29話 勇者と噂と、本人より先に広がる日
町の朝は、どこにでもある朝として始まる。
屋台は火を入れ、人は道を使い、声は口から口へ渡る。
異常は見当たらず、建物は立っている。
世界はいつも通りに動いている。
赤いマントの人物も、いつものように歩き出す。
理由は特にないが、そういう流れらしい。
朝の通りは、いつもの幅だった。
石畳は均等に並び、欠けた場所は覚えられるほど目立たない。
昨日の雨の跡はもう乾いて、乾いたまま、乾いた音だけを返す。
屋台の鍋が鳴る。
パンの匂いが流れる。
荷車の車輪が軋む。
どこの町でもある朝だ。
この町だけが特別ではない。
看板は傾いていない。樽も転がっていない。
つまり、いつも通りだ。
勇者は前を向いて歩いている。
赤いマントは背中で揺れ、鎧の継ぎ目が軽く鳴る。
鳴るたびに、本人の足取りまで軽く見える。
右に僕。
左にお色気お姉さん。
距離は変わらない。
変わらない距離で歩くと、会話がなくても歩ける。
歩けるから、歩く。
その、歩く音の隙間に、別の音が混ざった。
「……見ろよ」
雑踏の奥ではない。
同じ道の端から、寄ってくるように聞こえる。
「……赤いマント」
「……昨日の」
短い。
短いが、近い。
僕は思わず、目だけ動かした。
視線が増えたというより、期待の形が触れてくる。
勇者は、触れていることに気づかない顔で歩く。
お色気お姉さんが、いつもの調子で言った。
「ねえ、なんか今日、こっち見てる人多くない?」
軽い声だった。
軽い声は、重い空気を薄くする。
勇者はすぐ頷く。
「そうなのか!」
間がない。
理解の前に、形だけができる。
「勘違いだよ。きっと」
勇者は頷く。
「なるほどな! みんな俺たちを見ているってことだな」
「なるほどじゃないから。そもそも間違っているから」
勇者は、頷いたまま前を見る。
「そうか。じゃあ、違うんだな!」
「なんで否定されてるのに、元気になるのさ」
「落ち込むより、元気の方がいいだろ!」
「……」
噛み合っていない。
噛み合っていないのに会話が止まらない。
止まらないから、周りは勝手に意味を足す。
「ほら、本人たち楽しそうだよ」
「仲いいな」
言葉の断片が、また寄ってくる。
僕は小さく息を吐く。
息は軽くない。
でも、軽いものに混ざると、軽く扱われる。
道の角で、屋台の前に人だかりがあった。
串焼きの油が光っている。
肉の匂いが強い。
勇者の目が匂いに引っ張られるのは早い。
「すごいな!うまそうだ!一本買っていこうぜ」
屋台の男が笑って言う。
「お、勇者様じゃないか。噂、聞いたぞ」
勇者は即答する。
「ん、そうなのか!」
噂が何かは聞かない。
聞かないまま、受け取った形だけが残る。
男が続ける。
「昨日さ、ひとりで最深部まで行ったんだろ?」
その言葉の端っこが、通りに転がる。
「……昨日ひとりで……」
「……嘘でしょ……」
分流が、近い位置で鳴る。
雑踏ではなく、寄りだ。
勇者は首をかしげる。
「なんのことだ。そんなことしたっけかな?」
本気で思い出そうとしている。
思い出せないから、軽く言える。
僕は強めに言った。
「いやいや、してないでしょ!!」
声を強くすると、通る気がする。
通った気がしただけだった。
屋台の男が、僕を見て笑う。
「スライムは心配性だなあ」
心配性。
便利な言葉だ。
否定を、かわいい枠に入れる。
「心配性じゃないから。だいたい一人で行ってないでしょ」
勇者は頷く。
「なるほどな!」
男が笑いながら言う。
「ほら、照れてるだけじゃないか」
僕の否定は、否定として留まらない。
照れに変わる。冗談に変わる。役に変わる。
勇者が言う。
「俺はすごいんだな!」
「いやいや、すごくないから!」
僕が即座に返していくが、少しずつ返す間が伸びていく。
それでも勇者は頷く。
「なるほどな!」
それで、終わった形になる。
終わっていないのに、終わった顔をされると、周りが安心する。
「やっぱり本当なんだ」
「本人も言ってるからな」
「ほらほら、勇者様、否定してない」
否定している。
でも、聞こえているのは別の形だ。
お色気お姉さんが、串を覗き込みながら言った。
「まあまあ。お腹空いてるんだから、先に食べようよ~?」
空気が軽くなる。
軽くなると、深刻は入ってこない。
屋台の男が頷く。
「そうそう。食ってけ」
串が渡る。
渡ると、場がまとまる。
まとまると、話の結論もまとまったことにされる。
勇者が串を持って言った。
「大丈夫だ!見られるのは、いいことだからな!」
「大丈夫じゃないから。見られて問題ないやつなんていないでしょ」
「まあまあ、この串美味しいよ~。食べないの~」
お色気お姉さんが割って入って、串の匂いが会話を押し流す。
「とりあえず、いろいろあるがたぶん大丈夫なんじゃないか!」
「たぶんじゃないんだよ!」
「よし!行こう」
よし、で進む。
「よし。じゃないから」
進むから、周りはまた安心する。
「次も頼むぞ、勇者様」
通りの向こうから声が飛ぶ。
飛ぶが、距離は近い。
勇者は即答する。
「おう。任せろ!」
僕は言う。
「任せろじゃない」
勇者は頷く。
「なるほどな、じゃあ任せない!」
「任せないなら返事しないでよ」
「そうなのか!」
返事はする。
返事があるから、周囲の解釈が固まる。
「ほら、本人もやる気だ」
「やっぱり次も行くんだな」
固定される。
僕の否定は、また別の意味に変換される。
道の角で、子どもが飛び出してきた。
目が輝いている。
「ねえ! ほんとに一人で全部倒したの!?」
勇者は胸を張る。
「ああ、すごかったな!」
「してないから!!」
二度目の「してない!!」は、さっきより疲れる。
でも言う。
勇者は頷く。
「なるほどな!」
子どもがきょとんとする。
その隙間に、お色気お姉さんが笑って入る。
「すごかったよねえ。帰ってきたんだもんね~」
帰ってきた。
それだけで、すごいことにできる。
子どもが笑う。
「帰ってきたなら、すごい!」
勇者が乗る。
「俺はすごいんだな!」
納得が置かれる。
置かれると、周りの話が整う。
「……やっぱり一人で……」
「……嘘でしょ……」
分流がまた鳴る。
型が同じだから、転がりやすい。
「違うって。帰ってきただけだから」
子どもは首を傾げる。
「帰ってきただけって、すごいんじゃないの?」
「……いや、すごいとかじゃなくて」
言いかけた言葉は、軽い空気に吸われる。
周りの大人が笑う。
「同行者って、そういう役だろ」
役。
役にされると、僕の言葉は役割の一部になる。
役割は否定を含んだまま、否定として扱われない。
子どもが紙を出す。
「サインして!」
勇者は迷わない。
「よし!いいぞ」
そして線を引く。
線は線だ。
でも子どもにとってはサインだ。
「うわあ!」
歓声が上がる。
歓声の方が、意味を作るのは早い。
お色気お姉さんが手を叩く。
「よかったねえ」
よかった、が場を閉じる。
閉じると、深刻は入れない。
「違う。違うから!」
勇者は笑って言う。
「大丈夫だ!」
「大丈夫じゃないから!」
「いや、大丈夫だよ!」
同じ意味のやり取りが、言い回しを変えながら増える。
増えるだけで、結論は変わらない。
変わらないのに、会話だけが増える。
三人は歩き出した。
歩くと、視線も歩く。
追いかけるのではなく、並んでくる。
同じ距離で、同じ速さで、ぬるくまとわりつく。
僕だけが少しずつ削れる。
削れても、離れない。
理由は言えない。
言えないまま、隣で歩く。
勇者とスライムは町の通りを歩いている。
人は声を出し、声は別の声を呼ぶ。
屋台の位置は変わらず、石畳も崩れていない。
歩いた距離のぶんだけ、足音が増える。
増えたのは足音と噂である。
町の形はいつものままである。
橋が見えてくる。
川の匂いがする。
水面が光っている。
鳥が一羽、同じ場所を旋回している。
町の外側に近づくのに、町の声は付いてくる。
「……昨日ひとりで……」
「……嘘でしょ……」
また同じ型が鳴る。
繰り返されるほど、固まっていく。
「また、同じ事を言ってる人たちがいるね」
勇者が言う。
「すごいな!」
「すごくないから。きっと話題がないんだよ」
勇者は頷く。
「なるほどな!」
「なるほどじゃないから」
「そうなのか!」
押し返しても、押し返した形だけが採用される。
お色気お姉さんが笑う。
「まあまあ。歩こ歩こ。パン買ったし、今日はいい日だよ~天気もいいし~」
軽い。
軽いまま、前に押す。
押されると、僕の否定はさらに薄くなる。
「次も頼むぞ!」
誰かが言う。
勇者は即答する。
「おう!頼まれた」
「頼まれてないからね」
勇者は頷く。
「なるほどな!」
周りが言う。
「ほら、本人もそのつもりだよ」
「もう……みんないい加減にしてくれ!」
僕の疲れ切った言葉だけが相変わらず町に響きわたっていく。
勇者は橋へ向かい、歩き続けている。
スライムは隣にいる。
町は元の場所に立ち、屋台も石畳も変わっていない。
噂だけが先に固まり、当人はそれを追い越せない。
目立った変化は確認されていない。
世界は普段通りである。




