32話 勇者と紹介状と、推薦されたことになる日
噂は長く残らない。
だが書類は残る。
紙は形を作り、
形は評価を作る。
評価はやがて制度になる。
制度になると、
誰かが責任を持つ。
そしてその責任は、
たいてい勇者に渡される。
理由は特にないが、そういう流れらしい。
朝のギルドは、まだ完全には目を覚ましていなかった。
酒場の方からはまだパンの匂いが流れてきている。
木の床は冷たく、
夜の湿気がわずかに残っている。
掲示板の紙は朝の空気で少しだけ波打っていた。
紙が揺れるたびに、小さな音がする。
かすかな擦れる音。
それはこの建物の中では特別な音ではない。
依頼の紙が擦れる音。
椅子を引く音。
酒場の笑い声。
声は今日も、すぐ近くで渦を巻いていた。
ギルドの扉が開く。
勇者とスライム、そのすぐ傍にお色気お姉さんが入ってくる。
勇者の装備している鎧の金具が鳴る。
音は大きい。
だが誰も振り向かない。
振り向かないのは、この建物では大きな音が珍しくないからだ。
それでも、いくつかの視線は寄ってくる。
視線の中心にいる勇者たちはいつも通りだった。
「さあ、冒険の始まりだ!」
「まだ何も始まってないよ」
「でも朝のギルドっていい匂いするよね~」
お色気お姉さんは目を閉じて匂いの方へ鼻を動かしている。
勇者は脇目もふらずカウンターの方へ真っ直ぐ歩く。
堂々としているというより、なにも気にしていない歩き方だった。
気にしていない歩き方は、時々堂々としているように見える。
その違いは、見る側が決める。
冒険者たちの視線がいくつか寄る。
「おい……あいつらって」
「ああ……例のやつらだ」
「……あのダンジョンを攻略した……」
断片だけが聞こえてくる。
勇者一行はカウンターの前で足を止めた。
うつむいたまま、勇者に気づかず作業をしているギルド職員。
「俺たちの次の依頼はなんだ!」
「いきなりそれ」
「まずは挨拶をしようよ~。おはようございま~す!」
お色気お姉さんはいつもの笑顔で愛想を振りまいている。
受付の職員が顔を上げてこちらを見ている。
「あっ、おはようございます。すみません、気が付かなくて……仕事が溜まってたもので……」
「いえいえ~」
「ようこそ、ギルドへ。本日はどのようなご用件でしょうか?」
定型文を言ってくる職員は昨日と同じ人だと気が付いた。
だが今日は少しだけ姿勢が違う。
勇者を見る目が、ほんの少し丁寧になっている。
「勇者さん、昨日はお疲れさまでした」
「ああ、任せろ!」
「まだ頼まれてないから」
職員は少し迷ってから、机の下へ手を伸ばす。
おもむろに紙を取り出してきた。
普通の依頼紙より少し厚い紙だった。
「お待ちしておりました。こちらなんですが……」
さらに表情が明るくなった職員の顔が、スライムには気になっていた。
「いいぞ、もちろんやるぞ!」
「いいぞじゃないから。少しは考えてから返答して」
「ありがとうございます。こちらですが上からの指示でして」
手元の紙を勇者へ差し出す。
「それいつもの依頼書じゃないね? なんて書いてあるの」
「こちらは上からの推薦状です」
「なるほどな!」
「なるほどじゃないから」
職員は表紙をめくり次の紙を見せる。
上から下までぎっしり文字が並んでいる。
・ダンジョン攻略者
・高難度依頼経験あり
・危険任務対応可能
丁寧に説明を読み上げられた内容にスライムの頭の中は疑問でいっぱいになった。
「それ……全部違うから。どれもやってないからね」
「昨日上がってきた報告書の通り、上へ報告しておりますので」
「私たちって、すごいんだね~」
「なるほどな! 俺たちはすごい!」
「だから、すごくないからね!」
騒いでいる後ろの方で冒険者たちの声がする。
「……やっぱりな」
「……ギルドの上からだって」
「……ギルドからの推薦って、すごいな」
噂が、形になった瞬間だった。
噂は曖昧だ。
曖昧なものは、疑う余地がある。
だが紙は違う。
紙に書かれると、疑う理由が消える。
お色気お姉さんが紙を覗き込む。
「ねえねえ、推薦状って私たち有名人だね~」
「ああ、俺たち有名人だな!」
「違うから。有名人なんかじゃないからね!」
笑いながらお色気お姉さんは冒険者に声をかける。
「サインいる? ねえ私たちのサインあげるよ~」
「俺も書くぞ!」
「サインするな」
職員はひとつ咳払いをしてこちらを見てくる。
「お楽しみのところ申し訳ありませんが、こちらにサインをいただけますか? そちらの方がおっしゃっていたサインではございませんので、お間違いなきようお願いします。」
丁寧に間違ったことを書くなと職員の目は語っていた。
言われた通りに勇者は紙の端に書く。
『勇者』
文字はあまり整っていない。
だがそれでも、周囲の空気は一つ固まる。
「……本物だ」
「……推薦状に署名したぞ」
「……勇者が勇者って書いたぞ」
「だから何でそれで証明になるの!」
周囲の反応に不満そうなスライムがそこにいた。
そこへ別の職員が来る。
記録係だった。
紙と鉛筆を持っている。
「少しよろしいでしょうか」
「ああ、任せろ!」
「だから、任せてないから」
「英雄記録をつけております。勇者様の肖像を描かせていただけますか」
「一枚だけか?」
「何枚でもいいぞ」と言わんばかりに勇者が起立している。
剣を掲げる。
胸を張る。
姿勢を整える。
「はい、そのまま。そのまま。動かないでくださいね。……ああ……いいです……。そのまま……」
描きながら紙へ没頭していく記録係は既に周りが見えなくなっていた。
「ねえ、ただ立ってるだけなの」
「でもそれっぽいよね~。英雄って感じだよ~」
「なるほどな! 俺は英雄なんだな」
周囲の冒険者が少しずつ近づく。
鉛筆の音だけが聞こえる。
紙の上で、線が増えていく。
しばらくして。
そこには英雄のポーズの勇者が描かれていた。
周囲から拍手が起きる。
「……やっぱり」
「……英雄だ」
「いやいや、英雄じゃないからね」
噂は形になる。
形になると、疑う理由がなくなる。
紙は便利だ。
紙は反論しない。
そして紙は、次の仕事を呼んでくる。
拍手は長く続かない。
ギルドはすぐ元の雑音に戻った。
記録係は紙を軽く振って乾かしている。
「ふう……最高の出来です……、これで記録は残りました」
悦に浸る記録係に勇者がすぐさま答える。
「なるほどな!」
「何がなるほどなの」
記録係は満足そうに頷き、紙を筒に入れて去っていく。
去り際に、何人かの冒険者が勇者を見て頷く。
「……やっぱり」
「……本物だな」
その言葉は、
誰に聞かせるでもなく漂う。
スライムはそれを聞いてしまう。
聞いてしまうと、捨てることができない。
受付の職員が、机の引き出しを開ける。
袋を取り出す。
小さな革袋だった。
机の上に置く。
「こちらなんですが……」
「任せろ!」
「まだ説明されてないから」
職員は袋を押し出す。
「こちらですが、前払いです。お納めください」
「えっ、何の前払い」
「次の依頼分です」
「まだ受けてないよ」
スライムは慌てている。
「なるほどな!」
「だからなるほどなじゃない」
袋の中で銀貨が軽く触れ合うと、小さな金属音がする。
お色気お姉さんが覗き込む。
「わあ、すごいね~。袋にいっぱいだね~」
「ああ、すごいな!」
勇者はすごいと言いながら、その袋を掴んでいた。
「戻せ」
職員は苦笑する。
「推薦状が出ましたので、あなた達にすぐ依頼が来ると思って報酬を準備してたんですよ」
「勝手に準備するな」
「俺たちに任せろ!」
「任せられてない。むしろ任されたくないからね」
勇者は袋を持ち上げる。
重さを確かめる。
「なるほどな!」
「何が」
「銀貨だな!」
「もう、見れば分かるからね」
スライムは勇者に突っ込みながら推薦状をもう一度見ている。
紙を裏返すと文字がもう一列あることに気づいた。
「……宛先、誰だろ?」
「ああ、依頼の同行担当ですね」
「同行って?」
職員は紙を見直しながら指で文字をなぞる。
「ええっと、ここですね。ここ」
『同行担当者 錬金術師』
「錬金術師って誰?」
「ええと……その方は……」
職員は少しだけ首を傾げる。
「名前はまだ書かれていません」
「書かれてないの?」
「後で追記される予定のようなので」
「ああ、俺たちに任せろ!」
「任せる相手がいないから。黙ってて」
お色気お姉さんが興味深そうに紙を見る。
「ねえねえ、なんか~錬金術師ってなんかかっこいいね~」
「ああ、かっこいいな!」
「かっこいいじゃない。これじゃまったく内容が分からないからね」
「まあまあ」
職員は軽く笑う。
「とりあえず、現地に行けば分かりますよ」
「またそれ」
「実は私が聞いた噂ではですね」
少し声を落とす。
「少し変わった人らしいですよ」
「なるほどな!」
「だからなるほどじゃない」
勇者は推薦状を丸める。
袋を持つ。
「よし! 準備はできた。みんな行こう」
「よしじゃないから! それに、準備もなにもできてないからね」
「ねえねえ、また、旅っぽくなってきたね~?」
「ああ! なんか旅っぽいな」
「いやいや、旅じゃないからね」
勇者は出口へ歩く。
床が軽く鳴る。
視線がまた寄る。
「……次も行くんだ」
「……やっぱり」
「……すごいな」
言葉の断片がギルドの部屋の中を漂う。
スライムはそれを聞く。
聞くたびに、胸の奥に小さな石が増える気がする。
勇者は職員に背を向けてから振り返らない。
「任せろ!」
「任せられないからね」
「まあまあ~、ささっと終わらせて帰ってくればいいんだし~」
帰ってくれば。
その言葉は軽い。
軽い言葉は、深い穴を見えなくする。
外の光が強い。
扉を出ると、気持ちの良い空気が広がっている。
ギルドの中より、音が少ない。
それでも、見えない糸はもう張られていた。
推薦状。
前払い。
同行担当。
錬金術師。
勇者はそれを気にしない。
「まあ、大丈夫だな!」
スライムは毒の息を吐くように息を吐く。
「何が……もう、大丈夫じゃないから!」
スライムの言葉は受け止められないまま進んで行く。
勇者一行の足は止まらない。
止まらないまま、また次へ向かう。
違う場所へ行くのに、同じ形が繰り返される。
推薦状は便利だ。
便利なものほど、行き先を選ばない。
紙は勇者を前に進める。
説明は、あとから来る。
そしてその説明は、たいてい誰かの又聞きになる。
次の依頼は、まだ誰も説明できない。
しかし準備だけは整っていた。
その報告が届くのは、もう少し後のことである。




