1-10 鏡の向こう
午後、ドアのノックとともに辻村がカルテを手に病室に入ってきた。
後ろには明美が立ち、その隣に博人が後ろ手を組んで並んでいる。
辻村がにこやかに微笑みながら、ベッドのそばに立つとはっきりとした口調で告げる。
「佐倉くん、検査結果も安定しています。筋肉の反応、神経の伝達も問題ありません。退院は、予定通り、二日後で大丈夫そうですね」
「ありがとうございます」
明美が安堵の息をもらし、博人が頭を下げた。
「もともとケガの影響はほとんどなかったので、身体に慣れたことで運動機能が戻るのも早かったのでしょう。もちろん、佐倉さんが頑張った結果なのは当然ですけどね」
「はい」
蓮がそう答えると、辻村は満足そうにうなずく。
「ただし、退院後もしばらくはリハビリを続けてください。以前の体とは勝手が違いますから、学校でも高強度の運動は当面の間避けていただき、順を追ってリハビリに追加していきましょう」
博人も続ける。
「学校のことは慌てなくていい。退院後に時間をかけて相談しながら決めよう」
辻村と博人の言葉を受け、蓮の胸中に安心が広がる。しかし、それと同時に片隅に追いやっていた不安がまた頭をよぎった。
自分に起こっている身体の変化。
外見と内面の性別の違い
日常に戻るということは、それらを家族や友人以外の人に知られることになる。
その日が、じわりじわりと近づいているのだ。
辻村はカルテを閉じ、蓮を見た。
「佐倉くん、ひとつ提案があるんだけど、いいかな?」
「……提案、ですか?」
「そう。鏡と向き合ってみましょうか。まだきちんと見られていないんじゃないかな」
やっぱり、わかってたんだ。
蓮の胸が強く締め付けられ、息が一瞬止まる。
自分自身の姿を真正面から見つめる瞬間が、いよいよ迫っている。
明美がそっと口を開く。
「安心してね。蓮は、ちゃんと蓮のままだから」
明美の表情は相変わらず柔らかいが、その言葉は力強い支えとなった。
蓮は目を伏せる。
手元に目を向けると、指先がかすかに震えていた。
今までずっと避けていた現実に、今まさに向き合わされようとしていることを悟る。
蓮は、ゆっくりと時間をかけて俯くと、一度顔を上げ、大きく頷いた。
それは逃げない決意の表れでもあった。
「医学的にも前例のないケースですから、不安に感じるのは当然です。身体の状態だけでなく、気持ちの面も含めてサポートします」
辻村は心強い言葉をかけ、明美も両の手で蓮の手をそっと包み無言の支えを示す。
その温もりが、ぎこちない自分の心溶かしていった。
博人も一歩離れた位置から、蓮を見つめた。
「蓮、俺たちはここにいる。気持ちを支えてやることしかできないけど、逃げずに見てみるんだ」
「……分かった」
蓮は、小さくもはっきりとした口調で言い、覚悟を決めた。
足が床に触れ、体重を支えながらゆっくり歩を進めると、心臓が早鐘のように打つ。
俯いたまま大きく深呼吸した後、恐る恐る顔を上げた。
目の前には、大きな全身鏡。
光を反射して、自分の姿を正確に映している。
蓮の視線は一瞬止めると、そこにいるのは、面影を残しながらも、確実に違う自分の姿だった。
顔の輪郭、肩幅、手足の線。
どれもが以前の自分とは重ならない。
それでも確かに今の自分であることを、強く主張していた。
目をそらすこともできる。
逃げることもできる。
だけど、母の手の温もり、父の力強い眼差し、医師の言葉が背中を押してくれる。
鏡の中の自分をじっと見つめ、自らに問い掛ける。
これが、俺なのか。
その問いには誰も答えてくれない。
けれど、心の奥には、自分がここに存在していることの実感があった。
蓮は鏡の前に立ったまま、頭のてっぺんからつま先まで、自分の存在を確かめるように視線を這わせ、体の全てを意識する。
視線の先に映る人物の姿が、次第に自分自身と重なってくる。
大きく息をつくと、一歩、また一歩と鏡に近づき、鏡の向こうの自分と片手を合わせる。
指先から溶けてひとつに混ざり合う、その奇妙な感覚に、蓮はようやく気づいた。
目の前にいるのは、知らない誰かではない。
不安も、戸惑いも、決してなくなったわけではないし、以前の自分への未練もまだ残っている。
でも、元に戻れるかどうかが分からない今は、この姿で、生きていくしかない。
そう思うと、この身体を心と切り離して考えることは、もうなくなっていた。
鏡の向こうにいるのは、紛れもなく自分だと確かめるように、もう一度、自分の姿を見つめ、手を強く握った。
過去の話の再編集を何度も行うのが迷惑である事を最近初めて知りました。
ストーリーに関わる大きな編集はしませんが、読み返すと、間や微妙なニュアンスなど、直したい点が、次から次へと無尽蔵に湧き出してしまいます。
頻繁に再編集を行わないように、極力纏めて実行できるように努めたいですね。




