1-11 名前バレ
今回短いです。
頑張って夕方にもう一話投稿する予定。
退院を翌日に控えた朝。
病棟の廊下は静かで、窓の外にはうっすらと霞んだ陽射しが満ちていた。
冷たい空気の奥に、かすかに春の匂いが混じっている。
蓮は、小銭の入った財布をポケットに入れ、スリッパの音を控えめに響かせながら、売店に向かって歩いていた。
あの部屋で過ごすのも、今日が最後か。
そう思うと、ほんの少し名残惜しいような、でも新しい生活への緊張も入り交じって、落ち着かない心持ちだった。
ちょうどロビーの前を通り過ぎるとき、軽い声が背後からかかる。
「おっ、やっぱり見送りに来てくれたんだ?」
振り向くと、智也がいた。
ジャージの上に薄いブルゾンを羽織り、片手に紙袋を下げている。腕には退院書類の封筒。
「サクラちゃんってば、俺に会えなくなるのがさみしくて、つい見送りに来ちゃったってわけか」
ニカッと笑う顔は、相変わらず憎めない。
入院中ですっかり慣れてしまったやりとりに、蓮はすぐさまそっけなく返した。
「……売店に行くところです。新山さん、今日退院なんですね」
「前に伝えたじゃん!忘れてたの?」
「そうでしたっけ」
蓮がとぼけるように言うと、智也は目を丸くして「冷たっ」と肩を落とす。
「いやあ、もうちょっと名残惜しんでくれてもいいのに。俺、けっこう頑張ってたでしょ? リハビリも一緒だったのにな」
「覚えてますよ。でも……別に見送りじゃないです」
そっけない言葉の裏で、蓮はほんの少し笑いをこらえていた。
からかってくる調子は変わらない。
でも、蓮の方もこの軽妙なやり取りが板に付いてきた。
彼がそういう人間だと、今はもう分かっているから。
「それにしてもさ」と智也が真面目な顔を作り、更に続ける。
「やっぱりサクラちゃんって雰囲気いいよなぁ。髪もサラサラだし、声も良いし」
「またそれですか……」
聞き流すように返したそのとき。
「こら!またそうやって女の子ナンパして!」
後ろの廊下から近づいてくる声がした。
振り向くと、バッグを肩にかけた女性が、険しい表情で智也を見ていた。
「まったくあんたは病院でもそんなことやってたの?若い子に馴れ馴れしくして、何考えてるのっ!」
「ち、違うって母さん!ただ話してただけだよ。リハビリ仲間」
蓮は、智也の「母さん」という言葉に反応して、女性の顔を改めて見る。
智也に似た、はっきりとした顔立ちに、明るい髪色や華やかな服装も相まって、見るからに快活そうな大人の女性だった。
智也が慌てて仰け反ったので、蓮も手を振って援護する。
「大丈夫です!一応、知り合いなので」
蓮がそう言うと、智也の母親は会釈をして、申し訳なさそうに笑顔を作った。
「愚息がごめんなさいね。母親の新山菫です」
菫の丁寧な自己紹介に、蓮も応じる。
「あ、佐倉蓮です。新山さんにはいつも良くしてもらっていました」
蓮がそう答えると、智也がまばたきをした。
「えっ?マジで?サクラって苗字?だったの」
蓮は嘘がバレた子供のように、バツの悪そうな表情を浮かべた。
「……そういうことになります」
「えぇぇぇ!?」




