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第三章

第三章

    1


「リオ様の次はサッシュトン夫人のことを聞きたいの? よくわからない子だね」

 そう言って古株の年配メイドが笑う。

 隣の領地を治めるサッシュトン侯爵のその夫人。直接知る人物は殆どいなかった。サッシュトン侯爵家とは、お隣であるにも関わらず付き合いはなく、国の行事でもない限り、特に顔を合せることもないのだそうだ。

「あたしもよく知るわけじゃないけど、あまりいい噂はきかないね。かなり我儘なんだとか」

 ようやくサッシュトン夫人その人に関する答えが得られた。

「まあ、やたらと買い物好きだって聞いたよ。よく執事が連れまわされてるらしいね」

 男も好きらしいと声を抑えつつ付け足す。

「男遊び、つまりはつまみ食いさ。旦那以外の男を。結構、お盛んみたいだよ」

 友人から聞いたのだと言う。なんでも侯爵が一年の大半を王都で暮らして留守がちなので、夫人もしょっちゅう外出し、自由にしているらしい。

「金もあって身分もある。侯爵夫人なんて気楽なもんだね。いい御身分だ」

 羨望というよりも、やや小馬鹿にしたような口振りにエルシエルは首を傾げる。

「……偉い人なのに、悪い人なの?」

「偉いからいい人ってことはないよ。ただ運がいいってだけ。運があるから上にいるのさ。たまたまいい家に生まれたってだけ」

 エルシエルからすれば御位の高い方々はみな徳のある天使となる。大天使をはじめ、数多いる階位を有する者はみな一様に尊敬できる素晴らしい方々だとの認識があった。階位がそのままその天使の人となりを表すわけではないが、少なくとも下の者に悪口を言われるようなことがないのは確かだ。人間は位と人柄は比例するものではないようだ。

「運か。あたしもないからな。大事よね」

 そうだねとメイドが言う。

「まあ五体満足でご飯が食えて、こうして愚痴っていられるんだ。あたしもまあまあ幸せだよ」

 大いに笑いながら、年配のメイドは焼き菓子をひとつ差し出す。今日のおやつだというアップルパイの切れ端だった。焼き立てにありつけたことは運がいいと二人で笑った。

「サッシュトン夫人は確か王様のお身内だったんじゃなかったかね」

 端っこという割には随分たくさんのリンゴが入っている。

「ひゃあ、ろっれもえひゃひひろ?」

「何言ってるかわかんないよ。食べてからにおし」

 笑われたので一生懸命パイを飲み込む。喉に詰まりかけ、ばしばしと背中を叩かれた。

「じゃあとってもすっごく偉いってこと?」

「本当は他国に嫁ぐはずが破談になって、そんでハイダラアリアに嫁いだんだよ、確か」

 いわゆる降嫁というものだ。王家ではなく家臣の家に嫁ぐ。

「そのせいかね。結構お高くとまって鼻持ちならないところがあるんだそうだよ」

「メイドさんをいびるとか、意地悪とかそういう感じ?」

「だろうね。まあ、お姫様なんてのはそういうもんなんだろ」

 やはり働く側からすれば、優しくて、こちらを思いやってくれるということが大事なのだ。下からするれば上の人間はどうしたって隔たりを感じる存在なわけで、使用人すべてに良く思われるのは難しいのかもしれない。その点悪い噂を聞かないどころか、平気でこき下ろすような家臣がいるエイドリオやリオレイルというのはやはり慕われていると言えるのだろう。

「どうしたもんかな」

 どちらにしても情報が少なすぎる。他に何か手がかりはないかと考えたエルシエルは屋敷の中の書庫を教えてもらった。鍵もなく出入り自由だと言う図書室はそんなに広くはないが壁一面の書棚を埋める冊数はかなりに上るだろう。病がちだったエイドリオの夫人が読書好きだったのだと書庫まで案内してくれたメイドが話していた。

「勉強か? あんまり珍しいことすると雨が降るぞシェル」

 窓もない部屋に唐突に現れた白い小鳥はエルシエルの肩に着陸する。

「パパリってば、久しぶりに顔を見せたと思ったらそんなこと言うの?」

「だって、勉強嫌いだろ、お前さん」

 それには反論のしようがない。だが、必要とあれば本くらい読む気はある。授業に必要なものだってこれまできちんと読んで学んできているのだ――必要最低限だが。

「いろんな本があるね」

 綺麗なものから年代ものまで、様々な分野が並んでいる。大別すると物語とあとは医療に関するものが多い。その他はファイデル家の歴史にちなんだようなものや王家の関連。

「これ、なんだろ?」

 黒が基調の古い背表紙だった。綺麗に分類されているので恐らく同系統のものが集められていると思われた。一つの棚を埋める程の同色の背表紙の群れ。どことなく不穏なものを感じながら開くと、ある意味見慣れた、けれど決して身近にはなかった文字が並ぶ。

 目を眇めたパパリが魔術書だと言った。

「魔術書? まさか、これ全部?」

「ご夫人、身体弱かったって言ったっけか」

「うん。エディ爺の奥さんは結構若くに亡くなったって」

「医術で治らなければ、人が縋るのは神か悪魔、だろな」

 人の世の医術は目まぐるしく進歩している。天界でも人間自身で治療を行えるようにすべきとの動きがあり、人に対し天の知識を分け与えるようになっていた。進歩と言う形で、少しずつ普及させるのには理由があった。薬は毒にもなり得る。医術は悪にもなりやすい。ひとつ間違えれば命を奪う術へと変化する。それ故に人の様子を観察しながら普及させているのだと習ったが、すべてが悪用されるわけではないだろうに。もっともっと救われる命があってもいいだろうに。

 ――病気に対する知識を。確かな治療法を知りたい。

 そう願っていたのは勿論エイドリオであるが、恐らくは己の身体のせいで大事な人に心労をかけていると考えていた夫人本人であろう。

 彼女がどれほど健康を欲していたのか。この本の量だけでもわかるような気がした。


    2


 洗濯は好きだ。

 そんなことをぽろりと口にしたせいか、ディアナが笑顔で盥を置いていった。そして洗濯籠の中には汚れ物がこんもりと積まれている。

「暇に見えるんだろうけどね」

 脳みそは多忙なのだが身体は暇なのは事実だ。他のメイドやディアナは洗濯以外にもやることが山ほどある。その点、自分は一見するとただの居候でしかないことは否めないが……。

「……」

 汚れ物をひとつ摘まみあげて、エルシエルは小さく息をつく。

 結局、サッシュトン夫人のことはよくわからなかった。当然ながら古い記録に夫人個人の事が出ているわけもない。こうなれば直接行くしかないが、悲しいことに離宮はファイデル家の治める領地でも端にあり、ハイダラアリアとは真逆に位置する。飛んで行ったところでかなり時間がかかる。さすがに何日も不在ではネロに不審がられるかもしれない。

 ――ご忠告、心にとどめておく。

 何がどう間違っているのか。いまひとつわからないのだが、確かになんとなく少しどことなく気持ち悪いような気がしなくもなくもなくもない――かもしれない。日頃ドジばかりのエルシエルにとっては日常のあらゆることが心にとどめておかねばならないことに思える。

「せめてなあ、話せればいいのに」

 会いたくないと話したくないとは違うではないかと指摘したところで、それは屁理屈だ。

いっそ猫用出入り口にチャレンジするか。それともパパリを放り込むかと、半ば本気で考えたりもするが試験官にそんなことをすれば有無を言わさず失格だ。万が一受かっても今後の天使生活に差し支えるような気もする。それ以上にパパリとの友情が壊れることは間違いない。

 こぼれるのは溜息ばかり。地上に来て結構になるというのに。特に時間的な制限があるわけではないが、それでも一日でも早く解決したいところだ。

 憂鬱な心持ちで隣を見ると一向に減る気配を見せない洗濯物がある。先程とは違う種類の溜息をつくとエルシエルは新たな汚れ物に手を伸ばした。

「なんか……増えてないかな、これ」

 エルシエルはじっと洗濯物を睨む。実際、増えるわけはないがそんな気がしてならない。

「……黒っぽいものばっか」

 楽園での洗濯は白いものが多い。天使も見習いも使う布類は白系が大半で色の濃いものは殆どない。黒物はあまりきれいになった感がなく、楽しくないのだということをはじめて知った。

「もう、やりがいがないんだからっ!」

 奇声を発しつつ、時に洗濯物を振り回しながら一通り洗い終えて、泡だらけの水を捨てる。己も泡だらけなことはこの際忘れることにした。今はこの白以外の楽しくない洗濯物をはやいところやっつけてしまいたかった。

 盥を濯いで水を撒く。さすがに泡だらけの水を撒くわけにはいかないが、ある程度綺麗になった水なら問題ないだろう。ついでに芝生に水がやれて一石二鳥だと、己の効率の良さに満足しつつエルシエルは派手に水をぶちまけた――時だった。

「うわあっ!」

 突然背後から声が上がった。恐る恐る振り返った先にいたのは、やんごとなき方からお預かりをしている貴族のご子息様であった。

「ネ、ネロ様……なんでまたそんなとこに」

 まさか背後に人がいるなんてこと想像もしなかった。

「いちゃ悪いのか」

「そ、そんなことはないですけど」

 水も滴るとは彼のためにあるのかもしれない。頭から水をかぶってずぶ濡れ、しかもかなりの仏頂面だというのに、どうしてかとても麗しく見える。

「……か、かっこいいですね」

「はあ?」

 思わず素直な感想を漏らすとネロが怪訝な顔を向けた。

「この状況で、何をどうしたらそういう言葉が出てくるんだ」

「その、ずぶ濡れでも綺麗な人は綺麗なんだなと思って」

「意味不明だな」

 心底呆れたようなネロにごめんなさいと俯く。

「で、なんでこんなところで水を撒いてる」

「……一石二鳥なので」

「さらに意味不明」

「芝生さんがお水を所望だったんです」

「ほう」

「ごめんなさい、嘘です」

 エルシエルは慌てて両手を組んで天を見上げた。嘘は御法度である。あまりに酷い場合は堕とされてしまう。堕天使ならぬ、見習い堕天使など十回天以上にあり得ないものだ。

 濡れた髪をかきあげて、何の真似かとネロが笑う。

「そんな冗談、神様だって呆れるだけだろ」

 確かにそうだ。ネロが笑ってくれたのでエルシエルも笑顔を向けた。

「それにしても」

「なんだよ」

「見事にかかったね、水。びしょ濡れ」

「なんで嬉しそうなんだ」

「自分の水まきの才能に惚れ惚れっていうか」

「著しく、無駄な才能だ」

 確かにとエルシエルが頭を掻く。そんな自画自賛よりもずぶ濡れをなんとかすべきだろう。

「ネロ様、とりあえず目を瞑って」

 何事か問い返したネロの頭にエルシエルはスカートを被せた。

「ちょ――シェル!」

 スカートと言っても何枚も重なったうちの一番上ではあったが、あまりのことに驚いたのかネロは逃れようとして必死にもがく。だが逃げられず乱暴に拭かれ、ようやく開放された頃には水も滴るいい男から、ただの悪がきのような状態になっていた。

「お前、ちゃんと何をするか言ってから行動しろ!」

 ぼさぼさの髪をかきまぜて、驚くではないかとネロがエルシエルを睨みつけた。

「でもタオルとかどこにあるか知らないし、寒いし。とりあえず風邪引いちゃうでしょ?」

 わなわなと震えるネロに、あ、とエルシエルが続ける。

「スカートはきれいだよ」

 そういうことではないとの怒鳴り声にエルシエルはびくりと首を竦めた。

「レディとして問題だと言ってるんだ」

 楽園において怒鳴り声など耳にする経験は殆どない。ましてやいつもは穏やかなネロの、その予想外に厳しい声が恐ろしく、驚きと動揺が瞬間的に涙になりそうだった。

 レディとは貴族の娘のことだろうか。エルシエルは貴族でもないし、それどころか地上の人間でもない。楽園ではこんな風に水を掛け合って、ふざけ合いながら濡れた体を拭くなんてことは日常茶飯事だ。これほどに怒られるとは思ってもみなかった。

「あの……ごめんなさい」

 詫びる声が震えた。何がそこまで彼の怒りを買ったのだろうか……。

 大きく息をつき、もういいとネロが言う。言いつつもまだ怒りは収まらないのかむっつりと黙ったままで、エルシエルとしてもこれ以上何をどう言っていいのかわからなかった。

 エルシエルにとってネロは一番の協力者であり理解者だ。そして勝手なことだが一番の友人だとも思っている。とても良くしてくれる大切な人を怒らせてしまったと思うと気持ちが沈む。不快な思いをさせたのは申し訳ない。

「悪かった」

 ごめんなさいと、謝ることしかできないエルシエルを遮るようにしてネロが言った。

「ちょっと予想外の行動だったから、動揺して。思わず……ごめん」

 つまるところ習慣の違いだ。だとすれば異界から来た勉強不足のエルシエルが悪い。それをネロが謝るのは間違いなのだが、すまないと言ってくれたことでなんだか少しほっとしていた。

「えっと……じゃあ、つまりは、おあいこ?」

「それは違う。絶対。断じて、全然」

 断固とした回答に項垂れると、ネロが表情を和らげた。

「今日は朝からゼルデンがいないんだ。暇になったからお茶でもと思ったけど、まずは着替えないといけないな」

 濡れたのは髪だけであるはずもない。シャツが張り付いて肌が透けてしまっている。

「だったら脱ぐ? ついでに洗ってあげるよ」

「……何それ。天使の合理性?」

 呆れる口調なのは、そもそもの原因がエルシエルにあるからだろう。

「こんなところで裸になるなんて紳士のすることじゃない。部屋に戻るよ」

 それからと続ける。

「誰か寄越すから、もう洗濯はやめること」

「な、なんで?」

「被害者が増える」

 被害者本人に言われては返す言葉もない。反論もできず、エルシエルは素直に敗北を認めた。

「ネロ様って、優しいのかと思いきや意外に意地悪だよね」

「これでも結構抑えている」

「そ、そうなの?」

 それは衝撃の事実だ。

「シェルを見てると指摘したいことは山ほどある。が、九割は我慢している」

「き――九割?」

 素っ頓狂に復唱してしまった。九割と言ったら殆ど全部ではないか。温和そうに見せておきながら、中身はゼルデンと大差ないということではないのか。

「でも。その分、シェルといるのは楽しいよ」

「え?」

「命令! 罰としてサロンで待ってろ」

 ネロが踵を返す。背中ごしに手を振るネロを見やったエルシエルは目を瞠った。

 透けて見えたその背中。

 ――螺旋の紋様?

 息を呑み、思わずエルシエルはネロを呼んでいた。

「ん?」

 ネロが振り返る。あまりに屈託のない様子に己の目にしたものが信じられなかった。

「――な、なんでもないです」

 首を傾げたネロは後でと言い残して去っていく。エルシエルはただ呆然とその背中を見送ったのだった。



 その後のお茶の時間は平静を装うのが大変だった。

 ネロが何度か呼びかけるなんてこともあった。そのたびに笑顔を繕うものの頭の中ではあの螺旋が渦巻き、どうしてもうわの空になる。しまいには体調が悪いのではと心配され、部屋で休めと言われてしまった。相当に顔色が悪かったのは事実だろう。体調不良というのもあながち間違いとは言えないかもしれない。

 心底心配そうな声だったのが胸に痛い。こんなに露骨に動揺するなどまだまだ未熟だと思わざるを得ないが、相手がネロだったからこそ動揺しているのだという自覚はあった。

 ――螺旋の紋様。

 それは悪魔の刻印。悪魔による呪術の証だった。どうしてそんなものがネロにあるのか。

 悪魔――それは闇の者であり魔の者である。光の者であり、聖の者である天使とは対極に位置する者だった。天使側からすると穢れを纏う、恐ろしい存在である。

 刻印があるということは悪魔の怒りを買ったか、もしくは悪魔と繋がる人間の恨みを買ったか。そうでなくてはあんなものを刻まれる理由はない。明るく、朗らかで心優しい少年の、一体何がそんな怒りを買うというのか。それだけではない。天使見習いの試験の場に悪魔が絡む事象が生じること自体がまずあり得ないはずである。これは明らかに上層部のミスと言えた。

 エルシエルが取るべき正しい行動はひとつ――パパリに速やかに状況報告を行うこと。

 エルシエルが睨んだ願い主の要望は「孫と会う」というもの。ネロはあくまでそこに関わる一人物であり、直接的に試験と関わりがある存在ではない。正式な天使ではないエルシエルにとって悪魔の力は強すぎる。祓いが出来ない身では穢れを受けて、魂が損なわれてしまう。そうなっては天使になることは愚か、存在していることもできなくなってしまい、魂の償却――すなわち消滅が待っている。悪魔が関わっている以上、エルシエルがここに残るのは好ましいことではなかった。

「それは、わかってるけど」

 わかっているけれど、報告をすればここを離れることになってしまう。今の段階で楽園が動いていないなら、この後も救いがなされることはないだろう。それでは単にネロを見捨てたに等しい。だからと言って報告せずにいることが良いのかと言えば、それも微妙だ。エルシエルの手に負えないのなら結果としては同じことになる。

 違うのは傍にいられるということだけ。何ができるわけでもないが、傍にいれば何かができるかもしれない。けれど、それは天使ですらない己には苦しい選択だ。

「……」

 大きな窓を開け、そのヘリに腰掛けたエルシエルは遠く瞬く夜空を見上げて溜息をついた。クッションを抱え直し、冷たい風をやり過ごす。

 こんな風に夜空を見上げることは多くはない。それこそ試験で人の世界にでも来ない限り、天使見習いは夜間の行動を避けている。昼は天使の時間、夜は悪魔の時間――漠然とそういう考えが染みついており、理由はわからないがそういう生活習慣になっていて、エルシエル自身疑問に思ったことはなかったのだが。

 夜の闇は綺麗だから、魅入られないようにと考えたのかもしれないとそんな風に思う。事実、自分は魅入られてしまっている。その証拠に、正しい行動をとることに大きな迷いがあった。

 ネロを助けたい――でも試験の失敗は怖い。穢れも恐ろしい。消滅なんて、考えたくもない。それでもネロを助けたい。でも消滅はしたくない、でもでも――。

 果てしない堂々巡りだ。あれもこれもなんて無理なのに渦巻く思いはどれも本心だ。そんな自分の考えがとても浅ましく、情けなかった。ネロのことも、失敗も、消滅も全ては自分が嫌だというだけ、真の解決を望んでいるわけではない。結局、自分のことしか考えていないのだと改めて気づかされる。

 ――天使とはいかなるべきか。

 幾度となく教わってきた基本中の基本。

 人を救うのは神であり天だ。天使ではない。けれど、人は天使を見て、恐らくは救いを求めるのではないだろうか。ならば天使は希望でなくてはならない。天の使いである以上、少なくとも安らげるものでなくてはならないはすだ。

 それが理想。そうありたいと願う……けれど。

 エルシエルは己の手を見た。人を救うには小さすぎる手――そもそも見習いではおこがましい考えだが――その手が震えていた。

「怖いよ」

 声に出してみた。悪魔も消滅も怖いけれど、自分の本質を見失いそうなこともまた怖い。大事な人を救えないことも怖い。怖いばかりの状況にどうしようどうしようと心が繰り返す。何が一番大事なことなのか、怖さに目隠しをされて見極めることができない。

 クッションに顔を埋めると背後でことりと音がした。吹き込んだ風に揺らされたカーテンが棚の上に置いてあったものに当たったようだ。何が倒れたのか、ぼんやりと振り返ろうとしたエルシエルの耳に小さな音楽が流れて込んできた。

「これ」

 オルゴールだった。エルシエルの知らない曲。けれど心地よく、小さな澄んだ音を響かせる。

 ――眠れないって?

 そう言って笑った顔が浮かぶ。

 静かすぎる夜が落ち着かないと話した時だ。

 これまで訪れた先にここまで裕福な家庭はなかった。貴族の屋敷ははじめてで、あまりに広い部屋も慣れないものだった。蕾の園でも相部屋なので常に人の気配があって、うるさいくらいの環境にいたエルシエルは静か過ぎる空間がなんとも寂しかったのだ。そんなエルシエルにネロはオルゴールをくれた。古いオルゴールで少し壊れていると差し出されたそれは角がちょっとだけ欠けていた。

「音の方は直してみたけど、綺麗じゃないかも」

 心配するネロだったが、実際には美しい音色を奏でてくれた。

 エルシエルは目を閉じて耳を傾けた。儚くも可憐な音色がエルシエルの心に沁みた。淡い夜のように、弱い心を優しく包み、温めていく。

 ねじを巻いておかなかったので、すぐにゆっくりになったオルゴールは間もなく止まってしまった。再び戻った静寂にエルシエルは目を開ける。

 見上げれば、満点の、美しい星空。

 輝きの向こうで、淡く広がる深淵の闇。

 エルシエルは静かに頷いた。



「パパリ」

 太陽が昇り、闇が薄い紫へと変わる。やがて光が空を埋める頃、エルシエルはどこへともなく声をかけた。するとすぐ間近で羽音がして、白い文鳥姿のパパリが目の前に現れる。

「どした?」

 試験官は常時傍にいるわけではない。時折見回りにくる程度で、受験者の方から試験官を呼び出すことはあまりないが、何かあれば試験官に報告義務がある。そのせいか呼ばわればすぐ姿を現すのはさすがだ。しかし見張っているわけでもないのに殆ど間をおかずにやってくるのはどういう仕組みなのか、不思議でもある。

「螺旋の紋様を見たの」

「螺旋の紋様?」

 パパリが繰り返した。

「どこで」

「……それは」

 言い澱んだ。暫く考えてエルシエルは首を振る。

「確認するよ」

 パパリの真ん丸な黒い目が見上げてくる。

「螺旋の、古代文字に違いない?」

「うん」

「触れてないね?」

 黙って頷く。

「ならいい。今後近づくなよ」

「……」

「上に報告する。で、シェルは次の指示を待つ。いい?」

 エルシエルはきつく口を結ぶ。思った通りだ。試験は一時中止、その後の流れとしてはここからの離脱、そしてエルシエルには新たな試験が用意される。

「不満そうだね」

 パパリが言った。

「わかってんのか?」

 わざとらしく大きな息をついたパパリが羽ばたくとエルシエルの手に降り立った。

「螺旋の紋様は悪魔の刻印だ。天使が触れていいもんじゃないぞ」

 まして試験合格者の研修というわけでもなければ、まだ天使ですらない中途半端な身分だ。

「解除してはもらえないの?」

「僕じゃ無理。そもそも上が動いてないなら、それは関わるべきじゃないってことだ」

 本来死すべきではない人物であったり、地上に影響を及ぼすような魔術が発動された場合には楽園に所属する天使がその解除にあたるというのはエルシエルも習っている。魔術解除を行うのは天使の中でも特殊な立場で、きちんと資格を持った熾天使以上とされていた。

「どうしても無理?」

「無理」

「パパリから頼んでもらうことはできない?」

「できない。そんなことシェルだってわかってるだろ?」

 エルシエルは唇を噛んだ。パパリにそんな権限がないことはわかる。そしてパパリが言うことが正しいのもわかっている。

「なんだよ、何こだわってる?」

「……恩人なの」

 言うべきか言わないでいるべきか。僅かな躊躇の後にエルシエルがぽつりと言った。

「いっぱい助けてもらって、たくさんお世話になってるのに」

「お前が見捨てるわけじゃないだろ」

「おんなじだよ。気づいたのに何もしないなら、それは同じだもん」

 そもそも彼がいなければこんな風に試験に臨んでいることができただろうか。

「仕方ないだろ。何事にも限界はあるんだから」

 言われるまでもない。天使にだって限界はある。まして天使ですらない自分にできることなんて、ほんの僅かなことしかないのだ。別にパパリも意地悪を言っているわけではない。試験官として、何より友人として言葉を尽くしてくれているのだ。

「お前のせいじゃないんだから、そんなに落ち込むなよ」

 エルシエルはクッションを抱えて顔を埋める。

 無力な自分が腹立たしく、悔しかった。元々無茶な頼みではあったが、やはり何の役にも立てない。恩人を助けることすらできないなんて、なんと情けない話か。

 ――だったら、もう、迷わない。

 天が何もしてくれないならば自分がやるしかない。見習いなんて中途半端な己が何を、どれだけできるのかわからないし何もできないかもしれない。けれどだからと言って何もせずにいるなんて絶対的に無理だ。だからパパリに打ち明けたのだ。

「あのね、パパリ」

 顔を埋めたまま、エルシエルは口を開いた。

「あたし、天使になりたいんだ」

 顔を上げれば、不穏な何かを感じたのか、パパリが目を眇めていた。

「落ちこぼれで、失敗ばかりだけど。でも天使になりたい。例え消えちゃったとしても、ちゃんと、ほんとの天使になりたいの」


    3


「シェル」

 パパリが呼ぶ。

「紋様に触れれば、取り返しのつかないことになるかもしれない。それは理解してるのか」

 天使見習いが悪魔にニアミスするなど本来はあり得ない。それについてはエルシエルの責任ではない。指示通り、このまま離脱すればお咎めもなく、穢れることもなく、新たに試験が用意される。

 しかし、触れてしまえば事態はそう簡単にはいかない。

「受験資格を失うことになるかもしれない。最悪、消滅なんてこともあるかもしれない」

 パパリが真正面からエルシエルを見つめる。

「それでもいいのか?」

 十一回目のチャンス。散々馬鹿にされながらも掴んだ再びの好機。

 今回は試験以外に気を取られないと決心したはずだった。けれど無理だ。目の前の事象を見逃すなどできない。それでは誰の願いも掬い取るなんてできない。まして、自分のことを助けてくれた大事な人の危機を前に背を向ければ、それはもう偽りの天使だ。

「構わない」

 本当にいいのかと念を押すパパリにエルシエルは頷く。

「ったく……」

 パパリが首を振る。

「だからお前は十回天じゅっかいてんなんだ。お前らしくて涙が出るよ」

 溜息交じりに言うパパリが羽を広げた。人の動きで言うなら肩を竦めた感じだろうか。

「これは……試験官としてじゃなくて言うんだけどさ」

 大きな真ん丸の黒目がエルシエルを見上げる。

「できればこのまま離脱してほしいって思うよ」

「パパリ」

「この後にまたチャンスが来るかはわからないし、もしチャンスが来たとしても後がないんだ。だからできれば今回で合格してほしいって思ってる」

 友達としての言葉が温かい。素直にありがとうと言うと黒い瞳が少し和らいだ。

「……まあ、こういう奴だってのはわかってるんだけどね」

「こういう奴?」

「頑固で融通が利かなくて、馬鹿で底抜けな善人。ま、それでこそエルシエルって感じだよ」

 褒めているのかいないのかわからないが、呆れる中にも称賛するような雰囲気があった。

「お前は十回天だ」

「……それ、連呼しなくていいから」

 違うよ、とパパリが否定する。

「今はいい意味で連呼してるんだ。十回天だからこそ、僕は協力するんだから」

 協力という言葉にエルシエルは目を瞠る。

「上の方々はお前が誰よりも天使らしいと考えてるみたいだ。だからなんとかお前を天使にしてやりたいと思ってる。内緒だけどな」

 初耳だが、それはエルシエルに知らされるような話ではないので当然だ。

「知ってるか? ジブリール様も実は十回天なんだ」

 エルシエルは飛び出さんばかりに目を見開いた。

「超ウルトラ成績優秀者なんだと思ってた」

「ついつい困ってる人に手を貸してなかなか合格しなかった。どっかの誰かさんみたいに」

 頑張ってと異例の声掛けをしたのはそういった事情があったからなのだろうか。楽しげな笑い交じりの声は決して馬鹿にしたのではなく、過去の自分でも思い出していたのか。

「その天使としての潜在的な強さと、上の方々のお目こぼしを期待しよう」

 パパリとしても別段確証があることではないのだ。

「改めて聞くけど、本当にいいんだな?」

 パパリの心配はありがたかった。こんな自分でも心配してくれる存在があるのは嬉しい。

「うん」

 禁忌に触れたことによる消滅。それでなくても既に十一度目の試験だ。十三回が試験回数の限度。残されたチャンスはあと二回。あと二度の試験に成功しなければ消える。

なんとなく受からない予感があった。そもそもこの弱気がいけないのかもしれないが、ここまで失敗するのは運がないだけではなく己に原因があるのだろう。それが性格に起因しているのなら、改善は見込めないように思う。

 それに、覚悟ならもう決めた。

「ねえ、あたしはいいけど、パパリには何か影響出たりしない?」

 パパリの協力はエルシエルの行動を黙認することだ。天界からの監視官はパパリだけ。パパリが報告をしなければこのまま試験は続行され、エルシエルは地上にいられる。

本当なら悪魔に関わった時点で報告され離脱が指示される。従わなければ失格だ。仮にエルシエルが報告をしなくてもパパリは試験官である。常に状況を把握しておく義務があり、報告の有無に関わらず刻印に関わったことも認識していなくてはおかしい。気づかなかったというだけでも、当然管理不行き届きであり、さらに報告を怠ったということで職務怠慢にも値する。まして協力などとなればどんなお咎めがあるか。

「罰とかあったりしないの?」

「僕はお前さんと違って要領がいいから。心配無用」

 否定はしなかった。恐らく何もないとは断言できないに違いない。その厚意に感謝しつつ内心で詫びた。いくら覚悟を決めたからと言っても一人ではどうしていいかわからないのだからパパリが協力してくれるのは助かる。願わくば大きな咎とならないことを祈るのみだ。

「まずは特定しなくちゃなんないな」

 エルシエルが頷く。

「できれば何かに書き写して、それから魔術書を調べよう」

「魔術書?」

「あったじゃないか。この家には山盛りたくさん」

 エイドリオの奥方の書庫だ。何か役に立つものがあるかもしれない。

「けど、本来の目的の方はどうするんだ? 放っておくのか?」

 エイドリオの願いを叶えるという試験に関わる部分についてパパリが確認をする。勿論エルシエルはそれを投げ出すつもりはない。刻印をなんとかして、それでも地上にいられるのであれば、出来る限り頑張ろうと思っていた。

「それは、試験として?」

「わかんない。それでもいいし、そうでなくてもいい。どうせ失格だろうしね」

 出来る事なら叶えたかった。エイドリオの痛みも、使用人たちの痛みもよくわかるから。

 ネロを助けることができたとして。それだけでも自分としては快挙だと思うのに、その上エイドリオの心まで助けることができるなんて、多くを望みすぎな気がする。

「こうやって十回天は生まれんだな」

 何度目かのパパリの溜息。

うらやましいよ、そう言ってパパリは黒い目を細めた。

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