2-1 ただいまとおかえり
今回少し長めです。
蓮は、自宅の庭を抜けると、家に帰ってこられたことに安堵の吐息をついて、肩をなでおろした。
「ただいま」
誰にともなく発した声が、静かな玄関に響いた。
「おかえり」
先に家に入った両親が振り向きざまに返す。
いつも交わしている言葉も、今日は三人にとって特別な意味を持っていた。
「持とうか?」
博人が、明美と蓮の手に提げられた荷物を預かろうと、手を伸ばす。
「俺は大丈夫だよ」
蓮の荷物は、数日に分けてすでに運んでもらっていたので、トートバッグひとつを預けるのも躊躇われ、やんわりと断った。
もう病人というわけでもないし、何かしてもらう立場ではないとの思いがあった。
「そうか。じゃあ、明美の荷物だけ預かろうか」
「ありがとう、博人さん」
博人は、口数が多いほうではない。誰に対しても気さくに話しかけたり、笑顔を振りまいたりするようなタイプでもなかった。
どちらかといえば、少し遠慮がちな人柄だ。
それでも、人に対する接し方はいつも紳士的で、その行動は博人にとって、特別なことではないのだろう。
そして、その姿勢は明美に対して、いっそう顕著だった。
父の背中を見ながら、蓮もまた、人に対してどう接するべきなのかを覚えていく。
そうしたものは、いつの間にか蓮の中に根を張り、行動の規範になっていた。
性別が変わったからといって、父から受け取ったものまで変わるわけではない。
むしろ、こんな状況だからこそ、その姿勢だけは自分の中に残しておきたい。
蓮は、そう願っていた。
二人のやり取りを見た蓮は、口元を緩ませる。
頭に、仲良きことは美しきかな、なんて言葉が浮かぶ。
少し大げさな表現な気もするけれど、実際に、こういう両親の姿を蓮は好ましく思っている。
そんな二人を横目に、蓮は靴を揃え、家の中へ上がった。
見慣れた額縁。
見慣れた観葉植物。
いつもなら何気なく通り過ぎていたものが、今日はひとつひとつ目に入ってくる。
感慨深さに浸っていると、後から二人が入ってきた。
家族でひと通り荷物を広げた後、蓮は自分のものを仕舞うため、自室へ向かう。
階段を上がり、廊下の角を曲がると、自分の部屋が見えた。
部屋の中へ一歩入り、室内をぐるりと見渡す。
すると、一緒に荷物を持ってきた明美が、蓮に訊ねた。
「どう? 久しぶりの自分の部屋は」
「うん、やっぱり家は落ち着くね」
蓮は窓際へ進むと、使い慣れた目覚まし時計を手にする。
埃ひとつない部屋は、入院する前よりきれいかと思うほどに、掃除が行き届いていた。
「ちょっと掃除してくれてたの?」
「少しだけね。蓮は元からきれい好きだから、掃除機をかけたくらいね」
「ありがとう」
「どういたしまして」
明美は部屋の隅に荷物を置いた後、机の方を向いて続ける。
「一之瀬くんが、学校から配られるものを持ってきてくれていたのよ。いい友達を持ったわね」
言われて、蓮は机の上を眺めた。
「うん。ホントだね」
机の上には、プリントの束が置かれていた。
大半が、二年へ進級した後の準備についてのもののようだった。
立ったまま目を通すうちに、思いのほか集中してしまっていたらしい。
気づけば、明美はいつの間にか退室していた。
蓮は椅子に座りなおして背もたれに体を預けると、さらに残りのプリントをパラパラとめくる。
しばらく眺めたあと、小休憩を取ろうと目を閉じる。
ほんの少し身体を休めるつもりだったが、そのまま意識は遠のいていった。
ふたたび蓮の意識が浮かび上がったときには、すっかり時間が過ぎていた。
布団から背中を引き剥がすと、横になったままスマホを覗き込む。
スマホの上部には、アプリのメッセージが複数届いていた。
それらを開くことなく、眉間を軽くマッサージして、のそのそと立ち上がる。
手すりをしっかりと握りしめ、階段を慎重な足取りで下りる。
足音に気づいた明美が振り向いた。
「蓮、そろそろご飯できるわよ」
「ん……」
「もしかして寝てた?」
「みたい」
まだ上の空で、自分のことをまるで他人を見ているかのように言う蓮に、明美は微笑みを向けた。
「それで、どうする? 食べられそう?」
「うん」
ダイニングに博人の姿がないことに気づき、蓮が尋ねると、博人は午後からの用事のため、すでに家を出たとのことだった。
蓮と明美は軽い昼食を済ませ、しばらくリビングで過ごす。
三人掛けのソファに体を沈めると、また眠気が襲ってきた。
このまま怠けていてはよくないと、病院で教わったストレッチをこなすが、それもすぐに終わってしまう。
久しぶりに自宅で過ごす午後は、ゆっくりと過ぎていった。
「悠真くんとは連絡取ってるの?」
「うん。昨日もメッセージ来てたよ」
「部活の練習はできてるのかしら」
「もちろん。フォームを変えてるって言ってたな」
悠真が陸上部で試行錯誤を続けていることは、入院中にも何度か聞いていた。
「綾香ちゃんも忙しいんでしょう?」
「うん。放送部の県予選があるからね」
綾香のことを思い浮かべると、放送部でマイクに向かっている姿が自然と浮かんだ。
「二人とも、蓮の入院中は頻繁に会いに来てくれていたけど、ちゃんと学校のことも頑張ってるのね」
「だね。そういえばメッセージたくさん届いてたんだった」
「送ってくれる人にはちゃんと返しなさいね」
「はーい」
スマホの画面を開けば、見覚えのある名前がいくつも並んでいた。
そのひとつひとつに順番に返信していくと、あっという間に時間は過ぎていった。
夕方になり、明美が外出の準備を始めた。
「夕飯はお鍋でいい?」
「いいよー。ご飯炊いておこうか? 夕飯は何時頃?」
「じゃあ、六時半でお願いできる?」
「分かった」
蓮は、はっきり言って料理ができないといっても過言ではないが、炊飯器をセットすることくらいはできるので、その役目を担うことは少なくない。
慣れた手つきで米を洗い、炊飯器のタイマーをセットして終わり。
台所を後にすると、広いリビングで一人、母の帰りを待つよりも、何かしていたほうがいいと思い、自分の部屋に戻って荷物の整理を再開した。
ひと通り荷物の整理が終わった頃、外から車のドアを閉める音が響き、明美の帰宅を知らせる。
明美を出迎えるべく、階段を降りる蓮の足取りは、先ほどより軽かった。
「おかえり」
「ただいま」
明美は、嬉しそうに笑った。
「どうかした?」
「ううん。なんでもない」
明美は買ってきたものを台所へ運ぶと、さっそく夕飯の準備を始めた。
袋から野菜や豆腐を取り出し、今日使う食材だけを残して、あとは冷蔵庫にしまっていく。
蓮はその様子を横から眺めていると、口を開いた。
「何か手伝おうか?」
「いいの?」
「うん」
明美は少し考えるように台所を見渡した。
「じゃあ……」
そう言いながら、キッチンを見渡す。
「特にないわね」
「え?」
「今日はお鍋だから。切って入れるだけだし」
キッチンの上を見ると、白菜やきのこ、豆腐がきれいに並んでいる。
「……本当にやることないね」
「そうでしょう? 無理に仕事を探さなくてもいいのよ」
明美がくすりと笑う。
「じゃあ、お箸とお皿を並べてくれる?」
「いいよ」
蓮は少し嬉しそうに答えると、食卓に取り皿を並べ、鍋を置く場所を空ける。
鍋が温まるにつれて、ふつふつと煮立つ音が台所に響き始めた。
立ち上る湯気が窓を白く曇らせ、だしと野菜の甘い香りが家の中いっぱいに広がっていく。
その頃、玄関から再び物音がした。
「博人さんかな? 蓮、お願い」
「はーい」
食器棚から取り出した箸を急いで並べてから、父を迎える。
「ただいま」
「おかえり」
博人が、わずかに頬を緩ませる。
それを見た蓮は、自然と笑みを浮かべた。
「……どうした?」
「ううん。なんでもない」
「そうか」
それ以上は尋ねず、博人は靴を脱いで家の中へ上がった。
後ろからついて歩く蓮は、博人と明美を交互に見た。
自然と口元が緩み、少しだけ照れくさくなる。
三人で食卓につくと、明美が二人の顔を見渡す。
「それじゃあ」
「いただきます」
三人の声が重なる。
鍋の蓋が開かれると、ふわっと白い湯気が三人の間に広がった。
博人が椅子を引く音、明美が具材を取り分ける音、器に箸が触れる音が、食卓をやさしく満たしていく。
蓮が取り皿に白菜をよそい、博人が熱そうに息を吹きかける。
湯気の向こうで、博人と明美が顔を見合わせる。
「やっぱり、こうして食べると落ち着くな」
蓮がそう言うと、明美も笑った。
「そうね」
久しぶりの家族三人での夕食だった。
今日のテレビ番組や明日の天気など、とりとめのない話をしながら、三人で食事を続けた。
食事が終わると、蓮も片付けを手伝った。
食洗機に皿をセットしていると、向きを間違えた蓮に明美が声をかける。
「あ、それこっち」
「あ、ごめん。そうだっけ?」
「そうよ」
「忘れてた」
「日ごろから家事を手伝っていれば、そうそう忘れないんじゃない」
「入院してたから仕方ないね」
「それ関係ある?」
「あるでしょ」
「そういうことにしておきましょう」
冷蔵庫に飲み物を取りに来た博人が、その会話を聞いて笑う。
また、三人の間に笑い声が起こった。
片付けを終え、リビングに全員が集まると、博人が口を開いた。
「これからのことを少し話そうか」
仕事が忙しすぎて辛いです。
投稿まで大分時間が空いてしまいました。




