第六章
第六章
1
――年も改まり、磨月の二十五日。
年末年始の慌ただしさもようやく落ち着いた頃合いでもあるこの日、エルシエルをはじめとする一行はハイダラアリア領に来ていた。
ハイダラアリアはファイデル家の領地コーントリルの東に位置する。なだらかな台地を有する、ワインの製造と林業が盛んな土地だった。双方の領地に跨る丘陵地帯サバル山地、そこから流れるサバリア川が互いの領地の境界だった。
約十日間に渡る長旅の末、一行はようやく夫人のいる城へと到着した。ファイデル家本宅からならばこんなにかからないが、如何せん星流宮は領地最北の、いわばど田舎にあり、コーントリルを横断する必要があった。幸いだったのは夫人が領都ハイドルの居城ではなくアーミストンという町にいたことで、もし領都までとなればまだ五日はかかる。
やってきたのはエルシエル、リオレイル、ゼルデン、ディアナの四人。エルシエルはメイド姿だ。ゼルデンは当然執事として、リオレイルは親戚筋の子という体裁で諸外国を遊学中という口実だ。ディアナはと言えば長衣を来た青年貴族姿である。群青の長衣の襟元と袖の折り返しには銀の刺繍が施され、揃いのベストには濃い青の蔦の模様が縫いこまれた仕立てのよい一揃いだ。元々背の高いディアナはそれらを見事に着こなし、リオレイルを模して切られた髪は少し長めだが、はらりと零れる前髪が絶妙で、奇妙な色香すら漂わせていた。
「本人よりよほど伯爵令息っぽいかもね」
そうリオレイルに言うと同様の感想を抱いていたのかリオレイル――今はネロが、憮然とした表情を浮かべた。そんなネロもまたきちんと正装をしており非常に見目麗しい。ただ少年の装いなので色気よりもどちらかと言えば愛らしさがあった。
応接用の部屋はいたずらに豪華――否、華美で、目を回しそうになるくらいに部屋には金色が溢れていた。ビロード張りのソファは縁から肘掛けにかけて金色。サイドテーブルも猫足の先に至るまで金色。シャンデリアもクリスタル部分以外はすべてが金、飾り鏡も金色、絨毯も紫の中に金糸で花が描かれ、梁も金なら壁も金が基調だった。ここまでしつこく飾られるとなんだか胡散臭く感じるが、どれもこれも本当に高価な品だろうことは言われずともわかる。
「口、開いてるぞ」
リオレイルに袖を引かれ、慌てて押さえると、アーチ状の入口から一人の女性がやってきた。淡いピンクがかったドレスは部屋着なのか、胸元に僅かにレースが飾られているだけの質素なものだった。それでも目を瞠る美貌にエルシエルはまた大きく口を開けてしまった。
「なんのご用?」
入ってくるなりサッシュトン夫人が言った。その声は明らかに不機嫌なものだ。部屋着で出迎えるという無礼も、そんな彼女の心理を表しているのかもしれない。
訪問することは事前に手紙で知らせてある。なんの連絡もなく訪問するのは勿論失礼だが、万が一、不在なんてことがないようにという手回しでもある。ようやく到着したら夫人はいませんでしたでは話にならない。
座るように促されリオレイル役のディアナとネロ少年のリオレイルが腰を下ろした。メイド役であるエルシエルはリオレイルの隣に控える。
「ご無沙汰しております、夫人。本日はお時間を頂きありがとうございます」
口を開いたのは一歩前に出たゼルデンだった。
「先日――と言いましてももう随分と前になりますが、王宮でお会い致しましたこと覚えておいででしょうか?」
「……どうでしょう、お会いしたかしら?」
夫人の目がゼルデンの全身を見回したのがわかった。舐めるような視線というものをエルシエルははじめて目の当たりにしたが、あまり気持ちの良いものとは思えなかった。
「覚えていらっしゃらないのでしたら、それはかえってよかったです」
忘れててよかったなどという発言に夫人が目を丸くする。
「実はあの時、私の主人が非常に失礼をしたようでずっと気になっておりました。本人も気にしておりまして一度きちんとお詫びを申し上げたいと、そう考えておりました。それなのに、これ程に遅くなりまして重ね重ね申し訳ないことでございます。実は大旦那様――失礼、ファイデル伯が体調を崩しておりまして。なかなかお伺いすることができず、このような時期になってしまいました」
ゼルデンが続ける。
「おかげさまをもちまして伯の体調も整い、ようやく時間が作れるようになりましたので、新年のご挨拶とともに、失礼を承知でまかり越した次第でございます」
よどみなく流暢に述べるとゼルデンは丁寧に一例をする。
「伯より手紙を預かっております。まずはこちらをお受け取りください。それから、これらは我がコーントリル特産のワインでございます。無論、ハイダラアリア産に比べるべくもございませんが、これもまた味わい深いもの。是非にもご堪能頂けたらと存じます」
恐ろしい営業スマイルだ。星流宮にいる時にあんな笑顔を見たことがあっただろうか。
「リオレイル様」
促されてディアナが憂いたっぷりの顔で夫人を見つめる。
「その節は大変な失礼をいたしまして申し訳ございませんでした」
――なりきってる! っていうか、楽しんでいる。
普段からアルト気味の声だがさらに低く作った声が妙にはまっている。しかも零れた前髪をかきあげる仕草が恐ろしく艶めかしい。エルシエルは思わず本物の方に目を向ける。ほんの僅かに寄せられた眉が偽リオレイルに対する不満を表しているようだ。
「あの後、このゼルデンにも祖父からも厳しく注意されました」
「厳しく?」
「ええ、それはもう。こっぴどくと言いますか」
肩を竦めて冗談めかして答えるディアナに夫人の目元が緩む。
「別に、気にしてなくってよ」
美男子二人を前に夫人は科を作って羽扇を広げた。
「でもわざわざいらしていただけるなんて、とても嬉しいわ」
はにかんだような微笑は年に似合わぬ少女っぽい可憐さを感じさせる。もしかすると根は悪い人ではなく、ただ単に我儘で自己中心的というだけなのかもしれない。
……とはいえ、そんな人物が権力を持つと大変なことになるのだろうが。
「せっかく遠路をお越し頂いたのですもの。今日はゆっくりとしてらしてね。まさかこのまま帰るなんておっしゃらないでしょう?」
「夫人のご都合さえよろしければ夕食などご招待頂けますと、大変光栄に存じますが」
「勿論よ。是非そうなさって。そうでなくては嫌よ」
ゼルデン兄妹の手柄なのか、夫人は機嫌よく一行を夕食に招待したのだった。
「言っておくが」
不機嫌というよりもどこか疲れたような声でネロことリオレイルが言う。
「俺はあんな風になよなよしてないし、あんなに気取った仕草はしないからな」
「気取った仕草?」
おうむ返しに問うたエルシエルにディアナのことだとリオレイルが続ける。
「何をするにしてもいちいちこう、手足をだな、無駄に動かすアレだ」
ディアナは髪をかきあげるのも襟を直すのも一度ぴんと腕を、しかも指先まできっちり伸ばしてから行っていた。まるで舞台の役者のように、立ち上がる時も組んだ足をいちいち高く上げてから弧を描くようにするという奇妙な振る舞いをしていた。
「でもかっこいいからいいんじゃ――」
よくない、とリオレイルが遮った。それからじろりと睨んでくる。
「まさか、お前はああいうのが好みだったりするのか?」
「好みって言うか、思ったよりもディアナかっこいいなって」
さすがにゼルデンと似ているだけあると感心する。
「つまりは、ゼルデンが好きということか?」
「それは絶対にありえないけど……何を血迷ってるんですか?」
首を傾げると、リオレイルは別にとだけ答えてぷいっと目を逸らす。子供っぽい仕草な上に膨らんだ頬がますます幼く見せる。
――可愛い。
「おい……これは何の真似だ」
「あ、いや。なんか柔らかそうだったので……つい」
柔らかそうなほっぺたを思わず摘まんでしまった。案の定ぷにぷにと柔らかかったが思ったよりも冷たかった。その手をリオレイルがむすっとした顔で振り払う。
「シェル、あまりあの兄妹を褒めるな」
「どうして?」
面白くないと答えるふてくされた声がおかしくて、エルシエルは素直に頷いておいた。ネロの時にはあまりなかったが、本来リオレイルは感情を表に出すタイプのようだ。
夕食までは自由にということで各自割り当てられた部屋へと引き上げていた。夫人の見栄か、執事やメイドであるゼルデンとエルシエルにも部屋が与えられたが、ネロ付のメイドという役割のエルシエルはネロの部屋に来ていた。一方偽リオレイルであるディアナはゼルデンから伯爵に必要な知識を教わっている。馬車の中でも説明を受けていたが食事会ともなれば深い話になる可能性もある――が、もしかしたらやりすぎのダメ出しを受けているかもしれない。
「なあシェル」
「なんですか、ネロ様」
「……なんだか、そっちの方がひどく呼び慣れている気がするな」
こちらに来て大半を星流宮で過ごし、その間ずっとネロと呼んでいたのだ。それに今はネロとしているのだからこちらの方が都合がいいのは事実だ。
「確認しておきたいことがあるのだが」
ディアナに指示された通り、荷物の中から衣服を取り出し皺を伸ばしてクローゼットに掛ける。一通りの作業を終えてからエルシエルは手招きに応じソファに座るリオレイルの隣に腰を下ろした。
「お前は、大丈夫なのか?」
大丈夫とは何か、わからずにエルシエルはきょとんとした。
「試験もだがお前自身は問題ないのか。お前は天使で、悪魔とは対極なのだろう。関わりを持つことについて何ともないのかと思って」
リオレイルのことで試験が遅延するのは致し方ない。推察したエイドリオの願いが孫との対面ならこちらの解決が必要である。だが、天使である身が真逆の存在である悪魔と深く接することが、果たして好ましいのだろうか。
そう言ってリオレイルがエルシエルを見やった。
「言ってみれば俺のこれは自業自得だ。本来ならお前を巻き込むことじゃない。それなのに随分と無理をさせている。立場的にもそうだが、体調とかには影響が出たりはしないのか?」
幾度か瞬いてから、エルシエルはゆっくりと口を開いた。
「あの、それって……あたしのこと心配してくれてるってこと?」
「それ以外に何がある」
心の中がほんわりと温かくなった。向けられた真摯な瞳から偽りない心情が感じられた。こんな風に、誰かに気にかけてもらえるというのはやはり嬉しい。思わず顔が綻びそうになる。
「大丈夫ですよ」
「本当か?」
リオレイルが問うた。
「嘘はいけないんだろ。きちんと本当のことを言ってくれ」
嘘はいけない。それは堕ちることに繋がる。けれども人を傷つける嘘がいけないのだ。誰かを救う嘘ならいいのではないか。もしそれで堕ちるなら、それはそれで仕方ないように思えた。
「俺はお前に何かあるくらいなら、元に戻ることは諦める。このまま爺さんと会ってもいいと思っている。悪魔と対面してない今ならまだ間に合うかもしれない。だから、もし、障りがあるなら――」
「ほんとに大丈夫!」
眉を寄せるのに、もう一度大丈夫と告げる。
「大丈夫じゃなかったら、こんなことしないもん。ほんとに平気」
心配いらないのだと微笑むとリオレイルが弱々しい笑みを返した。念を押すようにしつこく繰り返すのをひたすら大丈夫だからと宥める。
「その言葉を信じることにする、が――」
大きく息をつきながらリオレイルがエルシエルをまっすぐに見た。
「無理なことだけはしてくれるなよ。これは、俺の願いだ」
言って、苦笑する。
「試験はエディ爺の願いを叶えることだから、俺の願いなんてのは何の価値もないが」
深い星空のような目が柔らかな光を宿す。途端に何かがつかえたような胸の苦しさにエルシエルは息が出来なくなる。
「お前には無事に天使になってほしいと思っているから」
「……」
射抜かれたように動けぬエルシエルの頬に小さな手が伸びる。指先が触れた瞬間――はっとしたようにリオレイルが手を引いた。
「悪魔の力が伝染したら困るな」
冗談めかして笑うとリオレイルは勢いよくソファから立ち上がった。大きく伸びをする背中を、エルシエルは見つめる。
僅かに触れた指先。頬が熱くなるのと同時に感じたのは冷気だった。生きている人間の体温とは思えなかった。そして感じる波動の弱さ。
地上に生きる者はみな生命の波動を持っている。人間でも、動物にもある。それが魂の強さであり、生きている証である。それは体温も含め、波動自体が熱さを持っているのだが。
――こんなに弱っているなんて。
疼痛がすると語っていたことを思い出す。自分といると少し和らぐのだと。
痛みは術が発動しようとしているために違いなかった。リオレイルの生命力をここまで浸食しているとは気付かなかったが、発動予定である誕生日が近いゆえに、より大きく力を吸い上げているのかもしれない。寄生し、発動時期を待ちながら、宿主であるリオレイルから生きる力を奪い続ける。先程摘まんだ頬が冷たく感じられたのもそのせいかもしれなかった。
「っ――シェル」
背中を向けて立つリオレイルをエルシエルは背後から抱き寄せた。少年らしい澄んだ声が一段高くなる。慌てるリオレイルに構わず、膝立ちのままの姿勢で回した腕に力込めた。身体全体は冷ややかなのに、頬を押し当てた背中だけが熱いくらいだ。
「そんなもの、うつったりしないから!」
「え?」
「全然平気だよ」
「……シェル」
衣服を通して伝わる己と相反する気が頬にちりちりと痛みを生んだ。
――このまま消してしまえればと思う。移すことで治るのなら、いっそこの身に宿ればいいのに。そこまでの力が自分にあればいいのに……だが、現実にはそんな力はない。
ならばせめて、自分の体温が届けばいい。一緒にいることで少しでも和らぐというのなら、こんな痛みくらい、大したことではない。
「大丈夫。絶対に解けるから」
負の心は術を助長する。それでは余計に魂の力が削がれてしまう。
絶対に解いてみせる。必要なら悪魔と取っ組み合いの喧嘩をしたって構わない。
――だから、負けないで。
「うん」
リオレイルの冷たい手がエルシエルの手に重なった。少しでも温めたくて、手の平に包むと、それをリオレイルが握り返す。
「ありがとう、シェル」
応じた声は宿す体温とは異なり、エルシエルを安心させるように温かいものだった。
「ちょっとダリア、どういうこと」
先程までの優雅な姿はそこにはなかった。荒々しく入るなり羽扇を床に叩きつける。ソファで転がっていた人物はいきなり投げつけられた言葉に眺めていた本を取り落しそうになった。
「話が違うじゃない」
ヒールが折れるかと思うくらい力強い足取りでサッシュトン夫人はソファに詰め寄った。
「ぴんぴんしてるわよ、あの小僧」
「ぴんぴん?」
ダリアと呼ばれた少女は首を傾げた。
「全くなんの問題もなく、健康そのもの。憎らしいくらいに綺麗な顔もそのままよ」
「んー……おかしいなあ」
「おかしいなじゃないでしょ!」
夫人の風圧を伴ったような癇癪声にダリアはぎゅっと目を瞑る。
「でも、確かに術はかけたはずなんだけど……」
ダリアは指を鳴らす。そこにぽんと煙が生まれて一冊のノートを吐き出して消える。それをぺらぺらと捲りながらしきりに首を捻る。
「あんた、悪魔なんでしょ! 私の望みを叶えるんじゃなかったの!」
「叶えますよ。それが役目ですから」
内心、うるさいなと思いつつノートを確認する。
言われるまでもなく術が完遂していないことはわかっている。夫人の言葉で言うなら「望みが叶え」ば報酬がダリアの身に感じられる。報酬は金銭ではなく、代価としての夫人の寿命十年――無論、夫人がそんなことを知るはずもないが――本来ならそれが力となり、悪魔としての能力が増幅されることになる。だが、ダリアは受験生だった。最終実地試験として夫人の元に送り込まれた見習い悪魔であった。その為、ダリアに対する代価は能力の増幅ではなく、左手の甲に刻まれる正式な悪魔としての認証となる。成功した時点で刻まれるはずなのだが……未だにそれは現れない。
参考にしているノートは授業で習い覚えた術式だ。教本の持ち込みは許されずノートだけが人の世界へ持ち込める唯一の参考書だった。自分が用いた術を確認し、再びダリアは首を捻る。
「間違いないはずなんだけどな」
「はず、じゃないでしょ!」
悪魔(見習い)であるダリアがその怒鳴り声にびくりと肩を震わせる。
「役に立たないモノになんて用はないのよ!」
「わかってますよお」
なんだって自分はこんな人間に割り当てられてしまったのだろうとしみじみ思う。
自分たちが相手にするのは黒い部分を持ち合わせた人間に限定される。そうなると一癖も二癖もあるのは珍しくないとは知っている。ダリアは試験参加が三回目で二度の失敗経験があった。だがそのいずれと比較しても――一番タチが悪い。悪魔である自分に対し怖れるでもなく、最初から上から目線。望みを叶えるという胡散臭い誘い文句に対しても何の躊躇いもなく、
「あの小僧を殺してちょうだい」
と依頼する図太さ。悪魔よりもよほど極悪だ。なんと恐ろしい。
「確か、この屋敷に来るんでしたよね、その伯爵っぽい息子」
「もう、来てるわよ」
間髪入れずに夫人が答える。
「だからもう一度やってちょうだい。今度は確実に」
「はあ」
「なによ、その不満そうな態度」
だいたい、と夫人が続ける。
「私が自らあなたを呼んだわけじゃなくて、あなたが自分から売り込んできたのよ。それを失敗するなんて、恥かしいと思わないの?」
売り込んだって、とダリアは内心で呟く。
悪魔の試験も天使の側と大差はない。あらかじめ決められたターゲットを試験官が洗脳し望みを聞き出す。異なる点は望みをずばり教えてもらえるというところだ。天使は術を行使するのではなくその心根や思いやるという善の部分が試されるのに対し、こちらは的確に術を施すことが試される。相手の意を汲み取るような回りくどいことは不要とされた。
「もう一回やってみますから」
くどくどと続くお説教を聞き流し、夫人が息切れしたのを見計らって言った。文句を言うことに疲れたのか、吐きだして満足したのか「今度こそ頼むわよ」と言い残し去って行った。
「自分でやれそうだな、あれ」
突如、声とともに室内に羽音が響く。窓も開いていないのに現れたのは艶やかな黒い羽毛を持つ小振りな烏だった。
「ほんとに。すごい人間もいるもんだよね」
「ほんとだな」
あれこそ真の悪魔だと一人と一羽はしみじみと頷きあう。
殺す呪術は試験では認められない。それは夫人も納得してくれた――試験ということを理解したかは不明だが、できないということは理解してもらえたのだ。それならば二目とみられない不細工顔にしてくれというのが願いだった。
「で、どうするんだ?」
どうするもこうするもとダリアは黒一色のゴシック調の衣装を纏った肩を竦める。
「この屋敷にいるんでしょ。なら今度は遠隔じゃなくて直接やってみるよ」
2
晩餐はなごやかに終わった。
腹にどんな思いを抱えていようと表面的にはあくまで穏やかに、そして優雅な時間が流れた。
いかにも名残惜しいとばかりに卓を離れ、各々が各々の部屋へと引き上げる。こちらの目的は呪術の解除であり、悪魔との対決である。月の魔力を有効に使うことのできる夜の方が悪魔の活動時間だとは話してあるので、これからが本番となる可能性は大いにある。本当はさっさと自室に戻りたいはずだろうに、わざとらしく名残を惜しむなんて、なんというか人間世界の偉い人々というのはすごく難しくできているのだなとエルシエルは奇妙な感想を抱いたものだ。
一度自室へ戻った後、四人は密かにリオレイル――滞在しているのはディアナだが――に割り当てられた部屋へと集合していた。
「お前はベッドで寝てもらう。もし悪魔が現れれば間違いなくベッドへ向かうだろうからな」
ゼルデンがディアナに指示をする。
「ゼルデンさんはどこにいるの?」
不本意だが、とゼルデンが答える。
「適当な隠れ場所がない以上、仕方がないから寝台の下だな」
「兄妹なんだもん、一緒にベッドで――」
却下、と異口同音の反応が兄妹の口から発せられた。
「俺はあそこのクローゼットにでもするか」
「なら、あたしも一緒に」
目を丸くしたのはクローゼットに手をかけたリオレイルだった。
「仕方ないでしょう。他に適当な隠れ場所もないですから」
ゼルデンが同調するのにエルシエルも頷く。
二間続きの一室は寝室の役割が大きい客室だった。寝台とドレッサー、サイドテーブル――ここでも金色主体だ――その他には衣服と荷物を置くためのクローゼットがあるばかりだ。別室にはソファと浴室があるが、浴室に潜んだのでは少し離れてしまう。
「それにね、悪魔が近くに来たら紋様が疼くかもしれないから」
術が強くなり、痛みが増す可能性があるが、自分が一緒なら少しは軽減するかもしれない。
「……そうか」
リオレイルは少し複雑な表情を浮かべる。すまないと言うのに問題ないと笑顔で応じて、エルシエルはそうだと手を叩いた。
「みんなに渡しておくものがあるの」
ごそごそとポケットから白い羽根を取り出す。
「天使の羽根はね、一度だけなら悪魔の術を無効にできるらしいって聞いたことがあるんだ」
「そうなのか?」
聞いたことがないと眉を寄せるゼルデンにエルシエルは噂だと説明した。
「楽園――あたしのいたところでの噂だし、確証があることでもないの。それにあたしはまだ見習いだからどこまで効果があるかわからないけど」
「これはシェルの?」
「気色悪いかもしれないけど、でも、ないよりはいいかなって。一応ね」
ディアナがエルシエルの手から一本抜き取る。言葉はなく、その代わりに一度強く抱きしめるとそのままベッドへと横になった。
「見習い天使、か」
ゼルデンが手を差し出した。その手に羽根を乗せると、珍しくゼルデンが微笑む。ぽんぽんと頭を叩いて持ち場へつく。そんな二人の兄妹を眺めてリオレイルが苦笑した。
「あの二人。なんだか、戦地へ向かう兵士みたいだな」
確かに奇妙な緊張が部屋に広がっていた。
「ごめん、あたしが悲壮な雰囲気にしちゃったのかも」
気にするなと笑ったリオレイルがクローゼットへと潜りこむ。エルシエルもまた衣装の中に一緒に紛れ込んだ。
――果たして、悪魔はやってきた。
しかもご丁寧にきちんとドアを開けてやってきた。と、言うのも……。
「これよ、ダリア。こいつこいつ」
悪魔には案内人がいたのだった。
「間違いなく、確実にやってちょうだい」
「わかってますから、うるさくしないでください。起きちゃうじゃないですか」
囁き声だというのに気が立っているせいなのか夫人の声は大きい。それに応じる少女の声は明らかに迷惑そうだった。
「簡単に言ってくれちゃって」
「何か言ったかしら?」
いいえ、と半ば疲れたような口調で答えて、悪魔はなにやら本を見始める。
「えっと――」
悪魔――ダリアが眠る偽リオレイルであるディアナに手を翳す。そして先程までの呑気な声とは違う澄んだ声音で詠唱しはじめた……が、声は麗しく響くのにところどころたどたどしい。
「アルサラーナ、えっと、ア、アル……アルサラリーナ、アルクラーナ……ダリア!」
翳していた手を改めてディアナに向けた、瞬間――空気が急激に冷えた。かと思うと、部屋中に眩い光が広がる。
「え、なに――反射」
ダリアが咄嗟に顔を覆う。夫人も目を瞑りその場に蹲った。
「きひいやああっ!」
ダリアが奇妙な悲鳴を上げた。
「おばおばおばおばお化け、化け物、足、足、あああしいいい」
己の足を掴む不気味に白いもの――ゼルデンの手袋をはいた手だが――を視界に捉えると、ダリアはさらに悲鳴をあげる。人から見れば自身も同類に分類されるのだとは露ほども思わないのか、盛大な悲鳴を上げ、腰を抜かしたダリアはあっさりとゼルデンに捕らえられた。
「シェル、灯りだ!」
クローゼットから飛び出したリオレイルがカーテンを開ける。差し込んだ月明かりの助けを受けてエルシエルが燭台に火を入れた。明るく照らされた室内、乱れたベッドの脇に一冊の黒いノートが落ちており、羽扇子と恐らく夫人のものだろう、ヒールの踵が転がっている。その横で、夫人の方もしっかりとディアナに押さえつけられている。
「これはこれはご婦人方」
少年の声に夫人と悪魔がのろのろと目を向けた。予想外の展開に何が起きたのかまったくもって理解不能なのだろう。ダリアも夫人も呆然とした表情を浮かべている。
「こんな夜分に、どうされました?」
夫人から返る言葉はなかった。それもそうだろう。まさか呪いに来たと言えるはずもなく、恐らく言い逃れをするだけの余裕もないに違いない。
「まあ、リオ様」
ゼルデンが柔らかな声で呼びかけた。
「立ち話しもなんです。せっかくいらしてくださったんですから、失礼のないよう、しっかりとおもてなしをしてさしあげませんと」
「そうだな」
ゼルデンが美麗極まりない絶対零度の笑みを浮かべる。応じたリオレイルもまた少年姿に似合わぬ貫禄でにやりと笑う。そしてディアナが言葉もなく不気味に微笑む。
――この三人、こ、怖すぎる。
ファイデル家に巣食う三悪人。悪魔よりもよほど凶悪な笑顔のいじめっ子たちを心底恐ろしく思うエルシエルだった。
「悪魔の手を借りるとは、随分と味な真似をしてくれる」
ソファに座り足を組むのは少年姿のリオレイルだ。その目の前でサッシュトン侯爵夫人が地べたに座らされていた。相当な屈辱であろうが、今の彼女に抗議するだけの気力はないようで、打ちひしがれたように項垂れている。仮に何かを言いたかったとしても魔王のようなオーラを漂わせるリオレイルと夫人では明らかに夫人の方が分が悪い。
「ですが、もう、これであなたは私に手出しはできない」
リオレイルがひらひらと一枚の紙を振った。
それは夫人の署名入りの謝罪文だった。端的に言えば「呪ってごめんなさい」「もうしません」というものである。サッシュトン侯爵家の家紋入り便箋な上に夫人自らの筆跡である。しかも念入りに指紋まで押印させているあたりが徹底している。もはや言い逃れはできない。
「あなたも愚かなことを。こんな性悪に弱みを握られたら、後が大変になるだけだというのに」
書面を丁寧に畳んで封筒に入れたゼルデンがしみじみと言う。その口調もまた大いにサディスティックな匂いがするのは気のせいではあるまい。
だってと夫人が駄々っ子ようなぐずり声で言う。
「寂しかったんだもの」
何不自由ないと思われていた夫人は彼女なりに不遇をかこっていることがわかった。それは、
「夫が、女に興味がなくて、若い男ばかりを追いかけてるなんて!」
わあっと夫人が泣き伏す。
何を隠そうサッシュトン侯爵は男色家だったのである。家柄も見た目も文句ない侯爵。降嫁とはいえ夫人は夫に不満はなかった。ところがである。結婚しても夫婦の営みはなく、問い詰めれば男が好きだとの答え。それだけならまだしも女性アレルギーなのだと告げられたのだ。
「それには同情致します」
若い男を、それも召使いばかりを狙ったのは夫がそうだからだ。好みの男子がいなくなれば自分に振り向いてくれるかもしれない。そんな屈折した考えが彼女を色魔にさせた要因だったのだ。とはいえ、多少なりとも彼女自身にそういう素質があったろうことは否めないだろうが。
そんな事情があると知ったために今回はこの程度で済ませてやろうというのがファイデル家時期当主と執事の見解だった。ただし、次にまた問題を起こしたら容赦はしないと断言する。サッシュトン侯爵家の醜聞は先の宣言書とともに夫人自らの筆跡で残されている。それが明るみに出るとあっては夫人もファイデル家に、いや、ファイデル家に関わる者たちに手出しをすることはできないだろう。
後日であるが、ゼルデンはこの時の書面を家宝にすると言った。
「夫人の遺伝子が受け継がれれば将来的に夫人のような色魔が再臨するかもしれない」
その時には大いに役立ってもらおうということらしい。
――かくして、夫人のことはこれで解決を見たと言えた。問題は悪魔の方である。
「ちょっと、これ、解いて」
と、言っていると思われる。もごもごと猿轡をされた口では何をいっているのかさっぱりわからない。手足を縛られ部屋の隅で芋虫のように転がされた悪魔ダリアはディアナの監視下にあった。どんな技術を持っているかわからないのである。何事か呪文を唱え消えられても厄介だと、夫人よりも相当に酷い扱いをされていた。
本来の目的は術の解除である。夫人のことを片付けるとゼルデンはダリアを引っ立ててきた。
「すっごく苦しいよ。殺す気」
口が解放されるなりダリアは抗議した。
「そっちだって俺を殺す気だったんだろうが」
「はあ?」
ダリアは宝石のような緑色の目をいっぱいに開く。
「そんなことするわけないよ、なんてこと言うの、恐ろしい!」
悪魔の口から恐ろしいという言葉が出るのはどこか奇妙だった。
「じゃあ、何をするつもだったんだ」
ダリアが何かを言いかけるのと部屋のガラスが割れるのとは殆ど同時だった。破片と一緒に冷たい風が部屋へと吹き込んでくる。その場の全員が咄嗟に顔を伏せ、唸る強風をやり過ごす。
「ダリア!」
舞い込んできたのは一羽の烏だった。小振りではあるがその黒色は地上の烏よりも艶めいて僅かに燐光を放っている。
「フォルク!」
「逃げるぞ、ダリア」
烏が答えた。ただの烏でないことは明らかだ。
「だめ、逃がさない!」
エルシエルが必死にダリアの服にしがみつく。そこへフォルクと呼ばれた烏が空中に嘴で素早く紋様を描き、エルシエルに向けて放った。
天使とは違い、悪魔は多数の技を持つ。防御する術を天使は心得ているが見習いの身では修得していない。どんな攻撃かわからぬまま、為す術なく思わず目を瞑るとリオレイルが飛び込んだ。光が炸裂しエルシエルの羽根とフォルクの放った術とが相殺される。
「くそ!」
打ち消された魔術が風を呼び、部屋を荒らす。燭台が消え、闇となった中で艶やかな烏の姿が浮き上がって見えた。続けて魔法円を描くも、今度はゼルデンが阻止をした。
だが、これで羽は使い切ったことになる。ディアナに渡した羽根はダリアの術を反射するのに既に使われていた。
再びエルシエルが羽を出すよりも早くフォルクが紋様を描き切る。身を投げ出そうとした矢先、エルシエルの前を何かが過った。
――え
それは白い塊だった。フォルクの放った魔法円が突然現れた白い塊にぶつかって弾ける。白い塊――それが何か、エルシエルは考えるまでもなく理解していた。
「パパリ」
炸裂する光の中で、エルシエルの悲痛な声が響いた。
「パパリ!」
強烈な光に目を焼かれ、視界がなかなか像を結ばない。それでもエルシエルは必死に友の名前を呼んだ。
「パパリ、どこ!」
大事な親友だった。楽園でも時折、様子を見に来てくれて勉強を教えてくれたりもした。何をさせてもダメな自分をいつもからかうけれど、なんだかんだ言って最後は手を貸してくれる。今回だけではない。これまでにだって何度助けてもらったかしれない。
「パパリ、パパリ」
四つん這いになって探すエルシエルの額に冷たいものが触れた。
「落ち着いて、エルシエル」
優しい声だった。ひんやりとしたものは誰かの手だというのはすぐにわかった。声同様に柔らかな掌からは香しい芳香が漂い、耳にした声はここにいる誰のものでもなかった。
掌が離れると視界が戻っていた。真っ暗なはずの部屋はほんのりと明るい。燭台の火は消えたままなのに何故か――その答えはすぐ目の前に立つ人物にあった。
「――え」
呆然としているのは自分だけではなかった。リオレイルも、それを守るように立つゼルデンも、夫人を庇っていたディアナも同様に目を瞠る。さらには悪魔であるダリア、今の今まで攻撃をしていたフォルクまでもが唖然として、突如現れた人物を凝視している。
「そんな、まさか……」
やんわりと微笑むのは、麗しさに少女のような可憐さを合わせ持つ美しい女性。
「ジ、ジブリール様」
呼ばわったのはあまりにも著名な天使のものだ。その名は地上にも知れ渡っている。天使見習いである自分にとっても雲の上ならば、人からすれば現実のものとは思えない存在であろう。
「パパリが、ジブリール様……?」
「まさか!」
割って入った声は聞き慣れたものだった。慌ててその姿を探すと小さな羽ばたきの音とともに真っ白な小鳥が肩に下りてくる。
「ああ――パパリ!」
「し、死ぬ、死ぬってばシェル!」
エルシエルは小さな体をしっかりと握りしめる。大丈夫か、怪我はないかと急き込むように尋ねるとパパリがひしゃげた情けない声をあげた。
「ごめん。つい力が」
思わず強く握りすぎたことを詫びるとパパリが大きく息をつく。無事だったのかと問えば無論と元気な答えが返ってきた。
「で、これって……どういうこと?」
「こういうこと」
冗談めかして応じたジブリールが華のような笑顔を浮かべた。
「少しの間、パパリと変わってもらってたの」
鈴を転がすような声が言う。
「パパリからね。わたしのお気に入りが大変なことになってるって聞いたから」
「お、お気に入り?」
「ええ、十回天仲間」
あまり嬉しくないが、ジブリール様と一緒ならばいいのかと甘い錯覚に陥りかけて、いや良くないだろうと思い直す。
「なんだか悪魔が関わってるとかなんとかって、ね。あらあらと思って」
――あらあらって。
どうやら紋様の謎解きの時には既に入れ替わっていたらしい。術の知識は殆どないと言っていたはずのパパリが見事に解き明かしたのはそういう背景があったのだ。とすれば、あのやたらと分厚い本はジブリールの私物ということだろうか。そう問えば肯定の答えが返ってきた。
「図があった方がわかるかなと思って。あれね、私が書いたの」
確かにとてもわかりやすかった。ジブリールの私物だから豪勢なカバーがついていた上に何やらいい匂いがしたのかと納得する。
「それからずっとジブリール様だったの?」
いや、とパパリは首を振った。
「夫人の所に確認に言ったのは僕だよ」
ジブリールの状況に応じ臨機応変に入れ替わっていたのだと言う。
「シェル……間違いなく本物の天使様か?」
「間違いなく、正真正銘、本物の大天使ジブリール様です」
リオレイルの囁きにシェルが頷けば、ゼルデンも目を擦りながら言う。
「確かに、背景に花が見えそうなくらいに神々しい気がする。誰かさんと違って」
さすがのゼルデンも動揺しているというのに、ディアナはいつもの様子で成り行きを見ているのがおかしい。
「わたしもね、ただ仲間のために来たってわけじゃないのよ?」
ジブリールの目が悪魔と烏に向けられる。するとダリアとフォルクが身を寄せ合った。
「あなたたちも試験なのね」
え、とエルシエルもダリアを見た。ならばあの烏は彼女の試験官なのかもしれない。
「今回、あなたは失格よ」
ダリアが息を呑んだ。そしてすぐにがっくりと項垂れる。
「なぜです、大天使ジブリール。今度のことはそっちの天使見習いが」
「禁忌に触れたからよ」
フォルクの弁護を遮ってジブリールが言った。
「見習いに死の呪術は禁止。それは絶対的な決まりよ。でもあなたは使った。だから失格」
「そんな、死の呪術なんて。ダリアは――」
続く抗議をジブリールが手を上げて止めた。そのまま優雅な動きでリオレイルへと視線を移すと上げたままの手を伸ばす。
途端にリオレイルの顔が歪んだ。
「ジブリール様、何を」
「平気、心配無用よ」
無論、心配などしていない。ジブリールは大天使だ。人の命を奪うことを生業にしてはいない。それでも荒い呼吸を繰り返すリオレイルの様子に不安が募る。ゼルデンが心配げにその背中を擦る。
「ゼ、ゼルデンさん」
エルシエルが呼びかけるよりも前にゼルデンは気づいたようだ。眼前に奇怪な紋様が現れ、ふわふわと漂いながらジブリールの手元へと飛んでいくのをその目が不思議そうに追いかける。
「彼にかけられた呪術。間違いだらけだけど、色彩は赤と黒に相違ないわ」
「あ、あたしはそんな術、かけた覚えは」
「間違えたのじゃない?」
ダリアは俯く。なんと言い訳をしようと、目の前に現れた紋様がそのすべてを語っている。
「例え間違いでも、掛けてしまった時点で失格なの」
悪魔見習いでは命に関わる呪術を使えない。使う資格を持っていなかった。それはエルシエルの知るところではなかったが、意図していようがいまいが呪術の紋様が赤と黒である以上は死を意味していることは間違いない事実だ。
「見習い絡みだし、的外れな術だし、どうしたものか、ちょっと上でもごたごたしちゃってね」
意識したものではないから見逃すべきか。そもそも天使見習いの試験と関連してしまったこと自体も問題であり、上層部の手違いともいえる。
誤り、強力に歪んだ呪術は恐らく本人にも解除できないに違いない。相殺するほどの呪術を見習いの身で使えるはずもないだろう。ならばダリア本人での解除は無理だとの結論に達した。本来ならば禁忌に触れたダリアは消滅も止む無しだが、今回は特別に試験失格のみでそれ以上の処分はなしとなった。それらの結果を待っていた為にエルシエルたちが直接対決するところまでいってしまったのだとジブリールが説明をした。
「これはわたしが解除します」
ジブリールが円を描くように指を躍らせると紋様が淡い光に包まれ、そして霧散した。
「体内に残った魔力が尽きれば元に戻るわ。まだ暫くエルシエルも傍にいるし、そんなに時間はかからないと思うから安心してね」
かけられた言葉にリオレイルが小さく頷く。
「え――ってことは……あ、あたしの試験はどうなるのですか?」
継続中と匂い立つような麗しい笑顔が答えた。
「お騒がせしてごめんなさいね。でも、間もなく終わりますから」
――ご心配なく。
そう言い残してジブリールはパパリと共にダリアとフォルクを連れて姿を消した。
光源を失った部屋はすぐに闇に包まれる。静まりかえった夜と同様、あまりに信じられない出来事に口を利くものは誰もいなかった。
3
祝賀会の準備が進められていた。
引きこもりについて無事問題が解消されたことを使用人たちに報告したリオレイルは元の生活に戻った。心配をかけたことを詫びはしたが本当の理由を話すことなどできるはずもない。少し気鬱の病でといったことにしたようである。なんにせよ大事な「坊ちゃま」が久方ぶりに元気な顔を見せたのだ、原因については追及する者はなかった。それどころか、めでたいことだと勝手に快気祝いを企画しはじめた。間もなく誕生日で、簡単とはいえ祝宴が予定されているのだからやめてくれという当人の意見は綺麗に無視をし、皆が嬉々として立ち働く。ゼルデンにしても無粋な真似はできないと止めようともしなかった。無論、それにはエイドリオも招待されている。パパリの話では、ようやく孫との再会が叶うと大喜びをしたエディ爺は招待を受けた当日に星流宮を目指して居城を出発したとのことだった。
「どうした、ぼうっとして」
離宮の賑やかな雰囲気の中、エルシエルはテラスからぼんやりと庭園を眺めていた。そこへやはり手持無沙汰らしいリオレイルがやってきた。
「ひなたぼっこか?」
慣れない声だが、やや尊大な口調は既に聞き慣れたものだった。ネロ少年の時は子供っぽさを意識して話していたそうだが、思い起こせば妙に大人びていて、端々に子供らしくないところはあったような気はする。
「なんでひなたぼっこなの?」
「シェルには、ひなたでぬくぬく昼寝という姿が合っている気がする」
どんな認識だと思うものの、確かにひなたでころころするのは気持ちがいい。
「別に、どうもしません。ただ……自分に嫌気がさしただけです」
慌ただしく準備は進んでいる。エルシエルも手伝いを申し出たのだが、いずれのメイドからも他を手伝うように言われ、挙句辿り着いた先にはディアナがいて「邪魔です」の一言で追い払われてしまったのだ。
「それは仕方ないだろう。ドジだからな」
「でも、猫くらいには役に立つと思うのに」
「猫の手、な」
「……そう、それです」
いいではないかとリオレイルがエルシエルの頭に手を乗せた。
「お前はみんなの癒しみたいだから」
「え?」
「お前といると、なんだか気分がふんわりするんだそうだ」
手伝いといっても殆ど役に立たないエルシエルを使用人たちは快く迎えてくれる。ただ今は本当に忙しいのであしらわれてしまっているが普段はそんなことはなかった。その使用人たちがそんな風に言ってくれていると聞くと、悪い気はしない。
「天使様様だな」
「まだ見習いです」
これまで見下ろしていたはずの視線を見上げて抗議すると柔らかな笑みが返ってくる。ずっと一緒にいた少年が、急に大人の姿で隣にいるというのもなんだか不思議だ。深く、どこまでも続く星空のような瞳はネロ少年の時とそのまま変わらない。けれど幼さのない笑顔は包み込むように優しくて、それなのにどうしてか落ち着かない気持ちになる。
「俺は色々と助けてもらった」
温かな手が離れる。エルシエルの視線は自然とその手を追いかけていた。
散歩と称して庭を巡った際には良くつないだ手――相手は子供だからなんて思っていたが、実は大人の男だったというのはなんというか騙されたような気がしなくもない。
……あの時は華奢だったのに、今はエルシエルよりも随分と大きい。
「悪魔から解放してもらって、爺様とも会えるようにしてもらった」
「あたしは、何も」
「何もしてないなんて、そんなわけないだろうが」
リオレイルが呆れたような口調で言うと、苦笑を浮かべた。
「ものすごく頑張ってもらった。その分、のんびり休憩ってことでいいだろ」
頑張ったのはパパリであり、仕上げをしたのはジブリールだ。ここまでリオレイルを支えていたのはゼルデンであり、使用人たち。エルシエルはただほんの少し手伝っただけだ。手伝いどころか空回りしていたような気もするので、実際にどれだけ役に立ったのかは……あまり、考えたくない。
「見習い天使様は謙虚なんだな」
言って、リオレイルは顔を上げた。澄んだ青空を眩しそう見上げる横顔に目を向けてから、エルシエルもまた空を見上げた。
「シェル」
呼びかけにエルシエルはリオレイルへと視線を戻す。
「そんなシェルも、もうすぐ見習いではなくなるんだな」
横顔を向けたままでリオレイルが続ける。
「見習いじゃなくなったら、戻るんだよな」
「……」
天使になったとしても試験に失敗しても戻ることには変わらない。そしてここにいたという形跡は何一つ残らない。どのような記憶の操作が行われるのかはエルシエルにもわからないことだが、確かなのはこの目の前の青年は自分を忘れてしまうと言うことだ。
試験の回数は過去最高記録と並ぶ十一回。その間に触れあった人の数は知れない。関わった人々から忘れられることなど既に慣れっこだった。仕方のないことだし、彼らの心に温かなものを――例え記憶から消えてしまっても――残せたのならそれでいいと思っていた。試験とはそういうものだし、天使自体人々の空想にあるものだと思わせておかねばならないものだから。
それでいいと思っていた。ずっと、そうあるべきと思っていた。
――それなのに。
この青年の記憶から自分がいなくなると思うとどうにも心がざわつく。今向けてくれている笑顔。もし次に顔を会わせるようなことがあったとしても、もうこの笑顔を見せてくれることはないのだ。他人を見る、冷ややかな視線が向けられることを想像するとどうしようもなく恐ろしくて苦しくなってくる。こんなことははじめてだった。
「リオ様には、最初からすごくお世話になりました」
「なんだ、改まって。もう挨拶か?」
冗談めかした言葉にエルシエルはなんとか笑顔を作る。ここからエイドリオの姿が見えた瞬間エルシエルの試験結果が決まる。だから話していられるのはもうほんの僅かしかない。
「とても楽しかったです。ここの人、みんないい人で。ディアナも無愛想だけどすごく美人で優しいし。頑固で偏屈だけどなんだかんだ言ってゼルデンさんもいい人だし」
相変わらず眉間に皺は寄ったままだが今ではだいぶ怖くなくなった。
「リオ様ともたくさんお喋りしましたね。まあ、ネロ様の方だけど」
たくさん話した。おやつを食べて、散歩をして、遊んで。庭で寝転がったまま気が付いたら日が暮れていたなんてこともあった。
「一緒に洗濯もしたし、お水掛けちゃったりして怒られたりもしましたね」
話し続けるエルシエルを見つめていたリオレイルが目を瞠った。
「洗濯競争はできなかったですね。あとクッキー対決もまだでしたけど、まあでも、多分、どっちもあたしの方が上ですよ。ケーキはあたしの方が上手に焼けたし。それからそれから――」
リオレイルの腕がエルシエルを引き寄せた。その胸に押し付け、エルシエルの涙を止めようとするかのように頭を抱く。
「シェル。俺は、お前を忘れるのか?」
「――」
「……そうなんだな」
否定しなくてはいけないのにできなかった。否定したところで無駄だったかもしれない。だが、エルシエルの立場からは否定するのが正しい反応だ。
リオレイルの腕に力がこもった。縋るようにエルシエルもリオレイルのシャツを握る。皺の寄ってしまった淡い青のシャツが涙で色を変えていく。
――忘れないで。
嗚咽と共に漏れそうになる気持ちを必死に堪える。言っても意味のない言葉だ。リオレイルの記憶は消される。勝手な自分の気持ちを押し付け、いたずらに心を乱すだけでしかない――だが、それすらも消えてしまうのだろうけれど。
「忘れない」
迷いのない、強い声がした。
「忘れない、絶対に」
恐らくはリオレイルにも口にする無意味さはわかっているに違いない。それでも、そうだとわかっていても聞きたい言葉だった。力の籠る指に、リオレイルはそんなエルシエルの想いを感じたのかもしれない。
「約束する、シェル」
無駄でも嬉しかった。無意味でも、嘘でも嬉しかった。己を包む力強い温もりと一緒にくれた言葉が胸に沁みていく。
ずっと側にいて、ずっと助けてくれた。天使とは遠くにある、けれど美しい夜闇の星空。それを瞳に持つ青年。他の誰が忘れても、この青年にだけは覚えておいてほしかった。
忘れないでと。そう願わずにいられない。彼が覚えていてくれるなら。忘れないでいてくれるのなら――天使になれなくてもいい。消滅しても構わないから。
テラスに近づく人の気配に、エルシエルはリオレイルから離れた。呼びに来たのはゼルデンでエイドリオの出迎えをするよう伝えにきたものだった。
厳しい表情のリオレイルにエルシエルは笑ってと頼んだ。美麗なわりに繊細とは言い難い、少々腕白坊主のような笑顔はネロ少年の時と変わらず、大好きな表情だった。
笑ってくれたリオレイルにエルシエルはやはり笑顔を返した。記憶に残らずとも、万が一にも脳裏によぎるようなことがあれば、それは笑顔の自分であってほしいと願って。
「名残惜しいか」
ふわりと下りてきたのはパパリだった。鼻を啜り、エルシエルはそうだねと正直に答える。
「よくわかんないけど……どうしてか、なんか、すごく――苦しい」
でも、と思う。
リオレイルを助けることができた。エディ爺と会わせてあげられた。それはよかった。自分の望んだことを叶えられたことはとても嬉しく、そういう意味では心残りは……ない。
「そうか」
大きく息を吐きながらパパリが言った。
「成長したんだな、シェル」
呟いた言葉の意味がわからず、エルシエルが瞬く。
「パパリ、それってどういう――」
「お、来たみたいだぞ」
パパリの声に目を向ければリオレイルたちが馬車から降りたエイドリオを迎えるところだった。おおよそ二年ぶりに会えて感動のしたのだろう、エイドリオが孫を抱きしめている。
エイドリオの願いを叶える――それは孫と会うこと。
その瞬間が訪れ、エルシエルの前に白銀に輝く弓と金色に煌く矢が現れた。
もし推察通りエイドリオの願いが孫に会うことならば、この弓を放った時点で合否が決する。
エルシエルは弓矢を構え、エイドリオに狙いをつける。目を瞑り、大きく息を吸って吐きだすと弓を放つ。
金色の帯を引いて、それはまっすぐにエイドリオへと向かった。




