1-13 冬の終わり
少し推敲が長くなったため、更新が遅れました。
蓮は智也たちと別れた蓮は智也たちと別れたあと、そのまま売店へ向かった。
必要なものをいくつか買い、病室へ戻ろうと廊下を歩いていると、ちょうどエレベーターの扉が開く。
そこから出てきたのは明美だった。
「蓮、遅かったわね。どこ行ってたの?」
「うん、今日退院する人がいたから、見送り」
「お世話になった人なの? 教えてくれれば、私もご挨拶したのに」
「友達みたいな感じの人だから、気にすることないよ」
「そう? しっかり挨拶したの?」
「したから大丈夫。もう戻るから、明日の準備手伝って」
蓮がそう言って話を切り替えると、明美もそれ以上は尋ねず、晴れやかな笑顔で頷いた。
「そうね。じゃあ早く片付けちゃいましょう」
蓮と明美は病室へ戻ると、明日の準備を再開した。
あっという間に作業を終えると、この数週間のことを振り返り、自然と先ほどの会話の続きに戻る。
蓮は、智也とのこれまでの経緯を説明し、明美は時折笑顔を見せながら相槌を打った。
「蓮がそこまで楽しそうに話すのなら、本当に良い人だったんでしょうね」
「うーん、そうかな?でも変な人だったよ?」
「そこも含めてよ」
そんなものだろうかと蓮は考えながら、窓の外に目を向ける。
暖かさを含み始めた風の中には、春の匂いが漂い。枝先に付いた小さな蕾がふくらみ始めていた。
一夜明けた退院当日。
目を覚ますと、病室の天井がいつもより少しだけ遠く感じられた。
何も変わらないはずの景色なのに、今日に限っては違って見える。
いよいよ今日で、退院だ。
頭の中でそう言葉にした瞬間、胸がきゅっと締まった。
寂しさなのか、緊張なのか、それとも安堵なのか。はっきりとは分からない。
ただ、確実に言えるのは、この病室で目覚める朝は、これが最後だということだった。
ベッドの上でゆっくりと上体を起こす。
足を下ろし、床に体重をかけ、背筋を伸ばした。
入院したての頃は、一つひとつ確認しながらだった動作も、今は以前と遜色なくこなせるほどになった。
洗面台の前に立ち、備え付けの小さな鏡を見つめる。
そこに映る顔は、もう見慣れたはずなのに、やっぱりどこか落ち着かない。
目元の線、頬の柔らかさ、全体の輪郭。
以前の自分と地続きでありながら、確実に違う。
視線を逸らしかけたが、鏡と向き合ったあの日、目を逸らさないと自分に誓った。
行くんだろ。
誰にともなく、心の中で呟く。
逃げるわけでも、否定するわけでもない。
ただ、そのままの姿で外に出だけだ。
大丈夫だ、そう自分に言い聞かせながら、呼吸を整えた。
運ばれてきた朝食を口にする。
トレイに乗せられた食事は、いつもどおり彩りがよく、味も悪くない。
病室で食べる最後の食事を、一口ずつゆっくりと噛みしめながら食べていると、不意にどうでもいい考えが頭をよぎった。
唐揚げ、食べたいな。
衣がカリッとしていて、しっかりと味が付いた、大きいやつ。
別に病院食が嫌いなわけじゃない。
ただ、そういうものを無性に欲しくなる自分に、少し可笑しくなった。
そんな考えが脳裏に浮かび、自分が確実に病院の外へ戻るのだという感覚が、広がっていった。
そんな事を考えながら食事を食べ終えると、両親が揃って病室にやってきた。
蓮は、空になったカバンに荷物をまとめる。
入院中に使っていた日用品、着替え、読みかけの本。
最初に持ち込んだときよりも、荷物は少し増えていた。
それは物理的な量だけじゃなく、ここで過ごした時間の分だけの、重みを含んでいるように感じさせた。
しばらくすると、診察の時間が近付いてきたので、蓮は両親とともに、病室を出て廊下を歩く。
入院中は、誰かがそばにいてくれることが多かったものの、両親と連れ立って廊下を歩くのは、少し照れくささを感じた。
受付を済ませると、複数の診察室を回った。
退院後の生活指導、食事の注意点、運動量の目安。
一つひとつ丁寧に説明を受けながら、母は頷き、父がメモを取る。
最後は、担当医の辻村の診察だった。
診察室の最後に、辻村はディスプレイから目を離して、改めて蓮の方に顔を向けた。
「今日はこれで終わりです。ただ……」
そこで一度、言葉を切る。
「環境が変わると、思っている以上に疲れが出るものだ。身体だけじゃなく、気持ちの方もね」
「はい」
「決して無理はしないこと。焦らないこと」
辻村はそう念を押した。
「不安になっても、それは弱さじゃない。今までと違う条件で生きているんだから無理もないんだ」
「……はい」
「ここまでで終わりじゃない。これからが始まりだからね」
その言葉を受けて、蓮は気持ちを引き締めた。
辻村は最後に、いつものように穏やかに笑った。
「これからの生活、存分に楽しんでください」
診察を終え、病室に戻った。
長い間過ごしたの部屋なのに、もう通り過ぎる場所のような感覚があった。
ここで過ごす時間は、もう残っていない。
博人が時計を確認し、軽く咳払いした。
「じゃあ、先に荷物を車に積んでくる。蓮はゆっくり帰り支度してなさい」
「うん」
蓮の返事を確認すると、博人が病室を出ていく。
明美は何も言わず、ただ見守る距離でベッド脇の椅子に腰を下ろした。
準備ができた頃合いで、ノックの音が響き博人が戻った。
最後に3人で病室を見回す。
ベッド、カーテン、窓。
見慣れた風景に別れを告げた。
すれ違う医者や看護師に挨拶をしながら廊下を歩く。
すると、平井を含む看護師数人に呼びとめられた。
「佐倉さん、少し蓮さんをお預かりしてよろしいですか?」
「ええ、もちろんです。蓮、いってらっしゃい」
明美に促され、平井に付いていくとナースステーションへと招かれた。
すると、中にいた数人が手を止めて、蓮に近寄る。
「退院おめでとう」
「嬉しいけど淋しくなるわ。通院の時には顔見せにきてよね」
「よく頑張ったね。リハビリはサボっちゃダメだよ」
それぞれが口々に労いの言葉を掛ける。
蓮は、その一人ひとりに感謝を伝えて、入院生活を振り返った。
全員が、仕事上のサポート以上に気をかけてくれていたことを実感し、目頭が熱くなる。
最後に、平井が蓮の前に立った。
「いよいよだね。これから、もっと忙くなるかもだから、体には気をつけてね」
平井は心配そうな視線を蓮に向ける。
「外に出たら、無理しちゃだめだからね。佐倉さんは、調子いいと頑張りすぎちゃうところがあるから」
「そんなこと、ないと思いますけど」
「はいはい」
くすっと笑われ、蓮は小さく苦笑した。
平井は一瞬だけ言葉を選ぶように間を置いてから、穏やかな声で続ける。
「困った事があったら、いつでもおいで。私に分かる事なら何でも相談にのるから」
「ありがとうございます」
平井の言葉に、蓮は深く頭を下げた。
ここで過ごした日々は、決して楽な時間ではなかった。
それでも、平井たちがいてくれたからこそ、蓮は今日まで前を向いてこられた。
いつか自分も、こんなふうに誰かを支えられる人になれたら。
そんな思いが、蓮の胸に小さな憧れとして残った。
「お世話になりました。絶対にまた会いに来ます」
温かな笑顔に見送られながら、蓮はナースステーションを後にした。
いよいよ病院の玄関を抜けると、暖かい風が頬を撫でた。
ここから、またいつもの日常が始まる。
空を見上げ、青空に浮かぶ薄い雲が流れるのを目で追って、空気を大きく吸い込んだ。
これにて一章が終わりました。
すぐに二章を始めるか、箸休めでローファンタジーの短編をひとつ投稿するか考え中です。




