第五章
第五章
1
やや黴臭い気がするがそれは不快ではなかった。書棚の奥から引っ張り出した古い紙の匂いはどちらかと言うとなんとはなしに懐かしくてほっとする。楽園の書物も相当に古いものばかりで、よくこんな匂いがしていたのを思い出す。
燭台の炎の下、時折舞う埃に顔を顰めつつ黄ばんだページをめくる。ぱりぱりと乾いた音を立て、今にも破れそうな紙を気遣いながら書写した紋様と見比べながら文面を読み解いていく。
並ぶ文字列。見慣れてもいるが難解でもある。古い書物にあるのは古代魔術文字なので理解するのはかなり困難だ。どうしてもっと熱心に勉強しなかったのかと今更ながらに悔やまれる。そもそも天使はあまり古代魔術を学ばない。それこそ呪詛解除を専門にしない限り殆ど無縁のものだった。授業も基礎の基礎を学ぶだけであり、エルシエルもそれを自ら進んで掘り下げようとはしなかった。
「広く深い見識って重要なんだよね、やっぱり」
己の未熟さにとほほと項垂れたところで頭が良くなるわけでもない。せめて辞書でもあればいいのにと心の奥で文句をいいながら、刻まれた文字と照らし合わせる。
「あのさ、形がわかったら呼べって言ったはずだよね」
顔がくっつくかというくらいに本に齧りついていると、突如頭上から声が降ってきた。
「パパリ! びっくりした、脅かさないでよ」
どこからともなく現れた小鳥が、白い羽を羽ばたかせて降り立った。
「これがその、例の?」
頷くと、パパリが真っ黒な瞳を細める。
「ものすごく見事に再現されてるような気が……」
赤と黒。茨にも似た飾り二重線の間を文字が埋める。皮膚の下から浮き上がるようにして明滅する独特の紋様はリオレイルの背骨に沿って描かれていた。肩甲骨の間から腰にかけて、身体の中心の骨に絡みつくようにして古代文字が螺旋を形作っていた。
「お前さん、実は悪魔か?」
実際、エルシエルにとっても会心の出来の写しにパパリは驚きを隠すことなく言う。
「そういえば、絵は上手だったっけかね」
ドジでのろまで、人がいい以外に取り柄がないと言われるエルシエルの唯一といってもいい特技だ。無駄な特技だとパパリがぼやくのに大きなお世話だと返しつつも、天使に絵を描く仕事はないので生かしどころのないのはわかっている。
「見るからに不快だな」
パパリがつらつらと眺める。
「多少ならなんとかなるかななんて思ったんだけど……ふむ」
パパリがエルシエルを見上げた。
「で、何か参考になる本は見つかった?」
まだ、とエルシエルが首を振る。
「たくさんあるし、それに」
「それに?」
「古代文字、嫌いなの」
「ああ、だろうね」
成績がどうということはないが、ある程度の水準は必要である。一応選ばれているのだからそれなりの成績は納めているものの、無論それなり以外の何者でもない。
「ちょっと眺めてみるかな」
呟いて、パパリが飛んだ。色々物色しているのか書棚の間を白い姿が行ったり来たりしている。彼なりに何かを探してくれているのだろう。エルシエルは引き続き本と格闘することにして目を落とした時だった。
どすんっと何かが落ちる音がした。乾いた音からして本だとは思ったが、そこに何かの呻き声が聞こえたのは気のせいではあるまい。
「……パパリ?」
音がしたと思しき方向へ向かうと、重量級の書物の下でもがく白い塊が見えた。
「きゃああ、パパリ!」
慌てて友人を助け出す。大丈夫か問うとすぐに頷きが返ってきてほっと息をついた。
「助かった、死ぬかと思ったよ」
エルシエルでも片手では持てないくらいの恐ろしく分厚い本だった。文鳥と変わらない大きさのパパリには立派な凶器である。いや、人間も当たり所によっては充分に危ないと思える。
「運べるんじゃないかと思ったんだよ」
どこをどう考えて可能だと判断したのか、その根拠を知りたい。
「こ……この本が何か?」
「なんとなく見たことがある気がするんだ」
重量級の見た目に合わず表紙は可憐な白で、よく見ると凹凸があり、それは中心部で薔薇のような形になっている。心なしかここにはそぐわないようないい香りがしなくもない。
「わあ、すごい。これ」
ぺらぺらと捲りはじめてエルシエルは感嘆の声を洩らした。
大抵の魔術書、特に地上のものは分かりづらいものが多い。小難しい文章が並び、小さく紋様が描かれ、効果を解説するのが一般的だ。あくまで地上の本なので悪魔による術まで掲載されているものは非常に珍しく、方法や解除までともなればさらに少なく難解で探すことすら大変である。さらに言えば人間が解説したものだから古代文字の解読が違っていたりするものもある。それについては自信がないので「そうだっけ?」と疑問を抱きつつ読むしかない。結果、解読が意味不明になったりするので余計に時間を費やす結果となるのだが……。
「超わかりやすい!」
まず紋様がある。そしてそれについての色合い、形の解説。古代文字に関しての詳細な説明が記載されている。他人を驚かせるだけという一風変わった受難や、水難、火難など、成績を落とす、病気にさせるといった様々な魔術がわかりやすく説明されていた。
「この、転ばせる呪術なんて、是非覚えたい」
こほん、と咳ばらいがしたので、エルシエルは背筋を伸ばして改めて読み進めていく。
「赤と黒の紋様って……」
「赤は命、黒は死。種類は不明でも、黒って時点で明らかに命を狙ったものに違いないね」
パパリが一緒に眺めながら口を開いた。死なんて、あまり口にしたい言葉ではなかった。
「ほっといても人はいずれ死を迎えるってのにわざわざ願うなんて。恐ろしい生き物だよね」
人は誰しも死ぬ。寿命がある限り人は死から逃れることはできない。命は永遠ではない。永遠なのは紡がれていく人の心だけ。それはある意味素晴らしいが、失われるものがあることは否めない。それなのに誰かの死を願う――命を紡ぐはずの人間が、そんなことを望むなんて。
「どんな症状なのさ。赤と黒の呪いなのに、生きてるんでしょ?」
「……生きてるよ?」
「なんでだろ」
言われてみればそうだ。二十一歳の誕生日に発動した。それは間違いない。その日からリオレイルは少年の身体になったのだから。
でも、生きている。赤と黒の魔術は人の命に関わる呪術で発動したら死に繋がるはずなのに。
「青はないよね?」
「なかった」
黄色はなかったかと問うのに否と答えながら、エルシエルはパパリを見やった。
「青とか黄色って何?」
「呪術の構成に関わるものだよ」
青の紋様は基本的に時間を表す。それは発動するタイミングを左右するものだ。緑は場所、黄色は条件を示す。単に術式の部分については紫を使う。
「発動したんだよね?」
「してる」
――二十一歳の誕生日に子供になる。
発動した結果を魔術の色で言うならば全部で三色で描かれるはずである。呪術の地の部分にあたる紫、子供に戻るという時間に作用を指示する青、誕生日という発動条件を示す黄色となり、リオレイルの身に起きたことだけを言えば赤と黒を使われる要素は見当たらないのだ。
仮に単に死を求めるだけならば赤と黒、もしくは黒だけでも十分だ。魔術が刻まれ、発動するまでには長くとも一日だとされ、遅くとも翌日には死を迎えることになる。誕生日に死ぬと発動条件を指示するならば赤と黒に加え、発動の指示を示す黄色かその時間を指示する青が必要で、どちらにしろ色が不足している。エルシエルが書き写してきた紋様では結果と呪術が不一致ということになるのだ。
「パパリ」
「なに?」
「博識だね」
「授業でやったけどね」
そうだったろうか。全く覚えがないエルシエルは静かに視線を逸らした。
「本当にこれ間違ってない?」
「間違ってないよ。だってちゃんと見せてもらって書いたんだもの」
「直接?」
「そうよ、当たり前じゃない」
「男の裸?」
エルシエルがぱっと頬を染めた。
「パパリまで! どうしてそういう言い方するのよ」
「そんな風にからかわれたんじゃないかなって思ったんだよ」
くすくす笑うパパリにエルシエルは首を傾げる。
「パパリ、術がかけられてるのが誰か知ってるの?」
「ネロって子だろ?」
話した記憶はなかったが見回りの時にでも知ったのだろうか。そう問うとパパリは頷いた。
「一応、不正がないか確認しないといけない立場だからね」
それがパパリの本来の仕事である。
「色が参考にならないから、形だけ似たのを探すしかないな」
大変そうなパパリに代わってエルシエルがページをめくる担当を引き受けた。似たような図柄があれば書き写した紋様と相違箇所を探すという作業を続ける。こうしてみると非常に多くの呪術の方式があるのだとつくづく思い知らされる。
「パパリ、大丈夫なの?」
パパリが顔を上げた。
「こんなに協力してくれて」
見逃すだけでも大助かりなのにこんなに時間を割いてくれて。試験官は時に見習い達の授業教官を務めることもある。それ以上に優秀なパパリには他にも抱えている仕事があるだろうに。
「シェルが心配することないよ」
「でも」
「僕もおんなじことしたくなったのさ」
エルシエルが首を傾げるとパパリの黒い目が細くなって笑ったような表情になる。
「見過ごせない十回天の真似をしてみようかなって。だから僕の勝手な行動」
眉を寄せるエルシエルにパパリは大丈夫と笑った。
「僕は結構無責任だから。いざとなったらシェルを見捨てて保身を図るよ」
「そうね。パパリは要領もいいし、調子いいとこあるもんね」
そういうことと応じるパパリに笑顔を返して本に目を戻した。
しいて明るく言ってはみたが恐らくそんなことはしない。いつの話かは知らないが見習いを庇ったパパリは一度試験官の資格を剥奪されたことがある。随分と長く別の仕事に携わり、復帰後初仕事の担当がエルシエルの第一回目の試験だった。何もわからない自分の面倒を親身になって見てくれた。それ以来の友人だ。ぶっきらぼうだけど、本当はとっても優しいパパリ。感謝してもしきれない恩を感じている。
「パパリ」
「んー?」
「ほんとにありがと!」
エルシエルがパパリを両手で抱き締めた。
「ほぎゃ!」
パパリが変な声を上げて目を白黒させる。
「こ、殺す気」
抱いたといっても相手は小鳥である。熱い思いに、気付けば握りしめていた。ぷりぷり怒るパパリに平謝りを繰り返す。やがて互いに笑い合って、二人は再び作業を開始した。
2
弓月の末日の夕刻。エルシエルは隣の部屋の扉をノックした。顔を出した少年姿のリオレイルに室内へと誘われながら、エルシエルは顔を顰める。
「どちらの名前で呼べばいいんでしょう」
「どちらとは?」
「本当はリオ様とわかってるわけでしょ。でも対面的にはネロ様だし。未来の伯爵様に対等な口をきくのもなんだし」
「そう言ってる口調も既に敬語ではないな」
笑い含みに言われてエルシエルは目を丸くする。いくらリオレイルだと知っても、子供の姿を前にするとどうしても口調が崩れてしまう。やりずらい、それが正直な感想だった。
「ネロの方が口慣れているならそれでいい。敬語など、最初から不要だ」
一方のネロ改めリオレイルはすっかり普段通りの口調らしい。主語も僕ではなくなり、どことなく尊大な口ぶりは貴族の御曹司といった雰囲気が充分に漂っている。
「そうは言っても、あのネロ様はもういないのだし」
「死んだみたいな言い方をするな」
似たようなものだとエルシエルはしゅんとする。
「とっても可愛らしいおぼちゃまでした。優しくて、思いやりがあって。今、目の前にいるのはディアナが尊敬する意地の悪い皮肉王ですもん」
「……褒められてるのかけなされてるのか複雑な気分だ」
リオレイルが憮然とする。
「僕としてはどちらでもいいから、シェルが楽な方で接してくれればいいよ」
エルシエルは生ぬるい視線でリオレイルを見やった。
「気持ち悪い」
「……このやろう」
見た目との違和感はないが、正体を知ると、なぜだか、鳥肌が立つような寒気がする。普段のリオレイルを知り、ネロの正体も知っていたゼルデンはこんな気持ちだったのかもしれない。
「で、何か用なのか?」
「忙しかった?」
いやと答えつつも何やら書面を片付ける。恐らくは領主としての仕事と思われた。小さい身体のままでも書類整理は問題ないので、これはゼルデンに頼まずにいるようだ。
「もう一度見せてもらえないかと思って」
リオレイルの目が光ったのが見えた気がしたので、エルシエルは慌てて補う。
「裸云々言うのは却下です。あたしが見たいのは紋様です。用があるのは紋様だけですから」
「そういう予防線を張るってことは意識してますと宣言してるようなものだからな」
「なんなんですか、その下品な笑い方!」
せっかくの美しい面が台無しである
「まったく……なんで裸を見たいってなるのよ。その捻くれた考え方はおかしいでしょ」
「おかしくない。しかも、そんな赤い顔で言われたらよけいにそう思うのが普通だ」
エルシエルは己の頬を抑えるが、抑えるまでもなく火照ったことはわかっていた。
「ネロ様だったらそんなこと言わないのに。やっぱりもういないんだ……」
ぼそぼそと呟くとそれが存外効いたようで、リオレイルの方が言葉を詰まらせた。その後は無言でシャツを脱いだ。
「この間、書き写したんじゃなかったのか?」
クッションを抱え、後ろ向きに胡坐をかいたリオレイルが口を開く。貴族の子息としては行儀の悪い体勢だが、如何せん、エルシエルが良く見えるようにと気を使ったためである。
「理屈に合わなくて」
やはり赤と黒のみの螺旋だ。心なしか色合いが濃くなっているように思う。
「何の理屈だ?」
「説明しますね。あ、もう着ていいです。さっさと着ちゃってください、さっさと」
「……なんなんだ、その投げやりな言い方は」
ぶつぶつ文句を言いながら衣服を整える間にエルシエルはテーブルの上に持ち込んだ本を乗せる。何度持ってもとんでもない重量だ。
「多分、これだと思うものの目星がつきました」
しおりを挟んできた場所を開き、書き写した紋様と並べる。
「ほんとか」
頷くもなんとなく複雑だった。何を隠そう、目星をつけたのはパパリだ。エルシエルは彼の立てた推測を説明しに来ただけである。どうしても手柄の横取りという気がしてしまう。
「リオ様は自分の紋様、何色かわかってた?」
「ぼんやりならな。濃い紺色みたいのと赤っぽいのと」
「赤と黒です」
「ああ、そうかも」
「赤と黒は単純に相手を殺すための術なの。この彩色した紋様の通り」
書き写した紋様に彩色したものを差し出す。
「で、使われた術式はこれだと思います」
分厚い本をリオレイルの側に向ける。そこには良く似た鎖状に絡む螺旋の紋様がある。
「赤と黒だけで言えば本当ならリオ様は死んでるはず。術をかけられた日か、翌日には」
リオレイルは目を瞠った。
「でも実際に起こったのは『誕生日に子供になった』です。確かに子供にするというか若返るという術式はあるんだけど、それには赤と黒は使わないものなの」
術に若返りがある。幾つかを示すものはその術中の古代文字を紫色で直接書き込む。誕生日にという指示をするならそこは黄色ないし青を使い組み込むが、発動したリオレイルの若返り状況に必要な黄色も青色も紋様には存在しない。
「これはリオ様の紋様と一番近いと思う術式の紋様なんだけど、この術、なんだと思う? これは若返りなんだよ」
誕生日という発動条件は不足するが、起きた結果とはほぼ一致している術式である。
「で、こっちにも似たようなのがあって。これは呪詛。明らかに相手を殺すためのもの」
「……似てるな」
「そうなの。でも、決定的に違うのは」
色かとリオレイルが問うのにエルシエルが頷く。
「ちょっと待て。本来、死の呪詛をやるはずが間違って若返りを赤と黒でやったってことか?」
「その可能性があります。でも、ほんとはどっちをやりたかったのかまではわからなくて」
紋様を見るリオレイルに一方を指し示す。
「こっちの死を発動させる方だった場合だと単純に赤と黒。でも発動したのが誕生日なのでその条件を入れる必要があるんだけど、それには呪詛の中に誕生日の日付を示す青なり、誕生日という条件を発動させる黄色が必要だから少なくとも三色にならなくちゃいけない」
説明されたことを咀嚼しているのか僅かに間を置いてリオレイルが頷く。
「じゃあ、こっちの若返りはどうかっていうと。そもそも赤と黒でやるものじゃないけど、それはおいとくとして。もしこの術式なら基本の紫色だけでもいいんだけど、それだと一度術が働いたら消えちゃうはず。今も術が生きてるところを見ると継続させたいんだろうから、誕生日を条件づける青とか黄色がやっぱり必要なわけです」
「うむ」
「そこで考えた結果、二つ浮かびました。相手はリオ様を殺したいと考えているのは間違いない。でも使う術式を間違えたというのが一つ。もう一つは若返らせ続けたいけどいくつまでとかの条件を入れ忘れた」
だが後者はないだろう。術式の間違いがあったとしても用いる色を間違えることは恐らくない。それも赤と黒はあまりに明確だ。
「間違えるなんて、そんなことってあるのか?」
「どうでしょう……悪魔も間違えることがあるのかもしれないし」
実際、自分のような落ちこぼれがいるのだから悪魔にもいておかしくないではないか。そう言うとリオレイルはそうかもしれない深々と頷く。
「そこは否定してほしかったのに」
「俺は正直者なんだ」
正直は天使のモットーでもある。見事な切り返しにエルシエルは口を尖らせた。
「冗談だよ。シェルは優秀優秀」
肩を落とすのにリオレイルが笑った。
「天使の成績はどうか知らないが、シェルは大いに天使に適してると思うぞ」
「ほんとは思ってないくせに」
「思ってるって」
「これはあたしが専門じゃないからそこまで読み取れないだけかもしれないんだけど」
口を尖らせたままでエルシエルは書き写した方の紋様を示す。
「もしかしたら術式自体に誕生日という条件があるかもなんだよね、この辺がどちらの術式とも少し違う感じだし。とにかく死の術式が発動すればいいと考えたのかもしれないって可能性もなくはないんだけど」
それならば赤と黒のみを使用し、死の術をかけ、その結果が誕生日に若返るになったことにも一応の説明がつくことにはなる。だが、さすがに基本的な術式に術者独自の文字が組み込まれるとどうにも解明はできない。
「でもね、多分、その可能性はとっても低いと思うから除外したの」
「どうして?」
「術式がね。あまり綺麗じゃないっていうのかな」
無論、それを指摘したのもパパリである。独自に編み込むにしてもなんだか滑らかさに欠けるとそう言ったのだ。
「一応、文法みたいなものがあるんだけど、ここに何かを付け足すとなると全部がおかしくなっちゃうから、術者には独自に術式を作るだけの技術はなさそうな気がする」
「だから、間違いの方があり得ると?」
頷くと、リオレイルもまたなるほどと返す。
「……って、結構一気に話したけど、わかった?」
殆どがパパリの推理である。自分も考えを述べはしたが、本当に微々たるものだ。おかげで途中で中断すると途端にわけがわからなくなる自信があった。
暫しの間、リオレイルがそれぞれの紋様を眺める。やがて感心したように大きく息をつきながら腕を組んだ。
「さすが天使様だ。俺には術の特定すらできなかったのに、たった数日で。見事だな」
天使ではないと律儀に否定すると、リオレイルは相変わらずだと笑った。
「でも、まだここまでだよ」
エルシエルの声が沈む。さすがだとリオレイルは言うが、これではまだ不十分だ。何故なら、ここまで調べても解除する方法はわからなかったのだから。
複雑な術でなければ解くことができたかもしれなかった。それは無論パパリがである。一時期、解除を行う熾天使と行動を共にしていたことがあるらしく、その時の見よう見まねでとのことだったが、さすがに今回のようなものは無理だと首を振っていた。
「だからどうしてこんなことになったのか。そっちから考えようと思って」
エルシエルはテーブルに広げたものを片付ける。そしてリオレイルの正面に座り直した。
「『ご忠告心にとどめておきます』」
リオレイルが顔を上げた。
「これっておかしい言葉じゃない?」
「……そうか?」
「普通はご忠告ってきたら、感謝しますとかありがとうとか。そんなのが来るんだって。あたしもよくわからないんだけど」
「でも間違いではないだろう」
「そんな気もするけど、なんとなく気になる気もするの」
少なくとも、気にした人間が一人はいたのは確かだ。
「さっさとしろ夫人が――」
「サッシュトンな」
「……その夫人と何かあったんじゃないの?」
実際、呪術が誰の仕業かと話した時にすぐにその名を即答している。それを指摘するとリオレイルは華奢な肩を竦める。
「それは俺があの女を嫌ってるというだけだ。それに、あのおばさんは悪魔じゃない」
それはわかっている。王族から降嫁したという話も耳にした。出自は人に間違いないだろう。
あのね、とエルシエルはリオレイルの目をまっすぐに見た。
「解除する方法、ないの」
リオレイルが僅かに目を細める。
「さっきも言った通り、なんだか変な紋様だから。少なくともあたしにはできない」
きちんとした術式だったとしてもエルシエルに解除は無理だ。あの分厚い本をじっくり研究する時間があれば、もしかしたらどうにかなったかもしれない。が、そもそも基礎がないのだ。素人に毛が生えた程度でいきなり応用編を解くことはできない。それこそ正規の熾天使でもない限り不可能だ。
「だからね。解除するにはかけた本人にさせるしかないんだよ」
もしくは相殺するような呪術が必要となる。天使側であるエルシエルに呪術はあり得ない。また解除も技術的に無理となれば、悪魔本人に解除させるしかない。
「今のところ、悪魔がいそうなのは夫人の傍だと思うんだけど」
夫人が関係していると断言するわけではないが、一番疑わしいのは事実だ。
「心当たりとかない? だって何かなくちゃ、こんな目に合う理由がないでしょ」
悪魔だって暇ではない。そして彼らなりの秩序を持っているのだ。何もない相手にいきなり魔術を行うというのは非常に考えにくい。悪魔から恨みを買うようなことをしたか、それとも恨みを持つ人物が契約をしたか、殆どがそのどちらかでしかないのだ。
「他に誰か心当たりがある? もしいるならそっちの方から先に調べてもいいけど」
それには時間が足りない。次の誕生日に再び発動したならどうなるのかはわからないのだ。ならばわかっているところから探る方が効率がいいに決まっている。
「まずはその疑わしい人物としてサッシュ……夫人? とのことを確認したいの」
「天使様に聞かせる話とは思えないが」
見習いと補うとどっちでもいいとリオレイルは続ける。
「そんなことは正直どうでもいい。俺にとってはお前は天使だからな」
顔を上げると目が合った。まっすぐに見つめる瞳はとても優しい色をしている。真正面からの視線に急に恥ずかしくなって、エルシエルは慌てて目を逸らした。
「そ、それって、人間式の口説きってやつ?」
「いや、思ったままを言っただけだが」
ふと、リオレイルが真顔になった。
「いいのか?」
「え?」
「口説いても。天使なのに」
エルシエルは目を瞠った。
何とも答えられずにいるうちに頭が勝手にそんな決まりがあったかを探り始めた。
――な、何を考えてるの!
思わずそんなことを考えた自分を胸の内で必死に叱責する。
「そ、そんなのだめです。だめに決まってるじゃないですか。当たり前でしょ!」
「その割に随分と間があったな」
「それは、リオ様が変なことを言うから」
エルシエルはとにかくと咳払いをした。
「今はそんな冗談言ってる場合じゃないんだから、いいから夫人のことです!」
早く話すように言うとくすりとリオレイルが笑う。それは幼い容姿に似合わぬ、どこか色気を含んだものだった。
「さて」
どう話せばいいかとリオレイルが思案顔になる。
「あのご夫人は血統的には相当いい。国王の異母姉で、母親自体も先王の伯母にあたる」
エルシエルは首を傾げた。
「つまりは血筋だけを比較すると今の王よりも上になる。この国には女子に継承権はないが、もし男だったら彼女が王になっている」
「うわ、偉そう」
「偉いんだよ」
「でも、なんか複雑な血縁関係」
「古い王家なんてどこもそんなもんだ。血筋を護るってのはそういうことだろう。結構近親での婚姻は珍しくはない。まあ、それはいいんだが」
ミリア・ウリア・サッシュトン侯爵夫人は降嫁して以降も気位の高い、我儘な女性だった。そして夫が不在がちなのをいいことに好き放題をしている。
「その好き放題ってのが男遊びで、相当な色魔だそうだ」
それはメイドからも聞いた話だ。色魔などと、楽園ではあまり耳にしない言葉である。
「噂は聞いていた。まあ、実際そうなんだろうなとも思っていた。だが、俺には全く関係のない話だし興味もなかったんだが」
――はじめて見る顔ね。
それがリオレイルに掛けられたサッシュトン夫人のはじめての言葉だった。
「はじめて見る顔ね、あなた」
謁見も終わり、王宮では宴が催されていた。友人や祖父の知人らと語らっていると一人の女性が歩み寄ってきた。後ろには取り巻きらしき女性が二人ほど。どちらも知らない顔だった。気を利かせた知人の一人がこっそりサッシュトン侯爵夫人だと教えてくれた。
現王の姉にあたる夫人は年の頃で言えば四十代のはずだがその見た目は二十代後半でも通りそうなほど若かった。だが身に纏う落ち着きは年相応で、漂う色香は彼女の気品と相まって自然と人目を惹きつける魅力があった。緩やかに結上げられた美しい金髪が大きく襟の開いたドレスの胸元にはらりと零れている。所作も容姿もすべてが見事で、完璧な美がそこにあった。
「少しお話をしたいわ。いいかしら?」
それは直訳すると話をしたいから一緒に来なさいということであり、他の者は下がりなさいという意味だというのは考えずとも理解できた。
命じることに慣れた口調だった。それもそうだ。王女にして夫は侯爵、その夫も副宰相という地位にある。王族から離れても彼女は血筋、権力、金の全てを持っている。ファイデル家の方が歴史はあるが、伯爵ではとても及ばない。リオレイルは無用な騒ぎを避けるために素直に従うことにしたが――今にして思えばこれがいけなかったのかもしれない。
領地のことや趣味など他愛のない話が続いた。特に十代の頃に留学で逗留したことのある東国の話はとくに彼女の気を引いたようだった。
「時に、あなた。今日あなたの傍で濃紺の長衣を着ていた者、あれはあなたの従者?」
ゼルデンだとはすぐにわかった。祖父に代わり急遽訪れたリオレイルはゼルデンと僅かな供をつれて王都に入った。王城まで同行しているとなればゼルデンでしかあり得ない。
「何か失礼がありましたか?」
いえ、とサッシュトン夫人は優雅な動作で首を振る。
「あの子、綺麗ね」
一瞬、リオレイルは動きを止めた。
「……恐れ入ります。あの者にも夫人からこのように仰って頂いたと伝えておきます」
「今夜、あの子とお話しをさせてもらいたいわ。お借りできる?」
夫人が若い男を好んで誘うということは話に知っていた。だが、聞くのと事実として直面するのとでは全く違う。目の前の、いとも優雅で上品な貴婦人が噂通りの人物だったことに対し少なからず驚いた。そしてあろうことか、その毒牙――そう言ってもいいと思う――が、ゼルデンに向けられるなど予想外だった。
すべてを持つ彼女に抗うなど王宮での栄達を願う者には難しい話だ。しかも噂では後腐れのないよう従者を物色するらしく、それならばと応じる貴族が少なくないのだと言う。
「申し訳ございませんが、あの者は夫人のお相手ができるような立場ではございませんし、教養もございません。失礼があってはいけませんので、私が話し相手となりましょう」
「お話したい」の意味は正しく理解していたがリオレイルはあえて額面通りに受け取ったことにして返答した。教養においては自分より上を行くゼルデンである。この発言を聞いたら怒るだろうなと思うと少しおかしかった。
自分では不満かと問えば夫人の緑の目が舐めるように動く。一見魅惑的な瞳だが、その奥にどろどろした魔性を見た気がした。
「確かにあなたも綺麗ね。とても魅力的」
でも、と夫人が続ける。
「私はあの子が気に入ったのよ」
内心、この色ババアと毒づく。心の中でゼルデンが聞いたら説教が山ほど降って来そうな文句を並べているうちになんだか馬鹿らしくなってきた。社交界とは本当に、心の底から面倒だと思わざるを得ない。
だが、そんな本音などちらとも見せず、表向きは文句のつけようのない笑顔を浮かべる。
「お断り致します」
夫人が僅かに目を瞠った。
「なんと仰ったの?」
「お断り致しますと申し上げました」
「ご冗談よね?」
これまで断られた経験などないのだろう。自信に満ち溢れた態度がそれを示していた。
「あなた、私を誰だか御存知?」
「無論、存じ上げております」
夫人は手にしていた羽扇を広げた。
「まだ爵位を継がれていないようだけど、いずれは社交界に出ていらっしゃるのよね。王宮にも出仕なさるんでしょう」
ファイデル家は別段、王城に仕事を求める必要はなかった。領地や爵位については取り上げられればどうしようもないが、それ以外にも産業を持っており、収入という意味では困るようなことはない。が、そんなことを夫人に言う必要はない。あえてリオレイルは無言で応じた。
「ご自分の立場、よく理解した方がよろしいのではなくて?」
「充分理解しております」
「なら、どうすべきかおわかりよね?」
「ええ、お断りします」
まるで聞き分けのない子供を相手にしているかのように夫人は小さく息を吐いた。
「ねえ、たかが従者じゃないの。そんなものどうなろうといいでしょう。仕える主人が安泰になるのだから、むしろ彼らだって幸せってものよ。何をそんな頑なに」
あまり賢くないなとリオレイルは思った。王女として身に着けたであろう教養や品位はどうやらメッキでしかないらしい。あからさまにそんなことを言う時点で底が知れるというものだ。
くどくどと蔑むような発言をする夫人は不快で、もはやただの下種にしか見えなかった。己の性欲のはけ口として所望する浅ましさ。他人は従って当然。そのいずれも恥ずべき行動だと理解できない、その愚かさには嫌悪しか感じられない。
こんな女に、兄にも等しいゼルデンを差し出すはずがない。例えゼルデンでなくても大切な家人を差し出すなど断固としてあり得ない。
「別に、あなたの血縁ってわけでもないでしょう?」
「血縁ですよ、従兄ですから」
再び夫人が目を見開く。いちいち芝居がかった態度は大袈裟で、軽く苛立ちすら覚える。
「……今の伯爵の奥方は王家の方よね」
無論リオレイルは祖母に会ってはいないが、王族であることは知っていた。
「王家の血を引いてるくせに……あなた、メイド腹なの?」
「何か問題でも?」
リオレイルの様子を察したのだろうか。それとも周囲の助言だろうか。視界の端でこちらを窺っていたゼルデンがやってくるのが見えた。
「召使同士、仲良しってことかしら」
何とでも解釈すればいいと思った。こういう人種とは相容れない。できれば遠いところで適当に、勝手に幸せに暮らせばいい。関わりたくはなかった。
「言っておくけど」
夫人が胸を反らし、背中を向けた。
「この国の社交界で無事に過ごしたいなら、少しは柔軟な考えを持った方がいいわよ。とはいえ、召使風情にはとても無理な話かもしれないわね」
駆け付けたゼルデンを夫人が一瞥する。
ただならぬ空気を感じたのか、若い執事は双方を素早く見やって眉を寄せた。
「何かご無礼がございましたか?」
「あなたのご主人、もう少し世間を勉強した方がよろしくってよ」
ドレスの裾を翻し背中を向けるのにリオレイルは鼻を鳴らした。
「ご忠告、心に止めることに致します」
心配げなゼルデンの前で冷ややかに告げるとリオレイルは優雅に礼をしたのだった。
「とんだくそバ――あ、酷いご夫人ですね」
咄嗟に口を押えて思わず出そうになった口汚い言葉を飲み込むのをリオレイルが笑う。
「まあ、これまで誰も彼女を止めなかったのも悪いんだろうが」
深窓の姫君。何も知らない彼女の我儘を諌めるものはいなかったのだろうか。何もかもが自由に、思う通りになる環境にいたらそれは歯止めがきかないものになるのは目に見えている。
「まあ、確かにゼルデンさん。見た目だけはいいもんね」
「中身もいい奴だぞ。多少頭は固いが」
「多少どころじゃないよ、あれ。石よりも固くて偏屈」
悪い人ではないのはわかる。わかっていてもあのいじめっ子具合は尋常ではないと思う。
「まあ、シェルの天敵だからな」
言って、リオレイルは笑った。
「このことはゼルには内緒だ。あいつのことだ、自分のせいだとか言い出しかねない」
確かに言いそうだ。エルシエルにとっては意地悪偏屈大王だが、リオレイルとは主従以上の繋がりを持っているのだ。
それはともかくと仕切り直す。エルシエルは今の話で確証した。
「悪魔。サッシュトン夫人についてます、きっと――ううん、絶対」
間違いないと思った。悪魔は時々地上にやってくる。欲深な人間、他人の不幸を願う人間を見つけて手を貸すのだと言う。
理屈はわからないが天使が幸せを施す分、地上には同量の不幸が必要なのだとされる。天使も悪魔も課された役目を果たすだけだが、それは幸不幸のバランスを考慮して地上に派遣されるのだと教わった。そのあたりは上の方々が配慮すべきことで一介の見習いが知るところではないが、悪魔側も楽園の配下にあるのは事実だった。その悪魔達が関わる人種には共通点がある。家柄とか性格がどうというのではない。根本にある性質とでも言えばいいだろうか。
悪魔に選ばれた者は己の欲望を叶える。そして叶えた見返りに己もまた不幸に見舞われる。代価は決まっていない。術を施す悪魔がその時に考え、要求するらしい。
リオレイルの話からサッシュトン夫人には匂いが感じられた。言ってみればこれはエルシエルの勘だ。天使(見習い)の本能が告げていると言ってもいい。
「悪魔はまだ夫人の所にいるはず」
「なんでわかる?」
「成就してないから。成就しなかったら代価を貰えないもん」
紋様が生きている以上、術は完遂されていない。目的が果たされなければ代価はなく、代価を貰わなければ仕事を果たした証拠にはならない。
とりあえずサッシュトン夫人のことをパパリに報告しよう。できれば自分で確認をしたいが時間的に難しい。申し訳ないがパパリに依頼した方がいいと思えた。試験官はこの世界への入口を自身で開き、行き来できる。瞬時に夫人のところまで行くことができるのだ。そちらはパパリにお願いして、こちらではサッシュトン夫人と対面する方法を考える方がいいだろう。夫人だけではない。その傍にいるはずの悪魔とも対峙する手段を考える必要があるのだが。
「どうした?」
「――いえ、なんでもないです」
効率的、必要……そういったことを考えて、エルシエルは複雑な思いを抱く。
……またパパリに頼まねばならないのか。
頼ってばかりの状況が申し訳なくて、思わず出てしまった溜息を聞き咎められてしまった。
本当はパパリのことも話してしまった方がいいのかもしれないとも思う。だが、それが却って彼の咎になる可能性もあるので勝手なことはできなかった。本来ならパパリの奮闘はもっと讃えられるべきなのに、エルシエル一人が感謝をされて、どうにも複雑な気分は消えない。自分の巻き添えで咎が及ぶかもしれないだけではない。またさらにお願いをせねばならないというのも心苦しく、あまりの無力さが申し訳なかった。
ごめんね、と心に呟き――いざとなればと誓う。
己の魂でパパリの咎を購えるのであればそれでも構わない。エルシエルの我儘に巻き込んでしまった友人のために、自分の何かで役に立てるならなんだって差し出すつもりだった。
……そんな思いを胸に、ひとり頷く姿を、リオレイルの淡い闇色の瞳がじっと見つめていることにエルシエルが気づくことはなかった。
3
――術の解除はかけた悪魔にさせるしかない。
それは動かしがたい事実だ。ならばその悪魔と対面する必要がある。夫人のことを話すと早速パパリは偵察に向かい、案の定、そこに人以外の気配があることを察知してきた。
「姿は見えなかったけど間違いないよ。悪魔、いるね」
術を施したのはサッシュトン夫人とそこに従う悪魔だと判断した。ひょっとして別の悪魔の可能性もなくはないが、これだけ因果関係がはっきりしているのだ、恐らくは間違いない。対外的にリオレイルの外面がいいことはゼルデンが太鼓判を押している。そうそう恨みを買うことはないという話だった。
「たかがダンスの指南をお断りしたくらいで……なんというか、気位が高いと申しますか」
夫人の恨みを買った理由についてはダンスの個人レッスンを断ったと名目にしておいた。
「あの方は若い男性が好みのようですから、良からぬ考えがあったのは見え見えですがね」
ゼルデンは不機嫌そうな表情を浮かべ、そう付け加える。リオレイルが断ったのも無理はないと解釈したようだが、まさか実際の標的が己であったとは露ほども思っていないだろう。
「術をかけられた経緯はどうあれ、解除する手段は絞られるわけだな」
専門家でなければ術者以外が解除するのは不可能だ。かけた本人が解除するか、もしくは別の呪術を重ねてかけるか。そう言うとゼルデンが確認するように呟く。
「つまり本人にさせるしかなく、そのためには夫人に会う必要があると、そういうことか」
解読の次に行うべきはリオレイルの呪術への対処である。何の用事もなく夫人のところに顔を出すのはおかしな話であるから、これには作戦が必要だ。
「会うのは逆効果の可能性もあるでしょうね」
「どういうことだ」
声変わり前の澄んだ声が冷静に尋ねる。
「リオ様の姿を見た相手は呪術が成功していると考えるかもしれない」
「でも、失敗だよ?」
「それは確実なのか?」
間髪入れず返されてエルシエルは言葉に詰まった。
「術は若返りに酷似しているが使われた色合いが異なる。そして本来の若返りとは若干相違がある、だったな?」
エルシエルが頷く。
「それでは確証には程遠い」
――恐らく、相手はリオレイルの命を狙ったのだろう。
――恐らく、術式を間違えたのだろう。
恐らくとつく限り、それは絶対的に正しいとは言い切れない。
「限りなく正解に近いのだとしてもそれを裏付けるものはない。お前も言ったではないか、自分は専門家ではないと。ならばこの結果が、相手の望んだものである可能性だって否めない」
「でもそれなら発動の続きがあるのがおかしいもん」
「継続的に若返らせたい可能性もあるのだろう? ならば術は成功しているのではないか」
そう言われれば反論はできなかった。自分もパパリも専門家でない上に悪魔でもない。まして形状に僅かな相違があるとなれば絶対にこれだと特定することなどできはしないのだ。
「だが、ここまで調べたのはさすがと言えるが」
「それは――あ、ありがとうございます」
パパリの手柄だと言いそうになって、エルシエルは慌てて言い換えた。
「では、兄上。あんたはここからどうしようと考える?」
ゼルデンが腕を組む。
「リオ様は姿を見せない方がいいかもしれませんね」
「それじゃどうやって解いてもらうの?」
問題はそこである。リオレイルが行かなくては何の意味もない。
三人ともが押し黙り、沈黙が流れた。
人間にとって悪魔など当然未知のものだ。だが、それについてはエルシエルも同様である。楽園では天使と悪魔は完全に隔てられている。まして試験中ともなれば遭遇などないよう、本来はきちんと管理されているはずである。故にいざ悪魔を前にしてどう対応すればいいのかという点については悩みどころであった。とは言え、まずは夫人への対面が必要だ。これについては人間界のルールを知らないエルシエルには一体どんな手を使えばいいのかなど思いつけない。そこは二人の主従に任せるしかなかった。
言葉を待つリオレイルがゼルデンを見る。ゼルデンもまた主人に視線を固定したまま考えを巡らせる。傍から見れば見つめ合っているような二人を眺めて、エルシエルは思わず笑ってしまった。
「なんだ、見習い。気色悪い」
ゼルデンの心底蔑んだような声が飛ぶ。
「真面目に考えているのか?」
「考えてます。考えてるんだけど。二人がにらめっこしてるみたいに見えたから、つい」
確かにとリオレイルもまた表情を崩す。
「綺麗な二人が揃って、真剣な顔でにらめっこって。なんか、変」
主の方は笑ったが執事の方はがっくりと肩を落として溜息をついた。
「ほんと二人とも美人だよね。そうして並ぶと、ほんとに兄弟みたい」
黒が勝るリオレイルに比べ、こげ茶の髪に紺色の瞳を持つゼルデンの方が全体的に色素は薄い。そのせいか若干冷ややかな印象を受けるものの、睫の長い目元も、通っているがほんの少しだけ鷲鼻なところも良く似ている。
「ここにディアナも加わったら三つ子みたいに――」
「ディアナだ」
「ひゃあ、びっくりした」
突如、ゼルデンが思わぬ大きな声を発した。彼には珍しく冷静さを欠いた大声にエルシエルだけではなくリオレイルも瞬く。
「リオ様、ディアナを使いましょう」
「ディアナを? 使うってなんだ」
「ディアナをリオ様にするんです」
リオレイルが怪訝な表情で細い首を捻る。
「お前の馬鹿が役に立ったぞ、良かったな、見習い」
馬鹿じゃないという抗議は綺麗に流された。なんだか興奮気味のゼルデンの皮肉は今日も絶好調のようだ。
「ゼル、ディアナを使うとはどういうことだ?」
傍らでクッションを抱く天使見習いの頭を撫でながらリオレイルが問うた。
「まさかディアナに術は解けないだろう?」
「ですから、ディアナをリオ様に仕立てるんですよ」
エルシエルが顔を上げる。リオレイルも目を瞠った。
ゼルデン同様、リオレイルとディアナも似ている。ゼルデンとディアナは実の兄妹であり、ゼルデン同様リオレイルの従妹になる。幼い頃はよく双子と間違えられたくらいでどちらかと言えばゼルデンよりもこちらの二人の方が似ていたくらいだったのだ。
「夫人と顔を会わせたのはあの時の一度きりです。細部まで容姿を記憶しているとは考えにくいでしょう。仮に執事と似ていたと認識されていたとしてもディアナならば問題はない」
「それは、そうだが……」
ディアナをリオレイルに仕立ててどうするというのか。
険しい顔をする少年姿の主にゼルデンが溜息が出るほどに美しい笑みを浮かべる。
「リオレイル・ウリア・ファイデルは何事もなく過ごしていると思わせるんです。あの性格です。無事だと知れば癇癪を起こしてすぐに行動に出る可能性は大きいように思います」
術がかかっていないと知れば悪魔は再度呪術を施そうとするだろう。当然それはリオレイルを対象にされる。
「もし手も触れず、場所を問わず行うというのであればその標的は間違いなくリオ様になるわけですから、そうすれば重ね掛けになり、相殺されるはずです」
なるほどと頷くリオレイルがエルシエルに問うように目を向けた。
「悪魔の呪術ってどうやってやるかまで知らないんだけど、もし、直接手を触れてやるようなのだったらディアナにかかっちゃうよ」
「そこはいつもの恰好に戻れば別人とわかるだろう」
普段のディアナはメイドで、れっきとした女性だ。リオレイルだと思うはずがない。
「別人だってわかったら術はかけないで戻っちゃうかもしれないけど」
その時は捕まえるとゼルデンが言うのにリオレイルが苦い顔をした。
「相手は未知のものだぞ。何をするかわからない。お前たちをそんな危険な目に――」
「会いましょう、喜んで」
「ゼル」
「もしこれが逆の立場だったとしたら。あなたはここで引いたりしませんよね?」
止めても無駄だとゼルデンの表情が語っている。ひとつ大きく息を吐いてリオレイルは顔を上げた。そして小さな声ですまないと詫びると表情を引き締める。
「仕方ない。すまないが、とりあえずその作戦でいくとするか」
そうと決まればディアナにも事情を説明しておく必要がある。妹を迎えに行ったゼルデンはすぐに戻ってきた。そして一連の流れと話を聞いたディアナはすべてを聞き終えるときちんと理解しようとしているのか一度長く目を閉じた。それまで相槌も打たなければ動揺すらも見せなかったのは無感動なのか胆が据わっているのか、やはりどこか不思議だとエルシエルはしみじみ思ってしまった。
「天使見習いというのはのろまで不器用なものなんですね、意外です」
「ここまでの話で抱く感想ってそれ?」
がっくりと肩を落とすとディアナは兄に良く似た顔で美しく微笑む。
「そういうわけだからディアナ」
「なんでしょうかネロ様」
瞬間的にリオレイルが言葉に詰まった。
「そう怒るなよ。どうしていいか見当もつかなかったんだから」
「全然怒ってなどおりませんよ?」
内緒にされていたことを恨んでいるのだろうか。平坦な口調がいつにも増して柔らかい――気がするが、それを怒っているときちんと理解できるリオレイルはさすがだ。
「……頼みがある」
お断りします、とディアナが即答した。
「――と言いたいところですが、そうも言っていられないのでしょう。なんです?」
伯爵家当主の孫で次の伯爵であるリオレイルは間違いなく彼女の主人に当たる。それなのに容赦のない態度を取るのはやはり幼馴染だからだろうか――ディアナの場合は違う気がする。
「身代わりをしてくれ」
リオレイルはつい先程ゼルデンが考えた作戦を説明する。
「危ないかもしれない。だが、引き受けてほしい。どうだ?」
「断ったらどうなりますか?」
「近いうちに俺が死ぬ、かもしれない」
「なるほど。それは興味深いです」
本気ともつかない口振りなのが恐ろしい。
「洗濯選手権の『なんでも命令できる』権利を今、ここで使いたい」
「は?」
ぽかんとしたのはエルシエルだ。当のリオレイルは真面目な表情である。告げられた方のディアナも少しも笑わない。これはいわゆる、つっこみどころというものだと思う。エルシエルは思わずゼルデンを見たが、ゼルデンは何も言うなと首を振った。いや、正しくは関わるなという合図かもしれない。
「ではその後のポーカーで得た『なんでもお断り』の権利を発動しましょう」
「なに」
予想外の反応だったのかリオレイルが目を瞠る。
「それならば穴掘り対決の『絶対王様権利』を行使する」
「オセロの『不服従万歳』を使いましょう」
などと……その後もいくつか過去の対戦で得た権利の応酬をした後、リオレイルが観念したように拳を握った。
「ならば、お前の欲しがっていた世界奇怪紀行のフィギュアを譲ってやる」
「全部ですか?」
「全部だ。レアも含めて」
やや間をおいてから、やりましょうとディアナがリオレイルに手を差し出した。
「よかった。契約成立だ」
二人が固い握手をする。奇妙なやり取りを眺めていたエルシエルは改めて傍らに立つ青年を見上げた。その眉間には深く皺が刻まれている。
「ゼルデンさん。リオ様って、頭脳戦弱いんですか?」
聞いているとリオレイルが勝利しているのは体力対決が多い気がする。それに対しディアナは頭脳戦で勝っているようだ。指摘するとゼルデンが疲れたような溜息をつく。
「あの方は、頭の回転はいい方なんだが、先読みするようなゲームは性格上不向きなんだ」
「なんか、それはわかる気がします」
以前、ディアナが力づくで解決すると言っていたのを思い出す。
「どうでもいいですけど」
「……なんだ」
「このやり取り、絶対、おかしいですよ?」
「気にするな。あの二人はいつもあんな感じだ」
溜息交じりの言葉にゼルデンの苦悩が伺える。
変わり者の弟妹。幼い頃からこんな二人の面倒をみているのかと思うとゼルデンの眉間の皺も深くなろうというものだ。なんとなく、エルシエルは同情したい気持ちになった。




