ディエゴの屋敷
ライアンの叫び方は尋常ではなかった。精神が壊れたのではないか、と思うほどの半狂乱。取り乱して泣き叫び、いやいやをするように激しく首を振っている。
「いやだ! 来るな…来るな!」
「雇い主に対してその態度はなんだ!」
ディエゴがライアンの腕を引っ張って立ち上がらせようとすれば、ライアンの声は更に大きくなった。
異様なまでの叫び声に、気づけばレイモンドはディエゴの前に飛び出していた。
馬鹿な事をしている自覚はあった。これでディエゴに目をつけられるのは確実だ。それでもこのまま放っておけば、ライアンが本当に狂うのではないかと思った。それ程、異常な怯え方だったのだ。
レイモンドはライアンの頭を地面に押しつけるように下げさせると、自身も平伏した。
「申し訳ありません。こいつはまだ小さくて、礼儀も何も分かってないんです。後できつく言っておきますので、どうかお許し下さい」
「……お前は?」
「経理で働いています。レイモンドです」
いっそう頭を低くしながら、レイモンドは答えた。
「……レイモンド、顔をあげろ」
その言葉にゆっくりと顔をあげると、ディエゴはしげしげとレイモンドの顔を見つめた。
「レイモンド……お前はこいつが何をしたか分かるか?」
「……いいえ、存じません」
「こいつは私の服にシミを作った。お仕置きが必要だ」
「何卒、ご容赦を」
「ならレイモンド、お前が代わりになるんだ」
レイモンドはディエゴの顔を凝視した。瞼の上の肉で目が半分埋まっているが、その奥の瞳が人をいたぶるのを楽しむようにらんらんと輝いている。
「……分かりました」
ディエゴに目をつけられた以上、いずれにせよ逃げられまい。この場は切り抜けられても、早晩呼び出されることになるだろう。レイモンドは腹を括った。
「……なんで」
少し落ち着きを取り戻したライアンが、茫然とレイモンドを見上げる。レイモンド自身でも説明ができない。自分はなぜこんな事をしているのだろう。
「立て」
ディエゴの言葉に立ち上がると、言われるがままにその後をついて行く。馬車に乗せられ、向かった先は富裕層の住まう高級住宅街。シュタールの貴族邸宅より更にひとまわり大きな屋敷が立ち並ぶ。
貧民街とはあまりに違う。
シュタール以上の格差を、レイモンドは目の当たりにしていた。この国ではごくごく一部の人間が富を独占しているのだ。
「ついたぞ、降りろ」
馬車が止まったのは、巨大な屋敷の前だった。鉄の門が開くのを待って、庭の中を馬車が進む。
中央の噴水には黄金の女神像が鎮座し、奥にはこちらも屋根を金で塗装した四阿が見える。贅の限りを尽くした庭であったが、華々しいというよりもけばけばしく、あまり趣味がいいとはいえない。
屋敷の中に入ってからもその印象は変わらず、成金趣味の派手な装飾品が目についた。
「ここだ」
通されたのは、ディエゴの屋敷の中で唯一、華美な調度品のない部屋だった。昼間にも関わらず暖炉には薪がくべられ、部屋の中央には椅子が1つ置かれている。壁にかかる道具の数々を見て、レイモンドは眉を顰めた。
ーーこれは拷問部屋か。
鞭、斧、ナイフ、銃器。足枷や拘束具がこの部屋に足を踏み入れた者に見せつけるようにかけられていた。鞭で打たれる、とは聞いていたがはたして五体満足で帰れるだろうか。
「大人しくしていたら、早く帰してやろう」
ニヤニヤとそう言ったディエゴを見ながら、内心「嘘だな」とレイモンドは判断した。そう簡単に解放されるはずがない。この男はただ期待を持たせて、そこから突き落とすのを楽しんでいるだけだ。怯えた様子を見せないレイモンドにディエゴの拳が飛ぶ。
「生意気なガキだ」
口の中が切れて、鉄の味がした。声をあげないレイモンドをディエゴは椅子に縛りつけると、壁にかけてあった鞭を手にとった。バチンと服の上から鞭打たれ、激しい痛みが襲う。
「お前みたいなガキは大嫌いだ。卑しい身分のくせにちょっと顔がいいからっていい気になりやがって」
鞭で打った後は、ディエゴはその巨漢を揺らしてレイモンドの腹を蹴った。コホッと咳とともに血が飛び散る。 2回、3回、4回と鞭打たれ、20まで数えたがそこから先は覚えていない。
ぐったりと頭を垂れながらも、レイモンドは声をあげなかった。徐々に身体からは力が抜け、意識が遠のいていく。しかし、ディエゴはレイモンドが意識を手放すことを許さなかった。
ディエゴは水で満たした桶にレイモンドの顔をつけると、息ができないよう後ろから頭を押さえつける。レイモンドは身体を揺らして抵抗したが、拘束されているせいでされるがままだ。
窒息させる寸前、ディエゴは水からレイモンドの顔を引き上げた。その瞬間、レイモンドは激しく咳き込んだ。息ができない。飲んだ水を吐き出しながら、空気を肺に入れるよう大きく息を吸い込む。ディエゴはそんなレイモンドに更に鞭を打った。
「泣いて許しを請え!」
鞭打ちながらレイモンドが意識を手放そうとすれば、ディエゴは水責めを繰り返した。
それでも、レイモンドは耐えていた。かつて瀕死になった経験から、痛みに耐性ができたのかもしれない。だがディエゴが次に持ち出したものを見た時には、流石のレイモンドも青褪めた。
「お前には、所有印をつけてやろう」
そう言ったディエゴの手には、暖炉で高温に熱せられた焼きごてが握られている。先端の金属板が赤く熱せられているのを見て、レイモンドもこれから何が起こるのかを理解した。
ーーまずい。
さぁっと顔から血の気が失せてゆく。
レイモンドの顔に恐怖が浮かんだのを見て、ディエゴは満足げに頷いた。
「その顔が見たかったんだ」
そう言った次の瞬間、ディエゴは焼きごてをレイモンドの二の腕に押し付けた。服を燃やし、その下の皮膚が焦げる匂いがする。意識が飛ぶような激痛についに耐えきれず、レイモンドは絶叫した。
レイモンドの顔が苦痛に歪むのを見て、ディエゴは声を立てて笑った。その笑い声を、レイモンドは絶対に忘れない。何がそんなに楽しいのか、はしゃいだように手を叩いて喜ぶ様を、決して忘れはしないだろう。
今この手に銃があったら、この男の頭をぶち抜いてやるのに。それから、どれくらいの時間が経ったのだろう。ひとしきりレイモンドをいたぶった後、ディエゴは使用人を呼ぶと部屋を出ていった。
使用人の男は慣れた手つきでレイモンドの拘束具を外すと、レイモンドを肩に担いで馬車まで運ぶ。
流石に屋敷の前に捨て置くのは体面が悪いと思ったのか、レイモンドは貧民街の入口に捨て置かれた。
マイクとハリスが道端で意識を無くして倒れている姿を見つけた時、レイモンドは酷い有様だった。顔は腫れ上がり、服は裂けて半裸状態。2人はレイモンドを担ぐように家に連れ帰った。
それから3日間は家から出られなかった。これまでに貯めた金を切り崩して飢えを凌ぐ。当然医者に行くことはできない。医者にかかるのは高額で、貯めた金を全て使っても足りないからだ。
4日目には、仕事に出た。青あざはまだ顔に残っているが、腫れは引いている。このまま休み続ければ、仕事を失うという焦りがあった。ディエゴに対する恨みも憎しみも消えはしなかったが、今は耐えねばならない。
幸い骨が折れたわけでも腹に穴があいたわけでもない、とレイモンドは思う。ジリジリとした火傷の痛みはいつまでも残ったが、死に至るものではないだろう。
事務所にやってきたレイモンドに、ローガンの反応はこれまでと変わらなかった。レイモンドが違和感を覚えるほど、いつも通り。3日も休んでいたことにも、レイモンドの怪我にも一言も触れない。ローガンの様子を見て、これが暗黙のルールなのだとレイモンドは悟った。ディエゴの行いは見て見ぬ振りをすること。そうしなければ、ここで長く働くことなどできないのだろう。
その日から夜の盗みも再開した。
そうして何一つこれまでと変わらない日常が戻ってきたかに思えたが、一つだけ変化があった。
ライアンである。
ディエゴとの一件以来、ライアンがレイモンドに懐いてしまったのだ。
あの時レイモンドは気絶していて知らなかったが、馬車から投げ捨てられた時、ライアンは心配して3人の住む家に来ていたという。
レイモンドの方は初対面時の借りを返したという程度にしか思っていなかったが、どうやらライアンの方は違ったらしい。動けないレイモンドを連日見舞い、外を出歩けるようになると、その後をついて歩くようになった。
まるで雛鳥が親鳥の後を追うように、ライアンはレイモンドと行動をともにしたがった。
ーーなんというか、随分懐かれたな。
それを不快だとは思わなかった。むしろライアンの行動に、亡くなったジョエルを思い出した。8歳でこの世を去った弟。レイモンドを慕い、出かける時はいつも後をついてきた。
だからライアンに対する態度は、自然と兄が弟にするようなものになっていった。過度な干渉はしないが、ライアンが困っていたら手を貸すというような。
マイクとハリスは最初こそ「気味が悪い」「チビは邪魔」と文句を言っていたが、弟分ができたと認識を改めてからは、あれこれとライアンにかまうようになった。ライアンも不満を言いつつ、2人の言うことは聞いている。
そうこうしている内3人の住まいにライアンが移り住んで、共に暮らすようになった。盗みも4人で行う。
ライアンは口は悪いが、根は素直だった。気持ちが顔に出るので、嘘がつけないのだ。
歳は本人や周囲の話を聞く限り、レイモンドより2つは年下だろうと思われた。正確な歳は本人もわからないらしい。
4人で暮らすようになってから、あの時見せた異常な怯えっぷりは影を潜めている。マイクとハリスが言っていた奇行もディエゴとの件を除けば目にしていない。
ーーあれは、何だったんだろうな。
あの異様なまでの半狂乱は。疑問に思いつつもその時は答えを見つけることはできなかった。
めまぐるしい日常の中でレイモンドさえその事を忘れかけていた頃。ひとつの出来事が、再びレイモンドの胸に疑問を投げかけた。
ライアンが仲間になってから半月。1日の仕事を終え廃屋に帰りつくと、ライアンが突然震えだしたのである。レイモンドの後ろに隠れるように回り込むと、その服を掴みぶるぶると震えている。
「ライアン? どうした?」
困惑しつつ尋ねれば、ライアンは首を振ったまま答えない。何かに怯えるようにカタカタと震え、チラチラと部屋の中に視線を送っている。ーー部屋の中に鼠でもいるのだろうか?
「何かいるのか?」
貧民街で鼠を怖がっているわけもないだろうが。なにげなく口にしたその一言にライアンははっとした表情でレイモンドを見つめる。一瞬口を開きかけて、だが結局ライアンは「何でもない」と呟いた後黙ってしまった。
その出来事がレイモンドに与えたのは、小さな違和感。ごく僅かな疑念だった。
その後も何度か似たようなことがあった。夜中に突然ライアンが叫び声を上げて飛び起きたり、何もないところでビクついたり。
一つ一つは些細な事だったが、その度レイモンドの疑いは大きくなっていった。
ーーまさか、ライアンは。
あり得ないと打ち消そうとする考えを、もうひとつの声が制止する。この世に、あり得ないことなどないではないか。なにより自分はライアンのような人間をよく知っている。
疑いが確信に変わったのは、それから更に半月後。
皆が寝静まった深夜、ふとレイモンドが目を覚ますと外から人の話し声が聞こえた。マイクとハリスは近くで寝ていたが、ライアンの姿はない。レイモンドはむくりと起き上がると、灯りを持った。
入口に近づいて扉に顔をあて、耳をそばだてると、ひそひそとした話し声が聞こえてきた。声の主は、ライアンである。
「ーーにはできない」
聞き取りづらいが、どうやらライアンは誰かと話をしているようだった。相手の声は聞こえない。
「だから、俺には無理だ。もう消えてくれよ」
懇願するような声音。もしかすると泣いているのかもしれない。
この時にはもう、レイモンドの疑いはほとんど確信に変わっていた。
ーーライアンが話してるのは。
この扉の向こうに誰もいなかったら、もう確定だろう。レイモンドはゆっくりと扉を開けた。
「誰と話してるんだ?」
声をかけると、ライアンははっとして振り返った。顔には驚きが浮かんでいるが、目尻に少し涙が溜まっているのが見えた。「なんでもない」と焦るライアンを無視して、レイモンドは灯りを高く持ち、ゆっくりと周囲を見回す。通りの左右を見渡しても、そこには誰もいなかった。ライアンの話し相手の姿は影も形もない。では、やはり。
レイモンドは顔をライアンに向けると、口を開いた。
「なぁ、ライアンーーお前、死者が見えるだろう」
 




