良いと思っているの。珍しいけど、女性でも全くいないわけじゃないから」
「うん、今のままでいいかな」
蓮がそう言うと、博人は理由を尋ねずに頷く。
「そうか、じゃあ名前も呼び方も今まで通りだな」
明美が穏やかに笑う。
「これからも蓮ね」
「うん」
名前が変わらない。またひとつ、以前の自分と今の自分の間に残っているものが見えた。
「それから、服装ね」
明美が続けた。
「今まで着ていた服、サイズが合わなくなっているものもあるでしょう?」
「あ……うん。まだ試してないけどそんな気もする」
「今まで通りにするのか、変えたいのか。服の好みもあるだろう」
蓮はシャツやニット、ジーンズ、トラウザーズを思い浮かべた。
「……今までと同じでいいかな。合わないやつだけ買い直したい」
「それなら、今度みんなで見に行こう」
「うん」
「あと、リハビリね」
明美が言った。
「学校が始まってからも続くから、無理のないようにしないとな。運動も、最初は無理しなくていい」
「平井さんにも、さんざん注意されたよ」
「あの看護師さんか?お前には珍しく、短い間に随分と打ち解けたみたいだな」
「珍しいとは失礼な。でも、めっちゃいい人だったんだよ」
蓮が笑って答えると、博人も笑った。
「ああ、優しい人で良かったな」
今までと何もかも同じではない。それでも、父との会話は以前と変わらなかった。
「じゃあ、今日決めるのはそのくらいかしら?」
明美が言う。
「そうだな、今日はこれくらいにして、休むとするか」
博人は言葉を選ぶように続けた。
「蓮がどうするかは蓮が決めることだと思う。でも、必要なことは俺達も一緒に考えるから、いつでも頼ってくれ」
蓮はしばらく父を見つめた。
「ありがとう」
ふっと息を吐く。
「じゃあ、そろそろお風呂にしましょう?」
「そうだな。蓮も今日は疲れただろう。俺たちはまだやることがあるから、蓮は先に入りなさい」
「わかった」
蓮がバスルームに入ると、壁面に掛けられた細長い鏡に体の一部が映っていた。
浴室には、全身を映すタイプではなく、横に広い鏡が設置されている
なんでも、明美は全身が映せる鏡が良かったらしいが、博人はデザインだけの理由でこちらのものを選んだ、というのが明美の談だ。
普段は合理性を気にするのに、急に便利さよりも見た目に拘る。
博人がたまに見せる男子っぽいところに、妙に共感をしつつ、今日は鏡が横長だったことに感謝した。
浴室の湯船に身体を沈めると、残っていた力がゆっくり抜けていく。
目を閉じると水音が響いて、やがてそれも収まると自分の息づかいだけが耳に届いた。
扉がノックされて、母の声がする。
「バスタオルと着替え、置いておくわよ」
久しぶりの我が家の風呂は、あまりにも快適すぎて、時間を忘れてくつろいでしまった。
急いで体を洗い風呂から上がると、体にまとった水分をさっと拭って、下着を身に着ける。
ボクサータイプのコットンショーツと、ブラトップが用意されていた。
こういうところは、さすが母といったところか。
髪をゴシゴシと拭きながら、リビングに戻ると、両親は話の途中だった。
博人は、蓮を一瞥すると明美に向き直り尋ねた。
「こういうところは気をつけなくて良いのか?」
「うーん……家族だし、みんなが良ければいいんじゃないかとも思うけど、あまり褒められた格好ではないかしらね」
「だろうな」
蓮も、二人の言わんとしていることはわからないでもないが、着る服が出ていなかったのだから仕方がない。
「いや、暑いし?でも、何着たら良いんだろ」
「あら、ごめんなさい。パジャマを出してなかったわね」
「いや、俺もごめん。入る前に聞かなかったのが悪いかな」
母が持ってきたスウェットは畳んだままソファにおいて、Tシャツに首を通す。
まだ体が暑いので、煩わしいことこの上ないが、二人からの指摘を受けて、シャツくらいは着るしかないと判断した結果だ。
二人は、まだ言いたいことがありそうな様子だったが、火照った体にスウェットのズボンはさすがにまだ暑すぎると、誰に聞かせるでもなく心の中で言い訳をして、これはやむを得ないと開き直った。
「二人ともお風呂は?」
「それじゃあ、次は私が入るわね」
明美が出ていくと、リビングには蓮と博人だけが残った。
テレビの音が小さく流れている。
博人が一度コップのお茶に口をつけてから、蓮に穏やかな表情を向ける。
「蓮は、自分の名前の由来って覚えてるか?」
「もちろんだよ。『蓮は泥より出でて泥に染まらず』でしょ?」
「そうだ。7月生まれってこともあるが、清らかな心を持ってほしいっていう、お母さんのたっての希望だったんだよ」
「そっか、お母さんって花好きだもんね」
博人は、いっそう優しい表情になる。
「だから今日、お前が『蓮のままでいい』って言ってくれたのは、明美も嬉しかったと思う」
「自分でも案外気に入ってるからね。別に忖度したわけじゃないよ」
「分かってる。でも、ありがとうな」
「こちらこそ」
その後は、蓮と博人は気持ちを切り替え、しばらくのあいだ他愛のない話を続けた。




