第二章
第二章
1
――リオレイル様とはどんな人?
離宮に滞在することひと月。エルシエルはメモを片手に屋敷の人々から話を聞いていた。その誰もがいい主人だと褒める。古参の使用人たちは明るくてやんちゃな子だとも話していた。
そして皆一様に言うのは、こんな風に閉じこもるタイプではないということだった。
「まあ、だいたいそんな感じですよ」
「今、適当に言ったよね」
気のなさそうに鷹揚な答えを返したのはディアナだ。彼女と話すのは久しぶりだった。
ここへ来て間もなく、ディアナは報告やら雑用のために一度エイドリオの居城に帰った。再び離宮に戻るも、何やら忙しそうでなんとなく近づきにくかったのだが、洗濯の山を抱えた彼女の方から声を掛けてくれたので一緒に裏庭に出て来た次第である。
先に終わっている洗濯物が気持ちよさそうに泳いでいる。秋も終わりに近く、山からの風も乾いて冷たいが、日差しがあれば心地よいものであった。
「本来は引きこもるなんて、そんな繊細さはないでしょうね」
盥に洗い物を放りこんでディアナが言う。
「図太いってこと?」
一緒にやるかと聞かれエルシエルは頷いた。洗濯は蕾の園でも自分たちで行うものだ。別段苦になる作業ではない。泡を浮かべて一緒に布を擦りながら問うとディアナは首を振った。
「どちらかと言えばガキ大将タイプですから、何かあっても打開しようとしますね。力ずくで」
なるほどとエルシエルは頷く。力ずくとは、なんだか穏やかならぬ表現だ。
「それにしてもさ。関係ないけどすごい洗濯物だね」
「面倒だったので少し溜めてみたんです」
エルシエルは思わずディアナを見やった。結果的にきちんとやればいいのだろうが、果たしてそれはメイドとしてどうなのだろう。やはり、なんというかこのディアナという女性はとてつもなく不思議な性格をしているように思う、控えめに言って。
「そういえば、この間大量の真っ黒な汚れ物を洗いました。溜めたわけでもないのに」
どうしてか少し恍惚としたような表情なのが解せない。
「噂の煙突掃除ですね」
噂ってと、エルシエルが内心で脱力する。煙突に潜入した時のもののようだ。エルシエル付のメイドとなってしまったからだろうか、押し付けられたのかもしれない。
「ごめんね。後のことまで考えてなくて。言ってくれたらあたしがやったのに」
構わないとディアナが僅かに微笑む。むしろ満足げな笑みなところが不気味だ。
「あの兄にまずは一撃。素晴らしいことです。あの悔しそうな様子。一か月はご飯がおいしく食べれそうです。第二撃を期待したいところですね」
期待されても困るとエルシエルは偏屈執事によく似た美人のメイドを見上げた。
「もしかして仲悪いの?」
「いたって普通ですよ。ただ兄も私も陰険で捻くれてますから。私からすればあの澄ました兄が歯噛みする姿など見ると小躍りしたくなります」
どこをどうしたら普通と言えるのかは甚だ疑問だが、人間とはそんなものなのだろうか。
「要するに、二人ともいじめっ子なのね」
「簡単に言うとそうですかね。そんな私たちからすると、あなたはとても楽しい存在です。打たれ強そうだし、その上逞しくて」
確かにからかわれやすい方だとの自覚はある。それは蕾の園の暮らしでもわかっていることだが、こうも正面切って断言されると複雑な気分だ。
「こんなことを言うのはなんですけど、リオ様のことは兄の方が詳しいですよ」
それは言われずとも充分承知なのだが、あの執事とはまだ少し距離を置いておきたいというのか、対決するには自分が未熟だというのが本音の部分である。
「いずれは聞きにいくとして、まずは他の人からね」
もう少し煙突の傷を癒してからにしたい。
「エディ様の話では旅行に行った後くらいかららしいんだけど、本当にそんな頃?」
「どうでしたか……言われてみればそうですかね」
「その頃何か変わったことってあった?」
さあ、とディアナが首を振る。
「やっぱり兄に聞いた方がいいと思いますよ。何せ、仲良しですし、あの二人」
エルシエルはエイドリオから聞いた話を思い起こす。
ゼルデンとディアナの父はエイドリオの執事ボナルだ。早くに両親を亡くしたリオレイルをボナルの妻が自分の子供たちと一緒に面倒を見たのだそうだ。ゼルデンがリオレイルの側近となったのはごく自然な成り行きだったのだろう。
「でも、そのゼルデンさんも会ってもらえないらしいんだよねえ」
幼馴染にして親友、側近、それだけ揃っている人物が会えないとは、相当手強い。
「ディアナから見たリオ様ってどんな方?」
「素晴らしいいじめっ子です」
「い、いじめっ子なの?」
おかしな感想が返ってきたものだ。なんというかどこもかしこもいじめっ子だらけではないか。力ずくとの表現から少し伺えたが、やはりそういう類なのかとなんとはなしに不安が過る。
「いじめっ子といいますか、皮肉屋といいますか」
どちらもあまりいい意味とは思えないが、ディアナの口から出るとそれは最高の褒め言葉のように聞こえるのが恐ろしい。
「まあ、そんな方ですから、この状況はらしくないと言えるとは思います」
「どこか悪かったとか?」
いいえとディアナが答えて泡の浮いた盥に新たな汚れ物を放り込む。
「そういう話は聞いてません。子供の頃は健康優良児でしたので、まあ、ないでしょうね」
「……そっかあ」
「すいません。あまり役に立たなくて」
すまないと言う割に口調は相変わらずで、悪びれる様子がないところがおかしい。
「ネロ様とやらは知らないんですかね?」
「知らないみたい」
ここに置いてもらう名目上の仕事はそのネロの遊び相手だが、今のところ一緒にいるのは昼食時くらいのものだった。午前中は勉強をしているらしく部屋にいるようで、午後はどこかへ出かけることが多い。その際、ただでさえ多忙なゼルデンが同行している。話す機会がないのはエルシエルが避けているのも否めないが、ゼルデン側に時間の余裕がなさそうというのも理由の一つにあった。
「女の子二人で泡遊び?」
明るい声に振り返ると草を踏んでやってくるのはネロだった。いつもはシャツだけでいることが多いが、風が冷たい今日は淡いグリーンのカーディガンを羽織っていた。
「泡遊びをしているのはシェル様で、私は洗濯です」
淡々とした口調でディアナが答える。確かに、次々と洗濯を進めるディアナの隣で、考えに耽っていたエルシエルの手は完全に止まっていた。
「酷い、手伝ってるでしょ。ほら、見てよ。こんなにきれいになってるじゃない」
「まだ一枚だけじゃないですか。口ほどに手は動かず。それでは良きメイドにはなれませんね」
「……メイドになるのか?」
なるわけがない。そもそも天使になるために来ているというのにどこからそういう道が生まれてくるというのか。
「向かないと思うぞ。ドジそうだし。たかが洗濯でこんなに泡だらけになるんじゃ無理だよ」
憮然とするエルシエルにネロが笑いながら手を伸ばす。気が付けば顔やら髪やらに泡が飛んでいたらしい。それを指先で掬い取ったネロが息をかけて遠くへ飛ばした。
「ディアナ、シェルを借りていくけど、いい?」
「どうぞ」
むしろその方が助かるといわんばかりの口調にエルシエルは肩を落とすのだった。
「今日はお出かけはないの?」
「ゼルデンに外せない用があるんだ。だからシェルとお茶でもしようかと」
片目を閉じたネロはバスケットを持っていた。
「探しても見つからないからまた煙突にでも入ったかと思ったよ」
「なんで蒸し返すんですかね」
ゼルデンほどではないにしてもこの少年も充分いじめっ子の素質を持っていると思う。
「あそこにしよう。日当たりもいいし、温かそうだ」
この離宮にはいたるところにベンチが置かれている。季節柄、花壇に花は見られないものの、整えられた芝生は立派な庭園だ。あまり外出のできなかったエイドリオ夫人のために作られた離宮なので休憩場所も多いのだそうだ。
「ネロ様ってさ、ゼルデンさんと仲良しよね」
手ずから茶を入れつつ、そうかなとネロが答える。
「あの意地悪と渡り合えるなんて、ネロ様って結構大物」
「大袈裟な」
「そんなことないよ。あれは今まで会った中で最強のいじめっ子だもの」
「天使にもいじめっ子っているの?」
「いるよ。あたしの羽でわかるでしょ」
なるほどとネロが笑う。
「ねえ、天使の暮らしってどんな感じ?」
「別に変わらないよ。畑仕事もあるし、寝るし食べるし。掃除も洗濯もするよ」
天使たちが育つ蕾の園。それは天国の一部だが、あちらでは天界や天国という呼び方はしない。あの世界は楽園と呼ばれる。
天界――楽園などというと優雅な世界を想像しそうなものだが、生活そのものはそんなに変わらず、むしろ質素だ。天使になるのだという欲や競争意識があっても、それが争いごとに結びつくことはない、ごく平和な場所だ。よくからかわれるエルシエルだが、それにしたっていじめというよりもいたずらと呼ぶ方が相応しい程度で、根が深いものはない。
「行ってみたいね、シェルの育った国」
「……それは死にたいということ?」
人間が楽園に行くには死ぬしかない。怪訝に問えばネロが笑えないと憮然とした。
死んだ人間の魂は楽園の一部に到達して管理される。その後どのような形で昇華されるのかは、一介の天使見習いにはわからないことだ。
「あのさ」
他愛のない話をしていたネロが不意に表情を改める。
「ゼルデンは味方にした方がいいと思うんだけど」
「ネロ様まで言う」
「え?」
「ディアナも、兄の方がリオ様については詳しいからって言うしさ」
それだけではない。実は使用人の多くがゼルデンと話すといいと言っていたのだ。
「あたし嫌われてるから味方にするなんて絶対無理。すぐ出てけって言われるんだもん」
「ああ、それはかなり気に入ってるな、うん」
「意味不明ですけど」
「あいつ、気に入るとやたらといじめたがるんだ。まあ確かにシェルっていじめ心をくすぐるタイプだからわからなくはないが……」
あいつと呼ぶネロの口調はとても砕けたものだった。
「そんなの、ちっとも嬉しくない」
「そう言うなよ、いい奴だよ」
「それは一部に対してなんじゃないの? その中にあたしは絶対入ってない。ゼルデンさんからはあたしを排除しようとする鉄の意思が見える」
実際それくらい強固な壁を感じる。
「あたしと顔を会わせてる時のゼルデンさんは血の色とか青く変化してるの、きっと」
「何者だ、それ」
「冷血敏腕執事魔人」
「……敏腕はつくんだな」
自分に対する態度はともかく、使用人たちも慕っているのは間違いなさそうだし、主がおかしな状態であるのに屋敷内がきちんと管理されている様子からするととってもできた執事なのではないかとは思っているのだ。
「真面目な話、僕はシェルとゼルデンには仲良くしてほしいと思ってる」
無理かなと尋ねる口調は言葉と同様真剣なものだった。
「そりゃ、ネロ様のお願いなら聞いてあげたいのは山々ですけど」
ネロはここにいられるようにしてくれた恩人である。とてもよくしてもらっている。それは充分わかっている。わかってはいるが、こればっかりは絶対に無理だ。
「天使って意外に頑固なんだね」
見習いですと間髪入れずに訂正したエルシエルにネロが噴き出した。
「絶対それ言うよね。そんなに重要?」
「重要よ。だって天使になるために頑張ってるんだもん。天使ってくくられちゃったら頑張れなくなっちゃうじゃない」
「人間からみたら大差ないんだけど」
それはあくまで人間基準であってエルシエルたち天使見習いの間では大きな違いなのだ。
「ひとつ疑問なんだけどさ。天使ってみんな赤ん坊の姿じゃないの? 素っ裸で飛んでるやつ。あれが本物の天使ってこと? シェルもあんな風になるの?」
「ネロ様、あなたはアホですか」
「なんだ、それは」
「あれは地上に対しての演出。あんな天使いないよ。赤ん坊以前になんで素っ裸なのか、その辺からして、あたしたちも疑問なくらいだもん」
あれはあり得ないと言うエルシエルに、夢がないと複雑な表情でネロが呟いた。
「ほんとに変わらないんだね、人間と」
「そういうこと」
「だったらゼルデンとも仲良くできるよね?」
「戻しましたね、そこに」
エルシエルは口をへの字にする。
「あたしだって別に好きで避けてるわけじゃないんだけど」
なんというか、あの強烈ないじめっ子オーラが近づくことを許してくれないとでもいえばいいのだろうか。どうしても怖気づいてしまう。
「いっそ天使見習いだと話したらどう?」
「逆効果です」
きっぱりとエルシエルは断言した。化け物でも見るような目で見るに決まってる。もしくは頭がおかしいと思うかもしれない。ただでさえ恐ろしいのにそんな目で見られたりしたら、いくらネロの庇護があってもここにいられなくなりそうだ。
「そんなことないよ」
「いいえ、絶対絶対そうです絶対」
「シェルの中のゼルデン像ってすごいのな」
ネロが深々と溜息をついた。
ここにいることに対し、ネロにもう一つ頼んだことがある。それはエルシエルが天使見習いだと明かさないというものだった。いくら制限がないとは言え必要以上に吹聴すべきではないし、行き過ぎれば試験官にもいい印象を与えることではない。律儀にそれを守ってくれているようだが――確かにゼルデンには打ち明けてしまう方がいいのかもしれない。
人の世界において天使とは非常にめでたいものであるらしいことは知っている。否定するつもりはないが、大方が人間の抱いた勝手な想像で、単なる天の使いをいつしか神と同一視してしまった傾向がある。だからこそネロの言ったような地上用のイメージが作られたのだが、いっそのことその誤解を利用する方法も悪くないかもしれない。ただ、あの堅物がそれを良しとするとは思えず、かえって胡散臭いと追い払われそうな気がしてしまう。そしてそれがどう試験に影響するか考えると、あまりいい結果を想像できないのだ。
「じゃあ、なんで僕には話したの?」
「……え」
「僕にはさ、結構あっさり打ち明けたように思うんだけど」
はじめて会ったあの時、ネロは思い切り呆れた顔をしていた。それなのになぜかきちんと相手をしてくれた。怪しい以外の何者でもない自分の話を真面目に聞いてくれた。
それだけではないと思う。強い意志を感じさせる深い夜空のような瞳。今もまっすぐに見つめてくるこの眼差し。楽園にはない不思議な闇色がエルシエルを惹きつける。そしてネロの、魅惑的な瞳そのままの雰囲気が警戒心を解いたのも事実だ。
「……あたしにもわからないけど、なんとなく、大丈夫かなって」
天使見習いの勘かと問うのにエルシエルは曖昧な笑みで答える。闇色に惹かれるなど天使の側に立つ身としては公に言えない気がした。
「まあ、でも少しは考えてみてよ。あんまし時間もないことだし」
「え?」
「あ、ごめん。こっちの話」
どういうことか尋ねるよりも先にネロが話題を変える。明らかに話を逸らそうとしている意図が見えたが、追及はしなかった。
触れてほしくないことは誰にだってある。それは自分も同様だ。わざわざ触れないでという意思を見せているものに対して、あえて踏み込んでいく勇気はない。もしかしたらそういう部分もまた十回天の原因なのかもしれない。ネロの笑顔を見ながらそんなことを考えていた。
2
ネロになんと言われようと自分から訪ねていく勇気は持てなかった。いきなり行っても忙しいとかうるさいとか言われてあしらわれそうな気がする。ここに来て結構になるが一方的な嫌味と皮肉の「応」と「酬」を食らっている。あれに立ち向かうには自分には人生経験が不足している。天使見習いだから「人」生経験は今のところない……これは屁理屈だろうが。
ゼルデンには手紙を出した。同じ屋敷にいるのに変な話だが、手紙なら時間のある時に読んでもらえればいいわけだし、出してしまえばもう後にも引けないから逃げようはない。恐ろしく馬鹿丁寧な文章で都合の良い時に部屋を訪ねてくれるように依頼したのだが――。
「お前はやはり馬鹿なのだな」
手紙を出したその夜に来るとは思わなかった。そして扉を開けた第一声もまた予想外だった。
「い、いきなりなんですか」
「今は深夜に近い。ノックに対して不用心すぎる。まずは返事をするか誰何しろ。いきなり開ける奴があるか――で、なんで閉めようとするんだ」
すかさず、よく磨かれた靴が隙間に差し込まれる。
「だって、開けるなり文句を言うからやり直そうかと」
「時間の無駄だ。それに廊下は迷惑になる。いいから入らせろ」
「こんな時間に乙女の部屋に来るなんて」
「乙女なんてこの屋敷にはおらん」
それに、とゼルデンが続ける。
「恐ろしく無駄に敬語を重ねまくった無様な文章で呼んだのはお前だ」
「……」
「安心しろ、長居はしない。というかしたくない」
「馬鹿がうつるとか言うんでしょ。おあいにく様、馬鹿はうつりません」
「馬鹿だと認めたんだな」
しまったと思うも時は既に遅い。慣れない皮肉など言うのではなかった。
敗北に項垂れつつゼルデンを招き入れた。転がっているクッションを一つ抱えて長いソファに丸くなる。何かに縋らなければこの偏屈意地悪大王に立ち向かうことなどできない。
「遅くなってすまないな」
ゼルデンが無駄のない動きで一番遠い一人掛けのソファに座る。さりげない言葉にエルシエルは耳を疑った。
「い、今、なんと?」
「なかなか片付かなかったことがあって遅くなったと言ったんだが?」
「何かおかしなものでもお食べあそばしました?」
いや、とゼルデンが頬杖をつく。
「お子様はもう寝ている時間だろう。そう思っただけだ」
――お子様って。
こいつに少しでも良識があると思ってしまった自分が悔しい。
「言っておきますけど、まだまだ起きていられます。徹夜だってできるんだから」
「自慢の中身がこれまた愚かだな」
言われるまでもなく、今のは言葉の選択がまずかった自覚があった。
「ほんとはもっと早くちゃんと話たかったんですけど。ゼルデンさんって忙しいし、あたしを嫌いだから時間なんか作ってくれないだろうなって思って」
「嫌いだなどと言った覚えはないが?」
「言葉以外の全身全霊が言ってます」
「間違えるな。嫌いなのではない。関わりたくないだけだ」
返す言葉もないエルシエルに満足げな笑みを浮かべたゼルデンが冗談だと言った。
「で、本題は?」
「……リオレイル様のことです」
だろうなとゼルデンが足を組む。
「色々精力的に聞いて歩いてるみたいではないか。父にも手紙なんか出したりして」
「でも、みなさん、ゼルデンさんに聞けって」
それはそうだとゼルデンが頷いた。
「実は、いつ泣きついてくるのかと、結構楽しみにしていた」
常にリオレイルの傍にいる人物。彼以上にリオレイルを知る者がいるはずもない――が、なぜはなから「泣きつく」ことが前提になっているのか。なんとなくディアナの反応と似ているものを感じる。意を決してクッションを抱え直すと、エルシエルはゼルデンに向き直った。
「真面目な話です。あたし、ゼルデンさんの敵じゃないと思う」
ゼルデンの眉が動いた。
「確かにあたしはどこの馬の子かわからないかもしれないけど」
「骨だ」
律儀な訂正に一瞬言葉を詰まらせたエルシエルは言い直す。
「――骨の子かもしれないけど、孫に会いたいっていうエディ爺の願いを叶えてあげたいの。あたしのことが疑わしいのはわかるけど、でもエディ様の願いが真実なのはわかるでしょ?」
「……」
「家族なのに会えないなんて変だよ。おかしいよ。お友達も会うことができないなんて」
エルシエルは手元のクッションを強く握る。
「ほんとは二人とも会いたいはず。こんなにあったかい人たちに囲まれてて、家族なんてどうでもいいって思うような人になるわけない。だからきっと何か事情があるんだろうって思う」
自分に家族はないが大事な友はいる。もし会えないとなったらそれはやはり寂しいことだ。
「エディ爺のお願いを叶えることはきっとリオレイル様のためにもなる。そのためにはあたしだけじゃ無理なの、ゼルデンさんの協力が必要なの」
確かにエイドリオの願いを叶えることが試験の課題だ。願いとは孫と会いたいというものだと思う。これが正しいかどうかはわからないし、それを見抜くことも試験課題のひとつである。エルシエルはエイドリオの願いは孫とともに過ごす時間を求めていると見た――そう、判断はした。だからその願いを叶えたいのは紛れもない真実。だがそれが見習い試験の課題だと思うと、ゼルデンに対する要請には著しく己の欲が絡んでいるのだと改めて気づかされる。
人の願いを見抜いて叶える。天使になるための試験――一見とてもいいことのように感じるが、裏を見れば自分が這い登るための踏み台という思いが拭えない。叶えられた本人はいいのだろう。誰かを幸せにして出世に繋がるのであれば誰もが幸せなことだ。それでもどうしてだか腑に落ちない。人の願いを叶える。その根本を考えたら誰の為でもない自分自身のためなのだという、その誤魔化せない事実。恐らくそういう考えも失敗の要因かもしれない。今回の試験がはじまる時にも決意した。大きな目標の前の小さなことは放っておく。試験を最優先にするという宣言は、己のこんな考え方を放棄することも含めての発言のつもりだった。
だが、不幸に付け込むような形になるのはやはり心が痛む。どんなに一生懸命考え、頼んでも、そこにあるのは己の合格への欲求なのかと思うと切ない。だからというわけではない。罪滅ぼしだと言うつもりもないが関わった以上はきちんと解決したいと思ってしまう。
今のリオレイルの状況は明らかにおかしいのだ。皆がらしくないと言い、元気な顔が見たいとそう言う。エイドリオの願いがエルシエルの思う通りならば、これは関連のある行動である。だが、もしそうでなかったらこの行いは無意味なものとなる。だとしても、途中で投げ出したくはない。自分は天使になろうとしている見習いなのだ。不幸に気づきながら見捨てるなんてそんなことはできない。そんなことをしてまで、天使になろうとはどうしても思えなかった。
――また寄り道かもしれない。それでもいい。そう思ったからこそ、覚悟を決めてゼルデンに手紙を出したのだ。
「あたし一人じゃ無理なの。ゼルデンさんに協力してほしいんです」
お願い、とエルシエルは訴えた。
「あたしに手を貸して。お願いします」
ゼルデンが腕を組んだ。そのまま彫像のように動かない。エルシエルもまた微動だにせず、自分を見る静かな眼差しを受け止める。逸らしてはいけない気がした。奇妙に緊張を強いられる間、エルシエルはじっとゼルデンの言葉を待った。
「私は、相当に頑固なのだそうだ」
やがてゼルデンがそんな言葉とともに腕を解く。まるでそれが合図だったかのように一気に空気が和らいだ。
「私は頑固で。お前もかなり頑固だそうだな」
そんなことはないと言いかけて思い直す。ネロ少年がエルシエルは頑固だと言っていた。
「頑固同士は相容れることはないだろうが、間に結び付けるものがあれば、そうぶつかることもないだろう」
「じゃあ」
「協力してやる。だからそんなこの世の終わりのような顔をするな。みっともない」
「ありがとう、ゼルデンさん!」
「おい――っ」
あまりの嬉しさにエルシエルはクッションを放り投げた。そしてその勢いのままにゼルデンに抱きついていた。
3
「リオ様が部屋を出なくなった日付は明らかだ。去年の瓶月二十六日」
今は十一番目の月、蠍月だった。瓶月は十二か月のうち、年明け二番目の月になる。
「瓶月二十六日はリオ様の二十一歳の誕生日になる。エイドリオ様が風邪を召されていたので、翌週に身内だけでお祝いをする予定になっていたのだ」
二十歳の祝いは盛大だった。あまり派手なことを好まないリオレイルは誕生会なるものを嫌がっていた。適当に食事でもすればいいというのが彼の考えだったのだが、如何せんさすがに二十歳の誕生日については避けることができなかった。その反動なのか、二十一歳の祝いはかたくなに何もしないのだと宣言していたのだそうだ。
「客は呼ばず、離宮の使用人も参加しての会食ということに落ち着いたのだが」
親しい友人たちはリオレイルの人柄を理解しているのだろう。何もしないことは既に承知済みとばかりに祝いの品やカードを送ってきていた。
「ご友人からお祝いが届いた旨を報告に伺ったら、もう今の状況だった」
エイドリオは旅行日程の遅延で孫の二十歳の誕生日に間に合わなかった。今回は参加できると意気込んでいたエイドリオだが、心待ちにしていたのは孫も同様だった。おおよそ二年もの間、顔を合わせていなかったのである。リオレイルも久しぶりに会えることを楽しみにしていたとゼルデンが語る。
「お手紙くらいは出してるの?」
「最初は出していた。だが、最近はお返事は出されていない」
このところは顔を出せという内容ばかりになって、返答に困って滞っているらしい。
「変なことを聞いてもいい?」
なんだとゼルデンが怪訝そうに首を傾げた。
「トイレとかお風呂とかどうしてるのかなって。食事だってあるでしょ」
「部屋はバス、トイレ付に決まってる。この部屋もそうだろうが」
心底呆れたようにゼルデンが応じる。言われてみれば確かに、ついている。エルシエルとしてはここは客用だから何か違うのではないかなとちらりと思ったりしたのだが。
「でも、食事は食堂で取るのが普通でしょ」
いや、とゼルデンが否定した。
「部屋で食べるの? でも、どうやって運ぶわけ?」
「昔、大奥様が猫をお飼いになっていたことがある」
猫用にと扉に小さなドアを付けた。食事はそこから差し入れ、終わればメイドが手を入れて取り出すのだと言う。
「……なんでそんな改造したの?」
「仕方ないだろう。元々はお体の弱かった大奥様のためのお屋敷だ。猫が出入りするたびにベッドから出ることはできないのだから」
ち、とエルシエルが舌打ちする。これだから金持ちはとは思いはしなかったが、なんというか引きこもるには都合のよい部屋だ。
「やっぱり煙突作戦しかないのかな」
ゼルデンが鼻で笑った。
「お前がそうしてこの屋敷に入ったことは御存じだ。ぬかりはない」
「わかんないじゃない」
「いや、わかっている。ロープを使って人を下ろしたが、塞がれていた」
「……真似したのね」
エルシエルが目を眇める。
「あんなに馬鹿にしたのに、あたしの煙突作戦、真似したのね」
「発起人は私ではない」
「誰よ」
「ネロ様だ」
エルシエルは瞬いた。
「どこかのあほが気の毒に思えたのではないか?」
何かというと気にかけてくれる少年を思い浮かべる。そしてなんとなく、今夜ゼルデンがやってきたのも彼の後押しがあったのではないかと思えてきた。
だが、そんな思いつきをこのゼルデンは反対しなかったということだ。そして彼らの指示に従った使用人。命令とはいえ、もしかしたら暖炉にはまだ熱があるかもしれないというのに。
――みんな一生懸命なんだ。
リオレイルが閉じこもりっきりのこの状況には首を傾げる召使たちが何人もいた。古株のメイドなんかは目を潤ませてもいた。元気な姿を見たいとみんなが願い、そしてこの親友も願っているはずだ。これはエイドリオ一人の願いではないのだ。皆の不安や心配といった大きな気持ちの詰まったおかしなこの状況。なんとかしたいと思っているのになんともならない。
「とにかく原因を知りたいところよね。何か心あたりはないの?」
あれば苦労はないと、至極もっともな答えが返る。
「引きこもっちゃう頃、何かいつもと違うことってなかったの?」
ゼルデンが形のよい眉を寄せる。
「なんとか思い出して。たとえば、お腹こわしたとか足の小指ぶつけたとか」
「お前だったらそんな恐ろしく小さな些細な出来事をいちいち覚えているか?」
「……も、ものの例えです」
「例えが愚かしいな」
何か言うたびに小言が降ってくるというか上げ足を取られる。己の言葉の選択に後悔しきりのエルシエルなど気に留めずゼルデンが口を開く。
「何かがあったとするなら、王城を訪れたことか」
そういえばとエルシエルも思い出す。確かエイドリオが謁見に間に合わなかったと話していた。その代わりに出席したのがリオレイルだったはずだ。
「王に謁見した。リオ様はまだ爵位を継いではおられない。社交界には幾度か顔を出していたとはいえ、直接王にお会いしたのははじめてだ」
やっとそれらしい手がかりに思えた。エルシエルは思わず乗り出していた。
「そこで何かあった?」
何もというにべもない答えにエルシエルが肩を落とす。勇んだ分、なんだか余計にがっかりした。そんな様子に構うこともなく、ゼルデンが相変わらずの淡々とした口調で続ける。
「サッシュトン夫人と何かお話をなさっていた」
「さっさとしろ?」
「サッシュトンだ。隣のハイダラアリア領主の侯爵夫人だ」
「偉い人っぽい。身分高そうっぽい」
お前よりはなと呆れたようにゼルデンが言った。
「何を話してたとかわかるの?」
「そこまではわからない。ただ、あまりいい雰囲気ではなかった」
サッシュトン夫人は不快そうだった。そして何事かをリオレイルに言い、リオレイルは、
――ご忠告、心にとどめておきます。
そう答えた、とゼルデンが説明する。
「……それが、何か?」
「受け答えとしては微妙だ。その前の会話がわからないから何とも言えないが、普通なら『ご忠告痛み入ります』もしくは『感謝いたします』とかいうのが妥当だろう」
「忠告」を「とどめる」とはどういうつもりの言い回しなのだろうか。
「たまたま言葉の選択を間違ったとかはある? 相手が偉いから」
「お前と一緒にするな。リオ様は外面がすこぶる良いのだ。そんな愚かなミスはしない」
その彼が敵を作ることも珍しい。まして相手は身分が上なのだ。例え何かあったにしてもまともに反論するなど考えられず、また失礼な態度を取るとも思えないと言う。
「それに、口で負けることも絶対にない」
奇妙に自信溢れる発言だ。やはりリオレイルも相当の皮肉屋なのだろう。
「でも、ゼルデンさんはそのことが気になったんでしょ?」
「強いて言えば、だ。気になるというほどでもない」
実際、今まで忘れていたくらいなのだから、本当に些細なことなのだろう。
「何もわからないんだから、そういう小さなこと大事にしていかなくちゃね。まずはそのあたりを考えてみようよ」
「お前が何を考えるんだ。脳みそはないだろう?」
「あるわよ、失礼ね!」
エルシエルはそっぽを向いた。
「馬鹿には馬鹿なりの脳みその使い方があるんです」
第一、エルシエルはサッシュトン夫人とやらを全く知らない。かえってそれが何かしらの助けになるかもしれない。ここまで何のヒントもなかったのだ。何かきっかけがあるならそれをきちんと見逃さないようにしていかねばならないではないか。
「エルシエル」
「は、はい」
突如、静かな声で名前を呼ばれ、思わずエルシエルは畏まった。見ればゼルデンは酷く真剣な眼差しをしている。
「どうしてお前がそこまで考える必要があるのだ」
「え?」
「どこの誰とも知れぬお前がそこまでこだわる理由はなんだ?」
以前も似たようなことを問われた。そしてネロからだったと思い出す。あの時は天使だからと説明した。ゼルデンにも打ち明けようかと思い、だが、エルシエルは全く違うことを告げた。
「我儘だから」
「なんだって?」
「我儘で、物好きで、野次馬なんです。だから誰かがこうしたいとかって思うこと、一緒にやりたくなるんです。いけませんか?」
いや、とゼルデンが立ち上がる。僅かに浮かべられた笑みはこれまでの鉄面皮とは異なり、とても穏やかな柔らかい微笑だった。
「何か思いついたら教えてくれ。私も何かあれば報告する」
扉に手をかけたゼルデンが振り返る。
「ちなみに、馬の骨だ」
唐突に何を言うかと思えば、ゼルデンはそんなことを言った。
「あの、それは……」
先程の言い間違いの続きだとはわかったが、それはこのタイミングで言うことだろうか。反応に困るエルシエルを一瞥すると、
「夜遅くにすまなかったな」
よい夢をと言い残し、音も立てないくらい静かに扉が閉じられた。




