3
後日、蛇に言われたように小鬼のチャスの後を追いかけると、彼は神殿の奥にある台所で料理を作っていた。そこでは小鬼達が忙しく、料理を作っていた。
「チャス! ベア様の料理が出来たぞ!」
「最後の仕上げはまかせて!!」
小鬼は、料理の前で手を広げる。
「ベア様が、オブラドス様の事を好きになりますように」
すると紫色の光がふわっと出て、料理に落ちた。
「よし出来た!」
ベアはその光景を見た後に、口を押さえる。本当に料理にまじないがされていたのだ、だからベアの心はオブラドスに惹かれた。その事実にほっとしたのと同時に、ほの少しだけ何故か胸が痛んだ。
その後、部屋に戻ると料理が運ばれて来たが、ベアは料理に手を付けなかった。しばらくすると、オブラドスがやって来る。
「何故料理を食べない」
ベアは彼をじっと見る。黒い男は、以前にも増して妖しい魅力を放って見えた。あの大きな手で、背を抱いて貰えたらどんなに心地よいだろうと思った。けれど、それはまじないが思わせる事なのだ。
「ごめんなさい、料理が口に合わなくて。よければ、自分の分は自分で作らせてもらえないかしら」
オブラドスが眉を寄せる。
「確かに、おまえには慣れない料理も多かっただろう。すまない、気が回らなかった」
彼は素直に謝る。ベアを攫った点以外は、彼は驚く程まともな神だった。非があれば、こうして認めて謝ってくれる。
「ならばおまえ用の台所を作らせよう。数日待ってくれないか。それまでは、今までの料理で我慢してく欲しい」
ベアは少し悩んで頷いた。
「わかったは」
「ありがとう」
彼はほっとした顔をして、部屋を出て行った。ベアの心はまた一つ彼に傾き、去って行く彼の背を名残惜しく思っていた。それは幻想なんだとわかりながら。
数日後、ベア専用の台所が出来、ベアはそこで食事を作って食べた。これでおまじない入りの料理を口にしなくて済む。その事に心底安心した。あと一月もあの料理を食べていたら、ベアはすっかりオブラドスに心を許してしまっていただろう。料理を食べて、部屋に戻る。部屋に戻っても特にやる事は無いのだが。
「こんにちは」
そこに、青白い髪の美しい女がやって来る。メルケルスだった。
「初めまして、私はメルケルスと申します」
「は、初めまして。私はベアと申します」
ベアは美しい女を見る。魂の炎を思い出すような青白い髪、長いまつげ、ほんのりと赤く染まった頬、瑞々しい唇。体はどこにも非の打ちどころが無い程完璧な造形をしていた。彼女こそ完璧な女だろう。
「存じております。貴方が、オブラドス様の妻なのですね」
「いえ、私は……」
ベアjは言いよどむ。
「えぇ、わかっております。貴方は妻になるつもりは無いのでしょう」
ベアは頷く。
「私はオブラドス様の妻になりたい、なのに彼は私を愛してはくれない。貴方は妻になりたくないのに、オブラドス様は貴方を愛している。難しいものですね……」
彼女は悲しそうに目を伏せる。
「ごめんなさい……」
「どうして、貴方が謝るのですか」
「私が悪いんです。あの人が私の恋人を酷い方法で奪ったから、同じ事をされても貴方は本当に耐えられるのかと聞いたんです」
その結果、彼はこの状態を作り出しベアに愛の証明をした。しかし、メルケルスには良い迷惑である。
「その事も存じております。けして、振り向かない相手かもしれないと愛の女神ローリー様には言われました。それでも私は、良いと言ったのです。彼の側に一時でも、人の姿をしていられるのならば」
「貴方は以前からオブラドス様を慕っておられたのですか……?」
「ふふっ、私の正体は内緒です。それより、退屈ならば一緒に刺繍でもしませんか?」
彼女はにっこり笑って、手にしていた籠を差し出す。
「刺繍ですか?」
「えぇ、良い暇つぶしになると思いますよ」
「そうですね。一緒にやりましょう」
彼女から道具を受け取って、カーペットの上に座って二人で刺繍の準備をする。
「何を描こうかしら」
「私は、魚にするわ」
故郷の海が懐かしかった。
「魚……聞いた事があります。海の中を泳ぐのですよね」
「貴方は魚を見た事が無いの?」
「はい、私は数多の事を知っていますが、生まれたばかりなので経験は無いのです」
彼女は少し恥ずかしそうに微笑んだ。
「そう……」
「私はオブラドス様をイメージした、デザインにします」
「それは大変そうね」
「ふふっ、やりがいがあります」
二人、話しをしながら刺繍を刺す。
「まぁ、海に潜ったりもされてたのね」
「海に潜って捕れた貝は、とても高く売れるんです。私も時々潜っていました」
「人の世界はお金で、物を交換するんですよね。とても不思議な制度です」
「お金があれば、好きな物が買えます。とても便利ですよ」
メルケルスとの話しは、他愛の無い話しが続いて楽しかった。彼女は知識は沢山持っているが、経験が無いので、質問してはベアの話しを楽しそうに聞いてくれた。
刺繍は完成しなかったが、メルケルスとは随分仲良くなったように感じた。
「とっても楽しかったです。また、お話してくださいね」
彼女が刺繍道具を手にして帰って行った。メルケルスの心に触れる度に、自分の願った事の愚かさをベアは感じるのだった。
■
オブラドスはとても忙しく、ベアが起きた時には既に神殿で魂達を相手にして仕事をしていた。そして、ベアが寝る時になっても神殿に居た。いつ、寝ているのだろうと思う。しかし、そんなわけなのでオブラドスとは、あまり長く話す機会が無かった。時折ベアが、地上に帰してくれと頼みに行っても、彼は首を横に振るばかりで、すぐに仕事に戻ってしまった。
そんな彼が、珍しく部屋を尋ねて来る。
「ベア」
一人、本を読んでいる所だった。文字の読み方は、メルケルスに教えて貰った。おかげで、簡単な本なら読めるようになった。
「一緒に出かけないか」
それは、冥界に来て初めての誘いだった。
「少し、時間が出来たんだ」
忙しい彼にとって、それがどれだけ貴重な時間なのかわかっていた。ベアは本を閉じて、サイドデッキに置く。
「良いですよ」
「ありがとう」
ここに来たばかりの頃なら、断っていただろう。しかし、今のベアの心にはOKをするだけの余裕があった。それに、彼とは一度じっくり話す必要を感じていた。
「では、少し散歩に行こう」
彼の差し出す腕を握り、ベアは彼と一緒に外へ出た。建物の裏に魂達の姿は無い。黒い岩肌の道を歩きながら、ベアは言葉を探した。なんの事から聞くべきか。
「最近、メルケルスと仲が良いようだな」
先にオブラドスが切り出した。
「えぇ、彼女はとても優しい方でした」
「そうか、良い娘か」
彼が頷く。
「あんなに良い娘は、なかなかいませんよ。どうして愛してあげないのですか」
オブラドスが、やや困った顔をする。
「弱ったな、君にそう言われると困る。だが、私が愛しているのは君だから。他の娘を愛す事は出来ないんだ。許して欲しい」
真っ直ぐにそんな事を言われては、ベアの方だって困る。
「私は自分の事がわからなくなります」
「どうしてだ、君はとても意思の強い娘に見えるが」
「……貴方の事を嫌いなのに、貴方の事を憎からず思う心もあるのです」
思い返せば、最初からベアの心は彼に惹かれていたのだ。
「……それはなんと、初耳だ」
彼は大げさな程、驚く。
「では、君の中には少しでも私を好ましく思っている心があるのだね」
ベアは頷く。
「ほんの少しだけですけど」
「そうか……」
彼はしみじみと嬉しそうに、言う。
「良いんだ、わずかでも君が私を好いてくれるんなら、私は嬉しい」
しかしベアは眉を寄せた。
「でも、これはまがい物です。チャスが私にかけたまじないです」
「なに」
「チャスが私の料理に、貴方の事を好きになるようにまじないをかけているのを見ました。だから、私の心は貴方に傾いたのでしょう」
ベアは俯く。
「これは、本当の愛ではありません」
オブラドスが立ち止まる。
「それは違う」
彼がベアを見下ろし、頬にそっと触れる。
「それは君の本当の感情だよ、ベア」
「でも、チャスが……」
「小鬼のチャスにそんな力は無い。ただ、形ばかりのまじないをやっていたに過ぎない。おまえ達だって、力の無いまじないを願いを込めてやるだろう。あの程度の物だ」
ベアは驚き、目を見開く。
「では、私の心は……」
「君の感じた物は、君の本当の心だ」
ベアは体が震えるのがわかった。間近で見たオブラドスは美しく、目眩がするようだった。
「貴方が嫌で無いのなら、この接吻を受けて欲しい」
彼の顔がそっと近づいて、ベアの唇にキスをした。ベアは避ける事も無く、そのキスを受け入れ、体を震わせた。感じた事の無い程の、緊張をしている。そして彼にキスをされると、心が沸き立った。
「ありがとう」
そっと彼が離れて行く、それをベアは引き止める。彼は驚き、そして今度はゆっくりとベアの体を抱きしめた。彼の腕に抱かれて、彼の胸に顔を寄せてベアは自分の心の真実を見た。
ベアの心臓は早鐘のように鳴っている。頬は熱く、彼の香を嗅ぐと目眩を覚えた、そして背を抱かれていると全身に得難い幸福を感じられた。
-私はこの人を愛している……!
それは驚くべき真実であり、床が抜けるような現実だった。
■
彼はベアを酷い方法で手に入れた。けれど、彼の方にも事情がある事をベアは理解した。彼がベアを手に入れるのに急いだのは、彼が冥界の神だからだ。休みの取れない彼は、五十日だけ限定して地上にやって来てお嫁さん探しをしたのだ。結果、彼はベアを見つけたが事を急ぐあまり非道な手段を取ってしまった。しかし、それは彼に助言した別の神のせいもあったらしい。本来、神は傲慢だ。しかし彼は、そんな中でも哀れみのある神のように思えた。数百年休まず死んだ魂達の為に働き続けた彼は、立派な神なのだろう。冥界は薄暗く怖いところだが、それは魂達を慰め一時の眠りにつかせる為の場所だからだ。とても尊い仕事だ。死だけは、誰も避けられない。その死を彼は受け止めてくれるのだ。ベアも死ねばいずれここに来るのだろう。きっと彼は生真面目に導き、しばしの休息を与えてくれるだろう。
ベアは自分の胸に手を当てる。彼の事を考えると、胸が痛む。それが、恋の兆しの兆候なのだとベアにはわかっていた。嫌うと決めていた彼の事をベアが愛し始めているのだと。
「ねぇ」
部屋で物思いに耽っていると、声をかけられる。足下を見れば、またあの蛇が居た。
「こんにちは蛇さん」
彼の姿を見るのは久しぶりの事だった。
「ベア、君はまだココから逃げたいかい?」
蛇が尋ねる。
「え……」
ベアは迷う。以前のようにはっきりとは答えられなかったのだ。
「実はね、君の父が病気になってしまったんだ」
「なんですって」
ベアは驚く。
「君を生贄に出してから、精神的に参ってしまったみたいでね。とても危ない状況だ」
ベアは眉を寄せる。
「そんな……」
「ベア、君がここから逃げたいと言うのなら、僕は君に手を貸すよ」
「本当に?」
「とても大変な事だけど、必ず君をここから出してあげる」
ベアは少し悩む。しかし、父の事が心配だった。
「わかったは、お願い私をここから出して」
蛇が頷く。
「僕に着いて来て、今ならオブラドス様は仕事で忙しい」
ベアは頷いて彼に着いて行く。建物から出て、蛇の後を追いかける。小鬼の達の目を盗んで、岩の道を進む。
「こっちだよ」
知らぬ道をベアは着いて行く。
「もうすぐだ!」
蛇はそう言って、穴の中に飛び込んだ。ベアは、小さな穴を見て止まる。ベアがどうにか入れるくらいの小さい穴だった。
「ベア、早く!」
ベアは思い切ってその暗い穴に飛び込む。
「きゃっ」
暗い穴を抜けて、穴の底で尻もちを着く。
「蛇さんどこなの」
暗い洞穴の中に声をかける。少し前に進むと、後ろで音がした。
「キャッ!」
誰か落ちて来たらしい。
「誰?」
振り向いて目をこらす。
「私よ、メルケルスよ」
それは確かにメルケルスの声だった。手を伸ばして、彼女の手を握る。
「どうして貴方がココに?」
「貴方が穴に落ちるのが見えたから、慌てて追いかけて来たの。怪我は無い?」
「え、えぇ。大丈夫よ」
ベアは申し訳ない気持ちになる。
「でも深い穴ね、どうやって出ましょうか」
落ちて来た、穴の入り口はもう見えなかった。
「……メルケルス、私は地上に出ようと思うの」
嘘はつけないので、彼女に真実を話す。
「まぁ、そうだったのね」
「ごめんなさい……私、父の事が心配で」
「貴方のお父さまがどうかしたの?」
「父が病気らしいの。だから私、不安で」
「それは大変だわ!」
メルケルスがベアの手を両手で握る。
「すぐに地上へ出ましょう」
「メ、メルケルス」
「道はこちらで合っているの?」
「たぶん……蛇さんが案内していてくれていたのだけど……」
「蛇?」
「そう、蛇が道を教えてくれたの」
「そうなのね……わからないけど、一旦進むしかなさそうね」
「えぇ、そうみたいね」
暗い洞窟の周囲を触れて見たが、横道などは無いようだった。二人手を繋いで、洞窟の中を歩く。歩いている内に暗い洞窟の中に目が慣れて来る。ここも、岩壁がうっすらと青白く光っているのだ。
「こんな時に不謹慎ですけど、なんだか冒険のようでわくわくしますね」
メルケルスがそう言った。暗く狭い洞窟の中だが、彼女と一緒にいるおかげでそれ程不安では無かった。
「ふふっ、そうね」
「私、こんなにわくわくするのは初めてです。きっと、お友達と一緒だからね」
「お友達? 私が?」
「あら、違いましたか? ごめんなさい」
メルケルスはあからさまに、悲しそうな声を出す。
「いえ、違うの。貴方と友達で嬉しいわ。でも、貴方にとって私は恋敵じゃないかしら」
恋敵のはずなのだが、初めて合った日から彼女は毎日のようにベアのところに尋ねて来て一緒に刺繍をしたり、本を読んだりした。生まれたばかりの無垢な彼女と話しているのは、とても楽しかった。
「ふふっ、恋敵なのかもしれません。けれど私はベアさんの事も好きです、だからお友達になれて嬉しいんです。だって、初めて出来たお友達ですから」
美しい程、純粋な彼女の言葉にベアは心が動かされる。
「私も嬉しいわ……貴方は親友よ」
まだ過ごした時は短かかったが、彼女程ベアの心が動く友達はいなかった。こうして話している今も、ベアの心は彼女に対して大きく動いている。
「親友! 嬉しいわ」
彼女の明るい声がする。
「じゃあ、親友のベアさんに一つ告白をします」
「あら、なあに?」
「私は花なんです」
「貴方が花?」
「はい、けして咲かない花でした。百年以上この冥界に蕾のままでいたんです」
暗い冥界に花などあるのかと、ベアは驚いた。
「愛の女神ローリー様が、オブラドス様を心の底から愛している者を探しておられました。そして、私は選ばれました。私は、確かにオブラドス様を愛していましたから」
メルケルスは優しい声で言った。
「私がずっと蕾のままだったのは、彼の側を離れたく無かったからです。ずっと、彼に恋をしていました。だから、こうして一時でも人の体が得られて幸せだった。例え、この恋が叶わぬものだとしても……」
その時、暗い洞窟を進んでいた二人の前に光が見える。
「あれは、地上の光じゃない」
「まぁ、本当だわ」
二人は、協力して狭い洞窟の中を進む。
「ベア様、地上に出てお父さまに会ったら、また冥界に戻って来てくださいますか」
その問いに、少しだけベアは黙る。そして、口を開いた。
「えぇ、戻って来るわ」
「……それは良かった」
出口の岩に手をかけて、ベアは光の溢れる地上に顔を出した。風が顔を撫でていく。周りは、ごつごつとした岩の広がる山だった。頭上に登る太陽が、ここが地上なのだと教えてくれた。
「必ず戻って来てくださいね……」
メルケルスはまだ岩の中だった。
「メルケルス、貴方も一緒に出ましょう」
洞窟はずっと一本道だった。ここしか出口は無い。
「いえ、私は日の光の下には出られないのです」
「そんな……」
それでは、メルケルスはずっとこの洞窟に閉じ込められてしまう。
「ベア様、どうぞお気になさらず行ってください。私なら大丈夫です。それよりも、お父さまのご病気が心配です……」
ベアは眉を寄せる。
「私は一度、冥界に戻るわ。きっと近くに、冥界の入り口が別にあるはずよ」
「そんな、いけません」
「いいえ、貴方をこのまま置いてはいけないわ。一度冥界に戻って、きちんとオブラドス様の許可をいただく」
まずメルケルスを助けない事には、ベアの心が納得できなかった。
「メルケルス、必ず戻って来るから待っていてね」
彼女と手を繋ぐ。
「そんな……ありがとうございます、ベア様……」
メルケルスは瞳にうっすらと涙を浮かべていた。やはり、ここから出る手段など彼女は持ち合わせていなかったのだ。彼女の瞳を見て強く頷き、穴から出る。辺りを見渡して、ベアは歩き始めた。この場所は、最初にオブラドスに冥馬で連れて来られた場所のようだった。ならば、どこかに冥界への入り口があるはずだ。あれは大きな穴だった、探せばきっと見つかる。ベアは岩山を駆け、穴を探し回った。
しかし駆けても駆けても穴は見つけられなかった。次第に日が落ちて来る。太陽が赤くなっても、ベアは穴を見つけられていない。岩の続く山はどこも同じ場所のように思えた。
「はぁ、はぁ……」
ずっと走っていたベアは立ち止まり、荒く息をする。完全に日が落ちれば、穴を見つけるのはもっと難しくなる。その前に見つけたかった。再び走る。そしてベアの願いも虚しく、太陽は落ち辺りは暗い闇に包まれた。虫の声も聞こえない山の中をベアは歩き続ける。日中からずっと走り続けたベアに、もはや走る体力は残っていなかった。
「まっててねメルケルス……」
足を引きずるようにして歩き続ける。その時、少し先の地面がボコリと盛り上がった。
「!」
地面から、骨の死体が立ち上がる。
「な、なにっ!」
次々と、地面から死体が出て来る。骨だけの者もいれば、まだ肉の残った者もいた。青白い炎に包まれた彼らは不気味な動きでベアに近づいて来る。死体は、生きた人を襲う。それは、少しでも新鮮な体が欲しいからだ。ベアは疲労した足を無理やり動かして、逃げる。
「助けて! 誰か助けて!!」
死体達は大して動きは早く無かったが、なにしろ量が多かった。次々地面から出て来て、ベアに襲ういかかろうとする。
「はぁ、はぁ」
ベアは息が切れても立ち止まる事が出来ず、必死で走った。悲鳴をあげる余裕は無く、死にたくないので必死に走った。
-誰か!
必死に走った甲斐があったのか、死体達を振り切ったようだ。追いかけて来る死体はいない。
「はぁ、はぁ、やった」
荒く息をしながら、後ろを振り返りそして前を見る。しかし、暗い山の中に、誰かが立っているのを見て驚く。
「なんだ、まだ死んでいなかったのか」
その派手な女性には見覚えがあった。彼女は、以前冥界に来たばかりの頃にベアに道を教えた人だった。
「人間と言うのは相変わらずしぶといな」
女が突如、姿を変える。体が盛り上がり、胴が伸びて巨大な蛇になったのだ。
「きゃっ!」
ベアは驚き、後ずさる。
「穏便な手を何度も使ってやったと言うのに、何故オブラドスから離れない!!」
女は怒っているようだった。
「ど、どう言う事」
「おまえまだ、僕に気づいていないのか、全く愚か過ぎる女だな」
その声に、ベアは聞き覚えがあった。
「そんな……貴方、あの蛇なの!?」
いつもベアが困っていると声をかけてくれた蛇を思い出す。
「そうだよ! 全く、思い通りにならない女だ! 直接手を下すと後々面倒だからと、回りくどい手を使っていたが……こうなっては仕方ない!」
蛇が口を開いてベアに迫って来る。
「きゃっ!!」
大きな岩の後ろに避ける。
「忌々しい!」
蛇が体を動かして、岩の裏のベアを狙う。ベアは岩とは反対の方向に再び避けて、蛇の体の横を通り過ぎて走る。体が大きい分、小さなベアを攻撃するのは厄介のようだった。それを見計らって、岩から岩に逃げて行く。
「小賢しい手を!」
怒った蛇が、尾で辺りの岩を全て投げ飛ばしてしまった。
「!」
岩の間の小さな穴に体を潜り込ませて、ベアは運よく助かった。
「ベア、どこだ! 出て来い!!」
穴の中でベアは体を震わせる。蛇が地面を進む音が聞こえる。
「見つけたぞ」
顔を上げると、蛇がすぐそこにいた。
「きゃーーー!!」
ベアは悲鳴を上げて、目を閉じた。今度こそ、死ぬのだと思った。
「お待ちなさい!」
目を開けると、遠くにメルケルスが立っていた。手から、植物の蔦のようなモノを出して巨大な蛇を掴まえている。
「ふん、花の娘か。おまえに何が出来る」
蛇は面白がるように、体を引く。蔦が、一本二本と脆く切れてゆく。
「ぐっ……」
「冥界でしか生きられぬおまえが地上に出て来て良いのか。太陽は無くとも、月の光もまたおまえの体を焼くのだぞ」
メルケルスは立っているだけでも辛そうだった。
「そうだとしても……私はこの蔦を離しません。けして、その方を傷つけさせはしない」
メルケルスは苦しげに眉を寄せる。
「ベアは、オブラドス様の妻です。あの方の大事な方を、おまえに奪わせわしない!!」
「ふん、ぬかせ!」
蛇は体を振って、蔦ごと彼女をなぎ飛ばした。
「きゃっ!」
遠くの岩肌に メルケルスは叩きつけられる。
「そんな!」
蛇は絡みついた蔦を噛みちぎり、再びベアを見る。
「さぁ、おまえも殺してやろう」
ベアは穴から出て駆け出す。彼女に救って貰った命を、無駄には出来なかった。
「まだ逃げるのか、無駄な事を」
蛇の声が間近まで迫る。それでもベアは最後まで、 生きる事を諦めなかった。
「無駄では無いさ」
低い声が闇に落ちる。そして、冥馬が空を駆け、蛇の頭を槍が貫いた。
「ぐっ!」
馬車が駆け、ベアを掴まえる。
「すまない、また助けるのが遅くなった」
眼下に蛇の姿が小さく見える。槍で頭を穿たれた蛇は、しかしまだ生きているようだった。
「留めを刺そう」
オブラドスが、下に手をやると蛇の周囲の地面が盛り上がり、巨大な骨が蛇を飲み込んで咀嚼した。
「!」
地面と一緒に、蛇は飲み込まれていった。そして、辺りは静かになる。遠くに死体達が見えた。みな、動きを止めて地面に倒れている。
「オブラドス様! メルケルスが!!」
ベアは彼に詰め寄って、彼女の飛ばされた方を指差す。オブラドスは、馬の背を打ち馬車を飛ばす。ベアはすぐに彼女の姿を見つける。馬車が地面に下りると、すぐに彼女に駆け出し側に寄る。
「 メルケルス!」
唇から血を流した彼女は、そっと目を開ける。
「ベア様……無事に助かったのですね……あぁ、オブラドス様がいらっしゃる……良かった……」
彼女は優しく笑みを浮かべる。
「オブラドス様、彼女を助けて」
彼女は頭からも血を流し、体にも血が滲んでいた。
「いいえ、私はもう助からないでしょう……一時の間でしたが、貴方とお話出来て良かった……オブラドス様と、お会いで出来て良かった」……」
彼女は安心したように笑みを浮かべた。
「心残りはもうありません、えぇ、何も……ありがとうございました。ベア様、オブラドス様」
そうして彼女は目を閉じた。ベアは目を見開く。
「そんな……」
オブラドスが彼女の側に屈む。すると彼女が青白い光に包まれ、形を変えた。それは、青白い魂だった。彼はそれをそっと片手に灯して立ち上がる。
「ベア、冥界へ行こう」
「……えぇ」
彼と共に馬車に乗り、長く暗い道を抜けて冥界へ帰る。馬車は神殿の裏に下り、彼は暗い道を行く。ベアもその後に続く。そして長い間歩いた後に、驚くべき場所にやって来た。
「!」
そこには、青白い花が咲いていたのだ。まだ、つぼみのままのモノもいる。しかし、一面に青白い花が咲いていた。冥界に美しい花畑があったのだ。
オブラドスが屈んで、地面に メルケルスの魂を埋める。すると、地面から小さな芽が生えて、すくすくと成長し、つぼみをつけ、そして花を咲かせた。青い花弁の美しい花だった。
「魂は冥界の土に埋められ、、一時休み、そして花になる。花になった魂は実を付け、次の魂へと転生する。冥界とはそう言う場所なのだ」
ベアは、 メルケルスの魂を見る。それは本当に、美しい色と姿をしていた。全身から輝きを放っている。
「前世で精神的にも肉体的にも傷ついた者は、転生に時間がかかる。 メルケルスもそうだった、彼女は……幼くして死んだ。愛無き親に育てられ、口減らしの為に捨てられ、そして山で鳥についばまれて死んだのだ」
ベアは眉を寄せる。飢餓による子共の死は、ベアの村でも多かった。
「けれど、こうして花を咲かせる事が出来た。きっと君のおかげのだろう。君が良い友になってくれたから、彼女は再び生まれても良いのだと思ったのだ」
ベアは自然と涙が落ちるのがわかった。 恋敵でありながら、メルケルスがとても無垢だった理由を理解した。彼女は小さな子共だったのだ。青い花が花びらを閉じ、そして光が次第に弱まり小さな石の欠片になる。ベアはそれを拾い上げる。水晶のような、白い石だった。中に、虹色に輝く光が見える。
「それが彼女の花の落とした種だ」
「とても綺麗です……」
「あぁ、再び生まれる魂の輝きだ」
ベアは メルケルスの美しい魂の輝きを、いつまでも飽きる事無く見つめ続けた。彼女の事をけして忘れぬように、目と心に焼き付けた。
■
メルケルスの魂は天界に運ばれた。近い内に、新しい命として地上に再び生まれるらしい。そしてベアは、今も冥界に居た。冥界の神、オブラドスの仕事をベアは見て、彼の仕事を尊いものだと感じたからだ。そして、父の病気は嘘だった事も知った。あれは、蛇の言った嘘だった。あのヘビはゼーラーと言う悪魔で、前々から オブラドスの妻になり冥界を好きにしようと狙っていたそうだ。だから、妻のベアが邪魔だったのだ。
神殿の外で待っていると、オブラドスがやって来る。
「すまない、少し遅れた」
「いいえ、大丈夫です」
べアは彼と手を組んで、冥界の花畑へと向かう。そこでは次に転生する為に魂達が休息している。ベアとオブラドスは彼らを優しく慰めて、次の転生へと導く仕事をした。ベアはこの美しい花畑が好きだ。それから、この仕事を数百年真面目にこなし続けた彼の優しさが好きだ。
花畑を見下ろして、ベアは小さく笑みを浮かべる。
「どうかしたか」
隣に立った彼は、不思議そうに声をかけて来る。
「いつか、彼らの内の一人が私達の子になるのかと思って」
「…………そうだな」
長い沈黙の後の返事だった。
命は生まれて、死に、そして再び生まれる。
ベアとオブラドスは、輝く命の花畑でそっとキスをした。
おわり




