第四章
第四章
1
「お前さんよりは多少ましな知識があるかもしれない」
形が特定できたら呼ぶようにと言い置いてパパリは戻って行った。有難い申し出だが正直無理をさせたくなかった。パパリは優秀な試験官なのだ。落ちこぼれの自分につきあわせるのはあまりにも申し訳ない。エルシエルはできる限り自力でやろうと思っていた。行き詰ったら知恵を借りることになるかもしれないが、やれるところまではやる。せめてもの義務だ。
そのためにもまずはその刻印の形状を把握することが必要である。が……。
「どうやって見せてもらえばいいんだろ」
相変わらず、楽しくない洗濯物の山と格闘しながら、エルシエルは首を捻る。
「裸になってもらわなくちゃいけないわけだし」
まさかただ脱いでくださいとは言えまい。またもや水をかけるというわけにもいかない。
「一緒にお風呂に入りましょ、とか」
背中を流しましょうとは、さすがにわざとらしい上にあり得ない。着替えを覗くのもひとつの手だ。飛んで窓の外から見る――が、窓を割ろうとすることよりも性質が悪い。目指すところが天使ではなくて変態になりかねない。
「ゼルデンさんに相談する?」
とんでもない意地悪屋だが脳みそはまともだ。しかし協力すると約束をしてくれたとはいえ、裸を見たいなんて言ったらどんな恐ろしい殺人的な皮肉が返ってくるか知れたものではない。見たい理由を説明するのも問題だ。悪魔の刻印なんて告げたらますます頭がおかしいと思われかねない。せっかくいい感じに協力を取り付けたというのに台無しだ。
「やっぱり、見習いって言うべきなのかな」
悩むあたり、決意をしたくせに自分はまだ試験に固執しているのかもしれない。いっそのことゼルデンに全部話してしまえば意外にあっさり信じてくれるか、それとも――変人扱いか。後者の可能性が大きい気がしてしまう、どうしても。
天使見習いと承知しているのは刻印を持つネロ本人。いっそのこと直接言った方がいいのだろうか。だが、知らなかった場合、そんなものがあると告げられてどう思うだろうか。
大概、良いものであるはずがないのだ。地上での悪魔のイメージの優秀ぶりは目を見張るばかりだが、だからといって完全に否定できない部分もある。実際そこまで万能ではないのは悪魔も天使も一緒だが、それはそれである。その人間自身が抱く認識が大きく作用し、結果として本来の効能以上の結果を生むことは珍しくない。負の心が強くなれば悪魔の力を助長し、刻印の働きを促進してしまう。もしネロの気持ちが沈んでしまったら、紋様がどう作用するかはわからないのだ。
考えることは苦手だ。ひとつのことを考えているとそこから派生したことを考える。派生した先で枝分かれしたものを考え、次第に迷路に迷い込む。挙句、何を考えていたのかわからなくなってしまう。そしてふりだしに戻る。
「螺旋の紋様がありますよ! なーんて軽く言えたらいいのに」
「知っている」
エルシエルは思わず飛び上がった。独り言に返事があったことにも驚いたが、それ以上に驚愕したのは返ってきた答えとその声だ。
「見事な百面相だな、シェル」
壊れたおもちゃのようにぎくしゃくと背後を振り返ると、悪魔の刻印の持ち主がいた。
「い、いつからそこに?」
「結構前だ。いろんなことを言ってるのを聞いた」
瞬くエルシエルに構わず、ネロは腕組みをすると続ける。
「裸が見たいらしいな」
「へ?」
「着替えを覗くんだって?」
「……いや」
「風呂にも一緒に入りたいとか。別に構わないぞ、俺は。むしろ大歓迎だ」
真っ赤になり物凄い勢いで首を振ると、心底呆れたようにネロがしみじみとこぼす。
「お前、せめて口に出さないで物を考える努力をしろよ。だだ漏れだ」
それから、とネロが低い声で言う。
「洗濯禁止と言ったはずだが」
きょとんとして無反応なエルシエルに対しネロが片眉をあげた。
「なにか不満があるのか?」
「……今、それって重要ですか?」
重要だと間髪入れずネロが頷く。
「またずぶ濡れにされたんじゃたまらない。そう言えば、水をかけるというのもあったな」
う、とエルシエルは言葉を詰まらせた。だが、思いとどまったではないかと反論したいが、さすがにそれは愚かすぎる。
「あの、でも、洗濯は考え事するのによくて――」
「手は止まっている。無意味だな」
常にない速さの反論は鋭い。この館に巣食う超偏屈執事にも負けず劣らず見事な切り返しだ。
「ネロ様。今日はなんだか一段と冴えていらっしゃいますね」
「昨日、一日バカと会わなかったからかもな」
螺旋の紋様について悩んでいたがためにエルシエルは食事も遠慮して部屋にこもっていた。清掃するからとディアナがやってきた。ネロからお茶の誘いがあった。だがそのどちらも気分が悪いと断っていた。ちらりとしか見えなかったものが特定できないかを、こっそり書庫から借りてきた本を漁って眺めているうちに気が付けば一日が終わってしまっていたのだ。
「体調は良くなったのか?」
「……はあ、まあ、それは大丈夫ですけど」
ネロは溜息をつくと、組んでいた腕を解いて腰にあてる。
「気づいていたのならさっさと言えばいいだろう」
声音がいつもの優しいものに戻った。
「別に責めてるわけではない。どちらかと言えば非はこちらにある、シェルが悪いことじゃないんだ。だから、そういうのはやめろ」
「そういうの?」
「下手な芝居だ。どうせ嘘はつけないだろうが。俺のせいで堕天使になったら困る」
それに、とネロは微苦笑を浮かべる。
「お前に嘘をつかれるのは、なんだか、切ない」
向けられた瞳が少し翳ったように見え、エルシエルは素直にごめんなさいと俯いていた。
「いつから気づいていた? まさか最初からではないよな?」
「……一昨日。あたしがお水かけちゃった時。シャツが濡れちゃって、透けて見えたの」
「見えたからといって別に動揺することではないはずだが」
実際、これまでにも使用人に見られたことはあるのだと言う。
「動揺したということは、これがなんなのかわかったということだな?」
無言は肯定なのだということは察しのいいネロにはわかっているはずだ。けれどわかったと頷くことはしたくなかった。
「そこにあるのがシェルの分のノルマか?」
ネロが正面に座り込んだ。首を傾げるエルシエルの前で袖をまくると盥に手を入れる。
「手伝うから、よこせ」
「は?」
「二人でやった方がはやいだろ?」
「だ、だめですよ、そんなの。絶対だめ」
ゼルデンでさえ敬語で接する――エルシエル自身は子供相手と思って抜けてしまうが――やんごとなき方がするようなことではない。エルシエルはこれまた勢いよく首を振った。
「なんだよ、俺には洗濯なんて無理だと言いたいのか?」
「そ、そんなこと言ってないけど、でも、今、洗濯は禁止だって」
「一緒にやるなら許してやる」
ネロがにんまりと笑った。
「これでも昔はよくやったんだ。洗濯選手権を制したこともあるぞ」
――気を使ってくれたのかな。
微笑んでくれたネロになんとか笑顔を返して、洗濯山からひとつを渡した。自分も新たな洗濯物を手にして泡まみれにする。
洗濯競争についてネロが思い出話を披露する。似たようなことは蕾の園にもあるのでエルシエルからもいくつか聞かせてやった。洗濯談義に花を咲かせながら、恐らくはディアナの倍の時間を費やしてようやく終わった。退屈しのぎ程度なので量としては多くはないが、元々のろまなエルシエルに負けないくらいネロも効率は悪かった。それは無理もない話で、貴族の御子息が洗濯など普段は無縁のはずである。やはり気遣ってくれたのだと思うと胸がじんとした。
「悪かったな」
風に揺れる洗濯物を見上げてネロが口を開いた。
「ここにいてもいいと言ったのは別に親切じゃない。シェルが天使だと言うから」
すかさず見習いだと補うとネロが苦笑する。
「天使『見習い』だと言うから、これをなんとかしてくれるかもしれないと正直、そう思った」
いつか話そうと思いながらも話せずにいた。そうネロが言う。
「なんだか、あまりにも普通だから。エディ爺のためと一生懸命考えて悩んで。一緒にいたら楽しくて。言う機会を逃したら、結局言えなくなった」
天使などというからどんなことをするのかと思ったら、あまりにも普通の少女と変わらず驚いたとネロが続ける。
「シェルはそのことで必死だってのにな。俺の勝手で余計な苦労もかけて。すまなかった」
天使見習いだから優しかったのかと問えば、ネロは自分でもよくわからないと答えた。
「きっと、違うね。天使とか、多分、ネロ様には関係なかったと思うよ」
エルシエルが言うとネロが顔を上げた。
「だってタオル持ってきてくれたもん」
不審そうにしながらもわざわざ温かなタオルを用意してくれた。そして追い返すこともなく話を聞いてくれた。それはいずれも天使見習いだと打ち明ける前だ。
「あたしをここにいられるようにしてくれたことに打算があるなら、あたしにだってある。だってエディ爺の願いを叶えるってことがあたしの試験だし」
「試験?」
「見習いって言ってるでしょ?」
エルシエルは試験の話をした。正式な天使になるには課せられた試験を通らなくてはいけないのだから、単なる善意でいるのではないのだ。
「多分、あたしの方が質が悪い。自分本位で、試験を通りたいからここに来たんだもの」
利用したのはネロではない。明らかにエルシエルの側だ。
不快になるだろうか。利用したと知って怒るだろうか。そう思い、そっと隣に目を向けると、ネロは再び風に泳ぐ洗濯物を見上げていた。そこには不快そうな表情はなかった。
「まあ、なんていうか。天使らしい試験だな」
「でも……あたしは、好きじゃない。こういうの」
「誰も不幸にならないのだからいいんじゃないか?」
エルシエルは割り切ることはできないが、そんな風に感じてもらえるのならよかった。
「なら、やはり俺のせいでシェルには苦労をかけているんだな」
「どういうこと?」
「俺がきちんと話していればお前はこんなに時間がかからず苦労もせずに、もしかしたら試験が終わっていたかもしれない」
「それはどうかな。あたし、恐ろしく要領悪いから。あんまり変わらない気もする」
あまりあっさり解決していたらそれは試験じゃないと疑う気がする。本当は終わっているはずなのに違うと思い込んで余計なことをして、結局落第という結果が待っているように思える。そう言うとあり得るとネロが笑った。
「お前は洗濯競争で一位になったことはあるのか?」
「ないよ。ビリなら何度もあるけど。まさか、あるの?」
「制したと言ったろ。一回だけだけどな。あの時のディアナの悔しがりようは今でも覚えてる」
エルシエルが瞬く。
「ネロ様、ディアナを知ってたの?」
「は?」
ネロが動きを止めた。ぽかんとした表情でエルシエルを凝視する。ディアナはネロのことは知らない様子だったのに、ネロの方は知っているのだろうか。
「シェル。お前……紋様見たと言わなかったか?」
頷くとネロが怪訝そうに眉を寄せた。
「なんだかわかったんじゃないのか?」
「……刻印なのはわかるけど」
内容はと問われ、エルシエルは首を振った。
「だって、そんなによく見たわけじゃないし。あたしが術をかけたわけでもないし」
「……そういうことか」
ネロが大きく息をついて髪を乱暴にかき混ぜた。それからほんの僅か考えるような表情の後、シェルと呼びかけた。
「昼食後、お前の部屋に行く。ゼルにも時間を作らせるから。すまないが、お前のこと、あいつに話してもいいだろうか」
「ゼルって誰のこと?」
ゼルデンだとネロが答える。
「お前の試験とやらのこともある。きちんと話をしよう」
紋様のことを解決するならネロにはしっかりと見せてもらう必要がある。解決に際しネロがゼルデンの力を必要とするというなら、もはや話してしまう方がいいだろう。試験はこれが解決してからと決めたのだから。
了承を伝えるエルシエルに頷くと、例によってネロは後でと言いおいて背中を向けた。
2
「これが、天使?」
本当に? と強い疑いに満ちたその目が言っている。
案の定、ゼルデンは不信感満載だった。それでも馬鹿にもせず、否定もせずにいるのは話をしているのがネロだからだ。つくづく自分で言わなくてよかったと思う。
午後、間もなく三時になろうかという頃、ネロとともにゼルデンは現れた。ワゴンを引いて来たのは話が長くなると踏んでのことなのか、三人分のカップと茶菓子が乗せられていた。
ゼルデンが給仕をする間、ネロが説明を続ける。試験という言葉は使わず、天使の役割でエイドリオに関わったのだという言い方はエルシエルの側に打算があることを匂わせないようにしてくれたのかもしれない。全体的にエルシエルを庇護するような雰囲気が感じられた。
「天使というのはよく教会などにあるような、ああいうものではないのですか?」
あれは演出だと言えばなるほどとゼルデンが頷く。
「確かにあれはおかしい。一糸纏わぬことで清廉さを表現しているのでしょうが、赤子である必要もない。変に小賢しい赤子など疑わしい限り。よほど背後に何かあるのかと疑いますね」
「……そういう穿った見方をするのはお前だけだろうな」
「そういうあなたこそ、裸で空飛ぶなんて、奴らは変態だとか暴言を吐いていましたよね?」
「ふ、二人とも罰あたり」
「今言うか、それ」
思わず口元を押さえたエルシエルをちらりと見たネロが額を押さえた。
「で、これから何をしようというのです。まさかおままごとをしようなんて言わないでしょう」
当たり前だとネロがひったくるように菓子の一つを取る。
「ところで、この天使見習いは状況をどこまで把握しているんですか?」
「どこまでって?」
ゼルデンの目がエルシエルを見る。エルシエルはネロを見た。
「俺が変な術にかかってるということは理解している。それが良くないものだということもな」
「それから?」
「それだけだ」
「なら、殆ど何もわかっていないに等しいですね」
ですが、とゼルデンが紅茶を口に含む。
「ちらりと見ただけでよくないものと理解したというのはさすが、落ちこぼれでも天使見習いといったところでしょうか」
いつ落ちこぼれと言ったのだと抗議したいところだったが、あながちはずれでもないためにエルシエルはその言葉を飲み込んでいた。
「私にはただの痣にしか見えない。螺旋状の紋様になっているなどわからなかった」
螺旋の紋様だと言われてもゼルデンには痣としか見えないのだそうだ。エルシエルにははっきりと黒と赤が渦巻く様子までわかったというのに、そこが人間との違いなのであろう。
「だからエルシエルは本当にただの人間じゃない。それはわかってもらえたと思う」
ゼルデンは道理でといわんばかりに大きな息をついた。
「彼女を屋敷に置くとか、やたらと仲良くしろと言っていたのもそういう理由からですか」
やはりネロはゼルデンに働きかけていたのだ。そうでなければゼルデンの方からあんなにすぐにエルシエルを訪ねてくるなんてあり得ない。
「天使ゆえに、頑なにエイドリオ様の願いを叶えたいと必死なわけですか」
「そういうことだ」
「まったく、最初からきちんと話してくださればよかったのに」
「すまなかった」
「結局はリオ様の状況が解決しなくてはそこの見習いが望むエディ様との対面という要望に応えることはできないわけですから、効率面で考えれば無駄な時間が経過したことになります」
「だが、それはシェルの側にも事情がある。こっちの都合だけというわけにはいくまい?」
「そんならしくないことを言って。他人の都合など考えるような方か」
「少しは考えてるだろう。少なくともお前よりは俺の方がいくらか融通が利くと思うね」
「どうだか。主の特権で、後先も考えず色々と強引に進めるじゃないですか」
「そういうお前だって、たかだか三つしか変わらないのにすぐ兄貴風吹かせるじゃないか」
「育った環境で言えば立派に兄弟。立場、兄ですから、当然です」
ゼルデンの発言ではないが二人のやり取りが殆ど兄弟喧嘩の様相を呈してきている。紅茶のカップを手に黙って聞いていたエルシエルの頭の中にはたくさんの「?」が浮かんでいた。
「あの……」
ネロとゼルデンの目が揃ってエルシエルを振り返る。その反応のせいか、こうして並んでみると、この二人、どことなく容姿も似通っている気がしなくもない。
「あたしも会話に混ざっていい?」
もちろん、とネロが頷く。
「ゼルデンさんと三つ違いって……ネロ様って、いくつなんですか?」
ネロとゼルデンが目を合わせた。それからにやりと笑って振り返ったのはネロだった。
「いくつに見える?」
「見た目は、十歳……もう少し上かな。十二、三歳って感じなんだけど」
「外れ。二十一だ」
ネロが一人掛けのソファの上で足を組んだ。その仕草はとてもではない、少年とは思えない慣れた感がある。
「まだわからないのか? ネロなんて人間、存在しない」
「も、もしかして――」
そこまで言われればさすがのエルシエルも察しがつくというものだ。
ゼルデンと仲がよいわけも。ゼルデンに頼みごとができるのも。ディアナを知っていたのも。
「リオレイル様」
「ず、随分幼い――お若い見た目で」
「あほか」
エルシエルは正気を保つのがやっとだった。
「ど、どういうこと?」
「そんなこと明白だろう」
リオレイルが背中を指さす。
「この紋様のせいで、俺は二十一の誕生日に子供に戻った。以来、そのままってわけだ」
ごく普通の青年だったリオレイル。それが二十一の誕生日、目覚めたら子供になっていた。
いかに信じられなくとも現実は現実だった。すぐにゼルデンを呼んで相談するも解決するはずもない。日数が経過しても戻らない状態では夢だと思うことすらできなくなった。
原因は何か。探る過程で己の身体に刻まれた紋様を見つけた。鈍い痛みを発するそれは背骨に沿って絡まり合う二匹の蛇のような、奇怪な記号のような文字の羅列だった。
そこにあった痛みが引いても身体は戻らなかった。だが突然子供になりましたで済むわけもない。ゼルデンと話し、リオレイルは病気で籠ったということにした。幸い仕事をするには小さな身体でも差し支えはないのだ。表に出る分に関してはゼルデンが代行し、内務的なことはこれまで通りこなす。そうして二人で解決策を探していたのだとリオレイルが説明した。
「あ、あたし、ずっとリオ様と会っていたってこと?」
「そうだな。それも毎日」
リオレイルがにやにや顔で答えた。
ディアナが素晴らしいいじめっ子だと褒めるエイドリオの孫。次代のコーントリル領主ファイデル伯爵――リオレイル・ウリア・ファイデル。まさかである。まさか屋敷に来た初日からラスボスと対峙していたとは夢にも思わなかった。なんと間抜けな話か。
「俺のお坊ちゃまぶりは見事だったろ?」
「『僕』とか言い出した時には気でも違ったかと疑いましたが、存外楽しそうだったので見逃して差し上げました。とんでもなく気持ち悪かったですね」
「ゼルデンさんは知ってたの?」
「もちろん。私に何かを隠したままこの屋敷にいられるはずもない」
「だったらもっと早く言ってくれればよかったのに」
恨めしげな視線を向けると、ゼルデンは悪びれる様子もなくお互い様だと返す。
「でも、ずっと会ってないって」
嘘に決まっていると表情を変えることもなくさらりと言う。
「え、煙突だって、誰かが調べたって」
「あんなもの。再び煙突からの侵入を防ぐための方便に決まっている」
「ええ!」
確かにリオレイルの部屋に侵入しようと煙突を利用されるのは困る。しかし再びよじ登るようなことをするはずもないだろうし、夜回りもさせていたのでゼルデンにはリオレイルの意図はわからなかったらしい。だが、空が飛べるのであればそれも必要な用心だったわけだ。天使見習いだと聞かされた今ならば理解できるとゼルデンは言う。
「そ、そんなことしなくたって煙突はもう使わないのに」
もしかしてと思う。ネロに対し、散々偏屈だの冷血だのと言っていたことも知っているのではないだろうか。その可能性は大いにある。
ネロ=リオレイル。
それをもっと早く知っていたならもう少し言葉を選んでいたのに。というか、そもそも最初からゼルデンに全面協力を申し出ていたように思う。一方のゼルデンも得体の知れない小娘に大事な主のことを話すわけにはいかないと考えるのは当然だ。近づけたくないと警戒するのも頷ける。自分がゼルデンの立場でも同じように考えるだろう。
「えっとさ」
恐る恐るゼルデンを見やって口を開く。
「あたしとゼルデンさんがなかなか和解しなかったのって、結局はネロ――じゃない、リオレイル様がいけないんじゃないの?」
「まあ、そういうことになるだろうな。ねえ、リオ様」
双方の状況を把握していたのはネロ――リオレイルのみということになる。
「そう責めるなよ」
エルシエル、ゼルデンの両方から睨まれて、リオレイルは自嘲的な笑みを浮かべた。
「実は、結構諦めていたんだ」
祖母の書物を漁ったところで書かれていることの半分も理解することはできなかった。自分が鏡で見るような赤と黒の螺旋の紋様と同じものも見つけられず、ゼルデンに頼んで呪術者を探してもらい毎日のように会いに行ってもなんら解決が見られない。
「もうすぐ誕生日が来る。そうなればまたこれは発動するんだと思う」
実際、再び疼痛があるとリオレイルが言う。
「今度はどれだけ年齢が逆行するのかはわからない。もしかしたら戻るのかもしれないし、もしくは老人になるのか……」
やれるだけのことはやった。ならばもう仕方ない。
「神頼みでもするしかないかなんて思っていたんだ。だが――」
リオレイルがエルシエルを正面から見つめた。途端にエルシエルはどきりとする。
「エルシエル。お前が現れた」
物凄い好機だと思ったとリオレイルが苦笑する。
「実際には見習いで、俺にどうと言うのではなく、爺さんのためだと言われたけどな」
それでも期待しないわけはなかった。だが、一緒に過ごすうちにこの天使は本当に自分ではなくエイドリオの希望を叶えるためだけにやって来たのだと言うことが嫌でもわかった。
「でも一緒にいると疼痛が止むんだ。心なしか活動がおさまると言うのか」
それだけではなかった。どうしても気鬱になろうとする心が温かくなるような気がした。
「これでいいのかとも思った。別になんとかしてもらわなくても、この癒しが俺に与えられた神からの救いなのか、とな」
それならばと考え方を変えた。どうなるかわからないなら、せめて自分の良いように過ごそう。何があっても大丈夫なように、心だけは充実させよう。
「けど、まあ、人間っつうのは欲張りなんだよ」
少し砕けた口調でリオレイルが苦い笑みを浮かべる。
楽しい毎日であればあるほど未練が生まれる。そしてそれは再び抗う心を育てる。もっと生きていたい。この天使見習いと一緒にいたい。
「だから、俺はもう少し抵抗しようと思う。二人にはその手助けをしてもらえればありがたい」
「私はずっと協力しています。諦めるなんて考えたこともない」
心外とばかりにゼルデンが答える。あたしもとエルシエルは自分の胸を押さえた。
「あたしだって協力する。あたしにできることならなんだって!」
あまりに勢い込んで言いすぎただろうか。己の発言になんとなく恥ずかしさを感じるも、向けられたリオレイルの視線は優しいものだった。
「頼りにしている」
真っ直ぐな、心を惹きつけて止まない深い闇色の瞳。しっかりと見つめ返してエルシエルは力強く頷き返した。
3
「螺旋の刻印。これは悪魔の呪術の紋様です」
驚かないようにと前置きをしてエルシエルが口を開く。
「呪術はかけられた人間に何かしらの刻印を残すんだけど、術者が人の時は螺旋にならないの」
人間が術者の場合は直線、もしくは円状に残る。螺旋を描くのは悪魔が行った時のみだ。
魔術は元々悪魔の生み出した技術である。それを人間が模倣するようになった。だが悪魔が人間を下回るわけにはいかない。絡み合っている二重の螺旋。それは人間に解除することができないように工夫したためだと言われている。
「どんな呪術かはわからないのか?」
「そこまでは……魔術はあたしたちの行うものじゃないから。解除を専門に学んだ者にしかすぐにはわからないから」
でも、とエルシエルが続ける。
「調べる。まずはどんなものかわからなくちゃどうしようもないもんね。それは任せて」
リオレイルにもゼルデンにもどんなものかはわからない。ましてゼルデンはその形すらきちんと視覚で認識することができない。探りようがないというのが事実だ。
「調べられるのか?」
「大丈夫。絶対に突きとめてみせるから」
誕生日に若返ったということは年齢に関わるものだということは間違いない。となれば呪術は時間に対し働いている。周囲の状況や記憶などはそのままという点から考えるとリオレイルの身体にのみ作用する若返りの術だろうと推測はできる。推測どまりで断言できないのは、エルシエルに知識がない以上に、若返りという結果とそぐわない紋様の状況だ。
赤と黒。それははっきりとした呪詛だと聞いたことがあった。本来なら命に係わるもの。命を左右するような呪術には黒色が使われることが多いと言う。
「そちらは天使見習いに任せるとして、一体誰がそんなことをしたかというところですね」
「サッシュトン侯爵夫人だろうな」
何があったのかと問えば、言いたくないと不機嫌そうな表情でリオレイルが答えた。
「思い出しても腹が立つ。あの女」
「リオ、言葉遣い」
珍しくゼルデンがリオレイルを呼び捨てにして窘めた。兄貴面かと指摘するリオレイルに教育担当だとゼルデンが応じる。そんなやり取りにエルシエルは疑問を抱いた。
「ねえ、関係ない話だけど、リオ様とゼルデンさんって兄弟なの?」
兄弟ならば次の領主は兄であろうゼルデンがつくことになるのではないのだろうか。
「兄弟ではないが従兄だ。母親が姉妹なのでな」
道理で、とエルシエルは納得した。それなら多少似ているところがあっても頷ける。
「しかもその母親は双子だからな。小さい頃はディアナと双子に間違えられたくらい似てた」
「なんでディアナ?」
「同じ年だからかもな。ゼルとは三つ違うからさすがに双子はなかったな」
ということはゼルデンは二十四、あの美人のメイドは二十一歳ということになる。
「今も結構似てるんじゃないか。女装すれば」
「やめてください」
「なんで? いけると思わないか?」
考えたくないと憮然とした表情でゼルデンが応じた。彼としてはあの妹が二人になるなど冗談ではないと思っているのかもしれない。
「でも、いいね。ゼルデンさん。仲良しの弟妹がいて」
ああだこうだと言い合う様は本当に兄弟のようで仲が良さそうだ。家族がいない身としてはうらやましい限りである。話しているのを眺めているだけでついつい笑顔になってしまう。
「弟ではない。主だ」
一応、とゼルデンが付け加える。それに対しリオレイルが一応とはなんだと抗議をする様子もまた微笑ましかったりする。
……頑張ろう。
見習いで、どれだけ役に立つかは甚だ疑問ではあるが、自分にしかできないことだってある。少なくとも悪魔の呪術については二人よりほんの少しでもマシな知識があるはずだ。
――ネロの呪術を解除する。
試験から逸れるが、そう決意した。ところがネロがリオレイルだと言う。ならば、この行動は全く無関係ということはなくなった。願い主であるエイドリオの望みは「孫と会いたい」だと思われるのだから、計らずとも両者に繋がりができたことになる。
エイドリオの望みを叶えるにはまずリオレイルの問題を取り除く必要がある。子供の姿のままではリオレイルはエイドリオに会うことは出来ない。――いや、会うことはできるだろう。だが、それは新たな困惑の種を植え付けるだけで却って心労が増すことになる。もう若くはないエイドリオにとって唯一の肉親が悪魔の呪詛を受けたなどと知ったらどうだろうか。
だから――リオレイルは己の事情を明かそうと決めたのではないだろうか……。
望みが叶えられず申し訳ないで済む話ではなく、天使になるための試験だと知ったリオレイルは彼なりに協力しようと考えたのに違いない。無論、解除できれば越したことはない。だが、それが狙いならば最初からゼルデンに事情を説明していそうなものなのに試験と聞いてはじめて行動を起こした。今になって自身のことを話したのはエルシエルのためとしか思えない。
そんな気持ちが見えるから。だからこそ頑張ろうと思う。頑張りたいと思う。
まだ試験に固執しているのは否めない。関連があると知った時、良かったと思ったのは事実だ。あわよくばの気持ちはあるけれど、もう間違えない。
――何故なら、自分は本当の天使になりたいのだから。そして、なるのだと決めたのだから。
リオレイルのために。
エイドリオやゼルデン、他のみんなのために――この不自然な状況を解決したい。だが、失敗すれば天使になれないどころか、悪魔の穢れに触れて消滅する可能性は否めない。
自身の魂と引き換えるにはあまりに些細なことかもしれない。あまりに小さい幸福かもしれない。けれど世の中はこんな小さなことを積み重ねて動いていく。人の世は温かな人同士の繋がりが生み出す絆が動かしていく――それが不幸であろうと幸せであろうと。ならば少しでも幸せが勝る方がいい。それだけは絶対に間違いない。
「まずは紋様の解読よね」
早速とばかりにエルシエルは紙とペンを用意する。
「じゃあ、紋様を書き写すから」
「書き写す?」
特定できねばなんともしようがない。見せてくれと言うとリオレイルが整った顔に似合わぬ下品な笑みを浮かべた。
「つまり俺の裸が見たいと、そういうことだな」
瞬間的にエルシエルが真っ赤になった。
「そ、それは、だって、調べるには……書かなくちゃ」
相手は男性で――しかも今は子供の身体なのだし――大した要求ではないはずなのに、どうしてわざわざそういう言い方をするのか。そんな風に言われては変に意識するではないか。
「馬鹿を言ってないでとっとと脱ぎなさい」
エルシエルの反応に大いに笑う主の頭を小突いて、ゼルデンが冷ややかに言う。
「ゼルデンさん。これってあなたの教育のたまもの?」
まさかとゼルデンは肩を竦める。
「そういうことはエイドリオ様仕込みだ」
ネロはしっかり者で温和な紳士的な少年という感じだったが、それはリオレイルがそう演じていただけで、実際の彼は周囲が語る通りやんちゃでガキ大将のいじめっ子というわけか。
ネロ改め、はじめてリオレイルとして接したわけだが、あの祖父にしてこの孫ありという奇妙な類似性を見たのだった。




