第一章
第一章
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降り立ったのはよく手入れの行き届いた庭だった。
緑の絨毯の向こうに大きな噴水がある。肉体美を自慢したいのか、やたらと筋肉隆々の裸体の口から水が溢れる様は芸術と呼ぶには少し違和感が拭えない。これをデザインした人間のセンスを疑いたくなるところだ。
踏むのが申し訳ないくらいに綺麗な芝生を歩く。繁みを超えた生垣の向こう、白いテーブルと椅子がふたつ。そこでは一人の老人がのんびりとした様子で本を読んでいる。男性なのに白く豊かな髪を三つ編みにし、愛らしくリボンが結ばれているあたりやや変わっている。もしかしたらあの噴水のデザインをしたのはこの人なのかもしれない。
「パパリ、あの人でいいのかな?」
肩に乗った白い鳥に小声で呼びかけるとそうだとの面倒臭そうな声が返る。一見ただの小鳥だが、実は立派な天界の試験官であり、今回の監視兼お目付け役である。不明な点があればこのパパリが全て対応することになっているのだが。
「どうしてそんな適当に答えるの?」
「だって、十二回目だよ?」
「違う、十一回」
エルシエルは力一杯訂正した。ちなみにパパリが担当になるのは五回目である。
何故、皆十二回というのだろうか。試験の回数は十三回までと決まっている。魔の数字である十三回を超えても天使になれないのであれば待っているのはリセット――即ち、魂の消滅だ。まだ二回もチャンスがあるというのに。
「十一度目の正直なんだから」
「それはすごい正直の回数だな」
「なんでバカにするの。ちゃんと応援してよ」
「それは無理だよ、シェル。僕の正直回数は三回までだから、もうとっくに終了だもん」
「……意外とケチケチなんだね」
無論、わかっている。普通十回も試験を受けるなんて者はいない。自分は運もなければ実力もない落ちこぼれ、だから全然試験をパスできない。
「言っておくけど、今回のあたしは違うんだから」
ほおと、パパリが半眼になってエルシエルを見た。
「信じてないでしょ」
「それって前々回あたりにも聞いたような気がするからさ」
う、とエルシエルが言葉に詰まった。
「いいよ。最後の決意表明として聞いてやるよ。言ってみな」
なんでそんなに上から目線なんだと思ったが、せっかく聞いてくれるというのだから文句を言うのはやめておいた。
「今回は目の前の不幸は見捨てることにしたの。題して! 願い主以外目もくれない作戦!」
どう? と問えば、パパリはくらりとよろけた。肩から落ちそうになるのを白金色の髪を咥えて持ち直す。痛いという抗議を無視し、謝りもせず乗り直したパパリは大仰に首を振った。
「天使にあるまじき発言。減点一」
「え? 減点方式になったの?」
いつの間に変わったのか。試験のベテランである自分が知らないとは由々しきことだ。
「お前さんは他の奴ら差し置いて十二回も試験受けてる理由、ちゃんとわかってる?」
「十一回だけど」
「もういいよ、十回天」
「いや! その呼び方やめて!」
エルシエルが力なくうつむき、その場によよよと崩れた。
「十回天」とは十回試験を受けた天使見習いの略だ。曰く、あり得ないことを意味する天界の慣用句のようなものだが、今ではエルシエルを揶揄したものに変わりつつあった。
試験資格者を選ぶに厳密な決まりはなく、天界の上層部が判断する。二、三回で合格するのが常で選出されるにはそれだけの理由が存在する。見習い如きが知ることではないが、基準は「より天使らしいこと」に尽きる。勤勉で思いやりがあり、人を愛することができ、常に一生懸命――おおよそそういったことが判断材料となる。落第ばかりのエルシエルだが十回も選ばれていることは称賛に価する……と言っても、回数もここまで来るとありがたみはないのだが。
名誉と不名誉と。エルシエル自身もやや複雑な気分は否めない。けれどせっかく選ばれたのだから毎回頑張っているつもりなのだが、結局はうまくいかず現在に至る――である。
この決意はあくまで試験を最優先で考えるというだけのことだ。思うに、これまでは余計なことに手を出しすぎたのだ。だから今回は願い主に関わること以外は首を突っ込むのをやめようと思っている。決して見捨てるわけではない。けれど優先順位を間違えないようにしたい。
「頑張るから。ちゃんと応援して」
エルシエルが見上げる。小さく羽ばたいたパパリが溜息をついた。
「お前さんはいつだって頑張ってるよ。ただ運がないだけさ……ほんとに」
溜息交じりの言葉に疑問を感じる。その真意を問おうとして、動きを止めた。
日差しが遮られ、視界から太陽の明るさが消えた。瞬いて目を向けると、そこには不思議そうにこちらを見下ろす白髪の老人が立っていた。
本来試験は試験官が願い主を洗脳するところからはじまる。勿論、悪い意味の洗脳ではない。
天使は通常、人と接触はしない。人が天使を見ることは殆どないし、天使の側も積極的に人と接することはない。人にとってあくまで天使は空想の存在で現実にはいない。いればいい、いるかもしれないけど――本当はいない。これこそが天界の理想であり、人の常識でもある。
だが、それでは試験にならない。だからといっておおっぴらに天使が来たと公言するのは今後の天界運営に差し支えるので好ましくない。そのため試験官には願い主となる人間に天使を認識させると言う作業が必要となる。その上で願いを自覚させ、それとなく見習いに話すよう仕向ける。「それとなく」というのは、汲み取ることも試験の内容に含まれるからである。直接的には言わない、けれど匂わせることは言うようにする。それが洗脳であった。
試験に関わった願い主も周囲の人間も最終的には天使の存在を忘れることになる。僅かに記憶に残ったとしてもそれは都合のいい夢のような程度で、そうでなくては今後の試験にも天界のありようにも影響してしまう。
「減点二」
耳元から小さな声が聞こえた。やっぱり減点方式になったのかと思う反面、こんなことで減点なのかとやる気を削がれるものだった。
パパリは優秀な試験官である。見つかった瞬間に洗脳をやってのけた。見つかったのはエルシエルのドジだというのがパパリの解釈のようだ。大慌ての異例な洗脳も含め、減点二となってしまったのだろう。
「……もう、なんだかなし崩し」
「どうかしたのかい?」
老人が小さなぼやきを聞き咎める。それに笑顔を返し、エルシエルはそっと溜息をついた。
老人に見つかってしまったエルシエルはどうしてだかお茶に誘われていた。繁みでごちゃごちゃ話していたのが聞こえていたらしく、老人は何がいるのだろうと覗いてみたのだという。
「そうしたら、こんなに可愛らしい娘さんがいるんだから驚いたねえ」
皺の多い手が薄い陶器のカップを差し出す。
「それが天使だって言うんだから、これまた驚きだよ」
「えっと、天使見習いですよ」
どっちでもいいと老人が微笑むのにエルシエルは苦笑を浮かべた。
両者には大きな違いがある。その違いを超えようとして十回失敗しているのだから。
「のう、天使さんや」
天使じゃないと再度言いかけてやめた。確かに彼にとってはどっちだって構わないことだ。
「私の願いを聞いてくれるかい?」
「勿論です!」
エルシエルは力強く頷く。むしろそのために来たのだが、そんなに直接的に願い事を聞けた経験はない。今回から教えてくれるようになったのか。それとも十回を超えたハンデだろうか。
「ところで、えーっと……何さん?」
「エイドリオだ。エディ爺でいいぞ」
至って気さくに老人が笑う。
「あたしはシェルと呼んでください」
「シェルか。可愛いね」
にこやかにエイドリオが答える。
「時に、シェルや。お前さんはお母さんやおばあさんは健在かい?」
「…………は?」
「あんたほどの容姿なら皆様美人ぞろいだろうて。ぜひ紹介してほしいね」
優しそうな老人という認識から、色好き老人という認識に変化していた。
「そういったものはおりません。人ではありませんから」
「おう、そうか。大天使だったな」
「さすがにそれは否定させてください」
恐ろしすぎる間違いだ。世にも名高い大天使様方と十回天を一緒にしては失礼どころの騒ぎではない。死んで詫びて済むのかどうかも怪しい。
「真面目な願いを教えてほしいんですけど」
何かがあるからこそここに連れてこられたのだから、どこか心の中に闇を抱えていたりするはずなのだ。とは言うものの、明るくにこやかな様子からは負の要素が感じられない。
「物欲的なものはだめなのですけど、何かお悩みがあったりとか」
実はなと、言いにくそうにエイドリオが険しい顔をした。神妙に頷くエルシエルの前でエイドリオが三つ編みのリボンを指先でいじる。
「妻は随分以前に亡くなって、今は寂しい独り身でな」
エルシエルは眉を下げた。これは望みの中でも最も多い願いだ。亡くなった人に会わせてほしい、呼び戻してほしいという類のもの。しかし一介の天使、まして見習いでしかない自分にはできない。そもそもそれは絶対的に許されないことでもある。寂しそうな老人には気の毒だが、こればかりはできないのだと、そう説明しようとしたエルシエルを老人が盗み見た。
「だから嫁がほしいのだ。今後の伴侶」
エルシエルは今度は目を眇めた。
「私の嫁になるというのはどうだ? こんなに可愛らしお嬢さんが嫁になってくれれば、あと百年は生きられるというものだ。自分で言うのもなんだがお金も持ってるし、不自由はさせないぞ。いくらなんでもさすがに百年は無理だから、そんなに長い間ってわけでもあるまい」
「謹んでお断り申し上げます」
「こう見えても若い頃は結構イケておったんだぞ?」
そういう問題ではない。
「結構お買い得だと思うんだが」
「そんな買い物できません。見習い天使ですから」
「おお、そうだった。見習いだったな」
「見習い天使です。『天使』つけてください」
意に添えないのは別に見習いだからではない。どうしてそこだけ都合よく解釈しているのだ。冗談だと朗らかに笑われて、エルシエルは大きく溜息をつく。
温和な笑顔に本音か冗談なのかわからない態度。なんというかなかなかに食えない老人だ。少し落ち着かねばと香りのよいお茶を口にして、ついでとばかりに菓子へと手を伸ばした。するとさりげない動作で老人は皿を近づけてくれる。ホイップ型のクッキーと白黒が渦を巻いたクッキーの二種類があった。まずは少し不格好だがホイップ型を手に取る。
「わ……おいしい」
「これはね、私が作ったんだよ」
「え、ほんとに?」
もうひとつと勧められ渦巻きクッキーも食べてみるとココアが香ってさっくりしている。どちらも甘さが控えめでとてもおいしい。
「給仕係に教わってね。先日食べたのがおいしくてまた買ってきてもらおうと思って頼んだら、自分で作ったという話だったんだ。なんとなく一緒に作ってみたんだよ」
恐らくエイドリオはここの主人と思われる。それが自ら調理場に入るとはこれまた変わっている。給仕係もまさか一緒に菓子作りをするなど予想しなかったに違いない。火も、刃物もあるから慣れない人間が調理場に入るのは意外に危険だ。給仕係は苦労したであろうが、エイドリオは嬉々として作業に違いない。実際、口にしたクッキーはそんなエイドリオの楽しい気持ちが詰まっている感じがした。
「ところで、天使長エルシエルよ」
「――ぶ」
危く吹き出しそうになり思い切りむせた。
出世しまくっている。もはや頂点だ。眩暈がするくらいのなんという混同っぷりだ。
「大丈夫かい? まだたくさんあるから慌てんでもいいぞ?」
もはや訂正はしない方がいい。むしろしてはいけない気がする。訂正するたびに位が上がっていくこの状況は、心臓に悪すぎる。
「私の悩みは、孫のことだ」
唐突の告白にエルシエルは目を丸くした。
「か――家族いるんですか?」
「おるとも。なんだい、天涯孤独な身の上だとでも思ったのかい?」
「一人で寂しいとおっしゃいましたから、てっきり」
「孫がおる。息子夫婦は亡くなったがね。今は残された孫がたった一人の家族だよ」
「……その、お孫さんがどうかされたのですか?」
いよいよ核心だろうか。出来の悪い不良孫を更生させてほしいとか、身体が弱いから丈夫にならないかとかそういう類だろうか。
「孫の嫁に――」
「却下です!」
「まだ最後まで言っておらんだろうに」
「だから、嫁ネタからは離れてください。天使なんですから、見習いですけど」
そうだった、とエイドリオが咳払いをする。
「実は随分と、孫に会っておらん。会いたいんだが」
「どこにいるんですか?」
「こことは別の、離宮におるよ」
「会いに行けばいいことでは?」
「会いに行っても会ってもらえんよ」
それはどういうことだろうか。わからずにエルシエルは首を傾げる。
「喧嘩したんですか?」
「いいや」
「いじめたとか?」
「いいや、全く」
「恥ずかしがり屋?」
「至って普通だと思ったが」
「それって……」
嫌われてるんじゃ、とエルシエルが言うと老人は目を見開くとその場に突っ伏した。
「ああ、嘘、嘘ですってば。そんなことないです!」
「いいのよ、大方そうだろうとは思っていたんだから」
なぜか女言葉になるとハンカチを取り出し流れてもいない涙を拭う真似をする。
「まあ、そんな冗談はさておき。会ってくれないというのは本当なんだよ」
どこか疲れたような笑みはようやくこの老人の本性を見たような気がした。理由はわからないのかと問えばエイドリオが頷く。
「あれは一年……いや二年程前だったか」
妻が亡くなってちょうど四十年の月日が流れていた。たまたま部屋を整理していて亡き妻の日記を見つけ、悪いと思いつつも覗いてみたのだとエイドリオが続ける。
「サンメトリ湖に行きたいと書いてあったよ」
体の弱い女性だった。いつか一緒にと思ってはいたが叶わなかった。それよりも彼女が病魔に侵される方が早く、どれだけ楽しい思い出をあげられたかわからないとエイドリオが言う。
「だから妻の写真と一緒に旅行に出たんだよ」
色々見て回るのではなく、綺麗な景色を眺めのんびり過ごす。そんな旅だったとエイドリオが遠くを見やり、寂しさの中に幸せを滲ませたような笑みを浮かべる。
……ところが、である。季節外れの酷い嵐が帰り道を塞いでしまった。仕方なく大きく迂回し、そこから海路を使い、街道に戻る――という果てしない距離を行くことになってしまった。
「もしかしたら奥さんがまだ帰りたくないと言ったのかもしれないね」
エイドリオが頭を掻く。
「孫の誕生会にも参加できなくて。その上、予定されていた王家との会食にも間に合わなくてね。まあ、これにはその孫が変わって顔を出してくれたんだけど」
いずれ家督を相続することは既に王家も承知済みの唯一の肉親である。事情も事情であり、孫が代理で出席することには何ら差し支えはなかったのだが……。
「孫も気を付けて、ゆっくり帰ればいいよなんて言ってくれてたんだがね」
エルシエルを見て微苦笑を浮かべるも、その目がひどく寂しそうだ。
「思えばその頃からだね、会ってくれなくなったのは」
エイドリオの好意で城への滞在許可をもらったエルシエルは用意されたゲストルームの豪華なベッドを目いっぱい堪能してから、パパリに声をかけた。
「天界の品位が問われるだろ」
呆れたパパリにエルシエルは目を輝かせながら、だって、と訴えた。
「乗ったら弾むんだよ! 見て!」
ベッドの上で跳ねて見せてから友人を振り返る。
「ほら、ほら。びよーんって!」
蕾の園での生活は質素だ。板敷に厚手の毛布があるくらい。常春で寒さはないので凍えてしまうということはないが、身体が痛いのはいくら天使でも人間と変わることはない。エディ爺の嫁になろうかと本気でそんなことを思ってしまいそうだ。
ふかふかのベッドの上を転がって、枕を抱えて、仰向けのままパパリを見上げた。
「いい人だよね、エイドリオ様」
「まあ、お前さんにかかればみんないい人だからな」
「なによ、それ」
エルシエルが頬を膨らませる。
「お前さんの中に悪人って存在してないだろ?」
いるよ、とエルシエルは即座に答えた。
「へえ、誰?」
「えっと、……ル」
天使の名前で「ル」からはじまるものは少なくない。蕾の園の寮は二人部屋で、同室者の名前がルシナエルだ。園芸の相方もルエルアルだし、聖学の研究の相棒もルルドエルだった。
「ル、ル、ルナエルってばいつもあたしのおかず一つとってくの。あれは悪人よ、泥棒よ。ルシナエルなんてあたしの羽の一部塗ったし」
「……どっちも悪人って感じじゃないな」
うう、とエルシエルが項垂れた。
「そりゃ、だってみんな天使見習いだもん、いないよ、悪人なんて」
「けど、お前さん何回も人間の世界に来てるけど、人間だって誰一人恨んじゃないだろ?」
「別に恨む理由はないもん」
確かにこれまでの試験の失敗では人間が起因のものもある。けれどそれだって己の不徳の致すところだ。うまくやれる見習いはいくらだっている。だからこそわざわざ人間界での試験なのだ。天使としての常識が通じない中でどうやって目的を達するか。邪に染まらず、欲に捕らわれず、人を慈しみ、要領よく達成する。自分にはそういう能力が欠けているだけのことだ。誰かのせいにしても試験が合格するわけではないのだから、恨むだけ無駄だ。
「どうして会いたくないのかな。どこか嫌なのかな?」
「さあな。けど、それを考えるのがお前さんの役目だな」
何はともあれ、とりあえず、初日に願いを聞き出せたことについては幸先がいいとお褒めの言葉がもらえた。
「もしかしたらあの奇妙な親父ギャグとかだったりしてな」
「それで何年も会いたくないってなるもの?」
「ならんだろね」
そんな筋金入りのギャグならば一度聞いてみたいものだ。
――エイドリオ・ウリア・ファイデル。
ファイデル家の現当主でここカッサム王国の内陸に位置するコーントリル領の領主にして伯爵の爵位を持っているのだという。国内でも古い家柄で王女が嫁いだこともあるという名門中の名門だそうだ。領地争いなども古くにはあったが、積極的に争うことはせず、至って平和なまま混乱の時代も乗り越えてきた。戦乱を好まず、無欲なところがファイデル家の当主の気質らしく、それはエイドリオにもしっかりと受け継がれているのだろう。あののらりくらりと掴みどころのない雰囲気では戦争をしようという気概すら削がれてしまいそうだ。
エイドリオの人柄はすこぶる良いと思う。夕食時のユーモア溢れる会話も楽しかった。言う程親父ギャグが激しいわけでもなく、始終陽気で、こちらの気分まで明るくさせる不思議な魅力を持つ人物だ。夕食まで城内を歩き、それとなく使用人と話してみても皆がエイドリオの人柄を褒める。勤める家によっては横暴な主人に迫害されるとことも珍しくないらしいが、その点、ファイデル家は非常に大切にしてくれるのだと言う。時折家人を交えて食事会やパーティがあったりときちんと息抜きを与えることも忘れない。病気になれば主人自ら見舞いに来ることすらあるのだそうだ。執事のボナル曰く、この国で最高のご主人様とのことだった。
「完璧すぎるから嫌いとか?」
「いや、完璧すぎるようには見えないなあ、あのじーさん」
それは否めない。事実、最高だと言いつつ、ボナルは容赦なくふざけすぎるエイドリオに文句を言ったりしていたのだから。
「やっぱり直接会ってみるしかないよね」
エルシエルは大きな欠伸をひとつした。
「考えるには材料が不足してるよね」
「とか言いつつ、なんでしっかり布団かけてもぐろうとしてるよ」
「だって、考えても今はまだ答えが出ないじゃない」
「正直に言え。眠いんだろ?」
「……ふかふかなんだもん」
明日は離宮に連れて行ってもらおう。そしてちゃんと話を聞いてみよう。そう思いながら心地よい眠りに誘われるエルシエルだった。
2
ファイデル伯爵家の離宮――星流宮。星の流れる様がよく見られることから離宮の名前は星流となったらしい。エイドリオの孫であるリオレイルが現在滞在中だという。
山側で、サンクレル湖のほとりにある屋敷だった。エイドリオが住まう居城より小振りだとは言うが、さすがに貴族の離宮である。小さいの意味は通常の感覚とは異なるものらしい。
馬車で送ってもらうこと約三日。街を抜けて長閑な風景を駆け抜ける。御者の青年が言うには本来は五日はかかるとのことなのでかなりの強行軍らしい。離宮の麓にある小さな町に入る頃には既に陽も傾き、三日目の夜も近い状況だった。急いでもらってなんだが、抱いた感想は「遠い」というものだ。こんなことなら一人で飛んで来た方がよかったかもしれない。
「夜の訪問は失礼かなあ」
やはり明日朝改めて訪問するのが礼儀かもしれない。門の前に立ったエルシエルは傍らに立つ女性を見上げた。背の高い黒茶色の髪をしたメイドは首を傾げる。
「でも、好きでこの時間になったわけじゃありませんからね」
ディアナというこの女性はボナルの娘で、不便がないようにと気遣ったエイドリオがエルシエル専用につけてくれたメイドであった。長旅の間、色々と世話を焼いてもらってすっかり打ち解けたとエルシエルの方は思っている、が……。
「別に悪いことはしていませんから。何かあったらその時に考えればいいんですよ」
表情もなくディアナが言う。この無表情が仲良しと断言できない要因だった。おまけに良く言えば楽観的、悪く言えば適当な面もあり、それなのになんとなく几帳面という不可思議な人物で、何とも掴みきれない部分が仲良しだとの自信を持てないもうひとつの要因でもある。
「とりあえず、行きましょう」
「ええ?」
止める間もなく、気づけばディアナは大股で歩き出していた。
門を開き、足を踏み入れるとエイドリオの住まい程に広くはないが綺麗な庭が迎えてくれた。ベンチがいくつもあってまるでどこかの公園のようだ。
「たのもー!」
玄関に着くなりディアナが声を張り上げる。エルシエルはぎょっとして服を引っ張っていた。
「そ、その挨拶っておかしくない?」
そうですね、とにこりともせず断言する。
「だから出てくるんじゃないかと」
怪しまれて余計に警戒されるのではないか。そんな心配をよそにディアナが再び呼びかける。これだけ広いと近所迷惑ということはないだろうが、誰が見ているわけでもないのに恥ずかしい気がするのはどうしてだろう。
「頼まれるつもりはない」
大きな扉が開き顔を出したのは背の高い男性だった。明らかに受け答えが間違っている。
「お久しぶり、兄様」
青年に向かって、やはり無表情のままディアナが言った。
「え? お兄さん?」
いかにもとディアナが頷く。
「リオ様の執事をやってるんです」
瞬くエルシエルに青年の目が向けられる。濃紺の瞳が頭の先から足の先までを品定めするように一往復。何を言うでもなく暫く考えるような間があって、その視線は妹へと戻された。
「新しいメイドを募集した覚えないはない」
「ご安心を。これは私の主人です」
主人をこれ呼ばわりするとはなんという事か。とはいえ一時的なものであるから彼女としてはやや複雑な思いがあるのかもしれない。が、ディアナの場合はちゃんとした主でもそんな風に言ってしまいそうな気がする。
「ごめんなさい。ちょっとエディ様のお手伝いをしている関係で」
どうしてか言い訳口調になってしまったエルシエルに青年は笑ったようだ。後にして思えば、後ずさりしたくなるような不気味で不敵なそれは、もしかしたら下手に出たエルシエルと己の立ち位置を正確に把握して納得したための笑みだったのかもしれない。
「何しに来たのです?」
言葉こそ丁寧ながら、迷惑ですと顔に大書きしたような口調だ。
「あの、こちらにいらっしゃるエディ様のお孫さんに会いに」
「……ふん」
「ひっ」
こいつ、鼻で笑いやがった。
「リオ様はどなたにもお会いになりません。お帰りください」
「そ、そんな。少しでいいんです。少しお話をさせて頂ければ」
「無理ですね。お引き取りを」
「ちょっとでいいんです。挨拶だけでも」
「いいえ」
「せめて後ろ姿だけでも」
青年が首を振る。
「もう、ほんとに。チラ見程度で――」
話に来たのに姿をちらっと見るだけなんて意味はないと我ながら思う。
「無理です。お帰り下さい、とっとと」
にべもないとはこういうのを言うのだろう。今にも閉じられようとする扉を必死に抑えつつ、エルシエルは困り果てて彼の妹を見上げる。すると彼女も肩を竦める。
「こうなることはわかってましたから」
それはそうだろう。祖父にすら会わないのだ。それは昨日今日にはじまったことではない。そこへ見も知らぬ他人が訪れたところで対応が変わるわけはないのだ。
それくらいはエルシエルにもわかる。わかるが、ここで引いては意味がないではないか。
「……くそやろう」
ぼそりとエルシエルは呟いた。そっちがその気なら、こっちはこっちの気で行かせてもらおう。別にエルシエルが人間の流儀に合わせる必要などどこにもないのだから。
「では、また参ります」
「何度来ても追い返しますから無駄です」
「まあご親切に、ありがとうございます」
エルシエルは満面の笑顔を向ける。
「でも、大きなお世話ですわ。無駄かどうかはあたしが決めます」
くるりと背中を向けた。諦めの悪さは天界一品、伊達に十回天と呼ばれているわけではない。
「行きましょ、ディアナ」
目を眇める表情を見せる青年にディアナがにやりと笑ったのが見えた。どうやらエルシエルの捨て台詞を気に入ったようである。
月は半欠だが星は見事に夜空に咲いている。
夜は魔の時間だ。基本的に夜間に活動することはあまりない。天使側の人間としては日の出から日中、日没までが主な活躍時間であるが、人間界に来たからにはそうも言ってられない。夜遅いのも無礼だが、朝早すぎるというのもご迷惑どころの騒ぎではないだろう。
遠く動物の鳴き声が響く。まだ秋も浅い時期ではあったが、肌寒い一日だった。夜になると気温はさらに下がり、その寒さがよけに心細い。山から吹き下ろす風が一部分ピンクに塗られた羽を大きく揺らす。誰が塗ったか――同部屋のルシナエルだ。彼女の野望はいずれすべての羽を別々の色に染めることにあるらしい。自分の羽でやればいいのに酷い話だ。
上空から見下ろし、侵入口を探す。夜でもあるし、窓はいずれも閉じられている。しかもあの青年執事からして、戸締りに洩れがあることは考えにくいとは思っていたが……。
「うう、隙がないよお」
「あると思ってる方がおかしいだろね」
「どっか開いてるんじゃないかってちょっぴり期待したのに」
窓でなくても構わない。何か侵入できるような隙間でもあればと思ったのだ。
「人間なんだから、すこしうっかりさんなのが普通でしょ」
「普通かねえ、それ」
それはとんでもない偏見だが悔しいことにいかにも切れ者といった雰囲気を出していた。
そしてと思う。あの態度、あれは間違いなく、
「いじめっ子だ」
だろうねとパパリが頷く。
「あたし、いじめには強いんだから」
そうでなくて十回天などと言われ平気なはずもない……全く平気というわけではないけれど。
「窓でも割るか、いっそのこと」
「犯罪に走る天使見習い」
まるで何かを詠唱するように言ったパパリを睨む。
エルシエルは溜息交じりに屋根に降り立った。青白く光る屋根は何か特殊な石でも使っているのだろうか。弱々しい月の光に僅かに輝いている。
「これじゃお手上げだよ。どうしよう」
エイドリオの願いは孫と会うことだ。家督相続の件も絡んでいるのだろう。いずれ正式に相続させるにはその前に会っておきたいのに違いない。
それでなくてもと思う。
たった二人きりの家族なのだ。理由もなく仲違いするなんて。早くに妻を亡くし、息子夫婦も事故で失ったというエイドリオにとって、残された孫が唯一の安らぎの存在であるだろうに。
「会わせてあげたいな」
せめてひと目。本当は話をさせてあげたいし一緒に暮らすところまでもっていきたい。それらが難しいのならせめて一日でも一緒にいられる時間を作ってあげられたら。
父や母を持たない天使にとって家族の愛情というのは実際のところわからない。けれどそこは十回天だ。幾度も人間界に来るたびに、家族とは特別なものなのだとの認識を抱ている。なぜなら血が繋がっているのだから。それはほんのちょっとうらやましい不思議な関係だ。
再び大きく息をついて、エルシエルは目を丸くした。
「うひょ」
「な、なんだよ」
表情は乏しいはずのパパリが明らかに怪訝な様子で飛び退いた。
「これって何でしょ?」
エルシエルの手が今まで寄りかかっていた突起に触れ、愛おしそうに撫でる。四角い突起。空いている深い穴。
「煙突じゃん?」
「そう、煙突なんです!」
親指を立ててみせるとパパリが冷たい目を向けた。
「お前さん、リアクションがばかっぽい」
「頑張ってテンション上げてるの」
ひとつ咳払いをして、エルシエルは微笑んだ。
「ここからなら侵入できるよね?」
……果たして、それはいい考えだったのだろうか。
煙突の穴なんて、暗くて狭いものだ。勿論、落下する先は暖炉ということになるし、煤だらけになることは誰が考えずともわかる結果であるが。
「落ちるんですけど! 汚れるんですけどっ! 飛べないんですけどっっ!」
侵入しか考えなかった頭からは様々なことが抜けていた。壁に掴まろうにもどうしようもなく、汚れるなんてことは全く予想しなかった。おまけに、飛べばいいと考えたのは恐ろしく浅はかだった。羽はしまわなくては通れないのだから飛べるはずもないのだ。
幾度も壁にあたりながら落下する。どんな落ち方をしようと人ではなく天使であるし、試験中は特殊な状況の為、余程のことがない限り死ぬことはないと言われている。が、痛いことには変わりなく、いかな天使見習いでも汚れるのは避けられない。
「にゃああっ」
着地は成功と言えるだろう。頭ではなく尻での着地だった。強かに打ちつけたのだが、まあそれはやむをえまい。舞い上がった白と黒と灰色の煙。思い切り吸い込んで苦さとともに入り込んだ灰が喉に貼り付いて激しく咳き込む。そして。
「――あ、熱!」
山間である。煙突である。そして意外に冷えた夜である。暖炉を使っている部屋もあろうというものだ。幸い遅い時間なせいか火は消えていたようだが、薪はまだ熱を持っていた。
「痛っ!」
慌てて立とうとして暖炉の淵に頭を打ってしまった。そのはずみで再び薪の上に座り、またもや熱いと飛び上がって頭をぶつける。頭も痛いしお尻も痛いし、目も痛いし喉も痛いし。口はまずいし涙は出るし。己の選択を著しく後悔しながら、ようやっとエルシエルは暖炉から這い出た。咳込みながら顔を拭うも手だって同じように真っ黒なのだから綺麗になるはずもない。
「もおおお、なんで、煤だらけなのよお! むきー」
叩けば叩く程黒く舞い上がるだけの煤に癇癪を起こし、そこではじめて顔を上げた。
「――ぁ」
暖炉の前には一人の人間がいた。
目があった瞬間、エルシエルは動きを止めた。あまりに酷い状況だったので誰かがいるかもしれないなどという思いはどこかへ吹っ飛んでいた。驚きのあまり動けずにいるのを冷めた顔が見つめている。
「こ、こ、こんばんは」
黒色の髪をした綺麗な少年だった。十二、三歳だろうか、怪訝そうな顔をしつつもそれすら麗しさに華を添えるかのような面差し、そして深い色の瞳が印象的だった。
「……なんだ、お前」
至極当然の問いだろう。恐ろしく冷ややかな声音の、その「なんだ」の中には恐らく色々な意味が含まれているだろうことは表情から明らかだった。
「あの、えっと、あたしは怪しい者じゃなくて……」
言いながら、自分で説得力のなさを痛感する。怪しい。怪しすぎる。煙突から降りてきて真っ黒に汚れた不法侵入者が怪しくないはずがない。
「とてつもなく怪しく見えるかもしれないけど、これはちょっと事情があって、ほんとに全然怪しくなくて、すごく由緒正しい者なの」
怪しい奴が自分で怪しいというはずがないと少年が答える。
「どんな事情があろうと、煙突から来るなどまともではない」
ごもっともである。反論の余地もない。そしてそれはもう身に染みてわかっている。いかに侵入しがたいからといって煙突を選ぶなど大いに間違っている。正常な感覚ではあり得ない。
心の中でパパリに助けを求めるも無駄なことはわかっていた。人と接する状況になるとパパリの助けは借りられない。見習い天使と違い、パパリが人間界にいるのはあくまで試験官としてであり洗脳以外で人間への接触は厳禁となる。このピンチをどう乗り越えればいいのか、真っ白というよりも真っ黒になった頭ではろくな考えが浮かばない。
「えっと本当に怪しいものじゃないんだけど、どうしたらわかってもらえるかな。丸腰だし、お金とかよくわかんないから興味ないし」
冷たい視線が痛い。このままでは人を呼ばれて追い出されてしまう。それだけではない。面が割れてしまったら屋敷に近づくことも許されないかもしれない。
そこまで考えてエルシエルははっとした。
「お願い、あの偏屈な執事だけは呼ばないで!」
昼間あんなに思いっきり啖呵を切っておいてこの有様では恰好悪すぎる。とりあえずあの天敵にだけは会いたくない。
「お願いお願いお願いお願いお願いっ」
たくさん言えばいいというものではないだろうが、どれだけ呼んでほしくないかを分かってもらいたかった。
「悪い奴ではなさそうだな」
「え?」
必死に拝み倒しているとくすりと笑う様子があった。信じてくれたのかと思い、満面の笑顔を向けると少年は肩を竦める。
「こんな間抜けな悪者はそうそういない」
「……そ、そうですか」
自分の誠意で信じてもらえたのではないところが悲しいが、なんにせよ怪しい者ではないとわかって頂けたのであればよしとした。この際贅沢は言っていられない。
「ちょっと待ってろ」
そう言い残すと、止める間もなく少年は部屋を出て行った。
誰かを呼びに行ったのだろうか。そんな風には見えなかったがエルシエルは慌てて追いかけようとして立ち上がり、すぐに足を止める。足元、象牙色の絨毯が黒く汚れているのが視界に入った。踏み出そうとした動きに合わせ被ってしまった灰が舞う。
これ以上汚してしまうのは忍びない。きっと誰かがこれを掃除させられるのだと思うと申し訳なくて動くことができなかった。執事が来たら来たで仕方がないと諦める。悔しいしみじめなのは嫌だが、そんな勝手な気持ちのために関係のない人に苦労をかけていいわけがない。
「お待たせ」
どれ程の時間だっただろうか。そんな言葉とともに少年が部屋へと戻ってきた。なんと答えてよいかわからず、エルシエルはただ少年を見つめ返す。
戻ってくるまで大した時間が費やされたわけではなかった。その間、結局どうしていいかわからず、どうすることもできず、ただ立ち尽くしていたが、彼の背後に他の人間の姿が見えなかったことに驚きを感じつつ心底安堵する。
そしてどういうわけだかその手に抱えられたタオルの山。そこから一つを差し出され、エルシエルは首を傾げた。
「とりあえず、拭け。顔、真っ黒だぞ」
渡されたのは濡れタオルだった。
「あ……ありがとうございます」
タオルは温かかった。わざわざ湯を使ってくれたのだろうか。言われるままに顔を拭いて、それから露出している腕と足を拭く。タオルはあっという間に黒くなっていた。その間に少年が衣服の汚れを落とす。叩くようにして丁寧に拭ってくれたおかげでかなり綺麗になっていた。
「で、どうして煙突から?」
ここまで面倒見たんだからちゃんと説明しろと言わんばかりの雰囲気があった。
「そもそもどうやって屋根に登ったんだ」
「それはもちろん飛んで」
事実を言ったが当然のこと、少年の目は疑わしそうに半眼状態になった。
飛ぶというのは普通の人間にはあり得ないのだが、正直に言わなくてはという思いが空回りして本当にバカ正直に言ってしまった。こういう時に応用が利かないのは情けない話だ。うまくごまかす能力に欠けているというのも試験失敗の要因なのかもしれない。
「あの、あたし、エディ様のお孫さんに会いにきたんです」
ごまかすことができないので、違う事実を告げることにした。しかし殊更明るすぎる口調が胡散臭かったのだろう、少年はさらに目を細める。
「なるほど。で、それがなんで煙突から?」
「……忘れてほしいのに」
「無理だな」
なんでそこにこだわるのだ。そう思うもやはり不審すぎるのだろう。しかもこんな時間にと重ねて追及されれば、どちらも真っ当な質問故に反論できない。
エルシエルは諦めた。多分、この諦めの速さも十回天の原因だとは思う。
「別に煙突を狙ったわけじゃないんだけど、どこの窓も開いてないし。本当はちゃんと正面からお会いしたいんだけど、夕方軽くあしらわれたし」
「偏屈な執事に?」
こくんと頷く。
「どんな風に」
「そりゃもう、けんもほろろに」
「へえ」
「もう、話も聞いてくれないんだもん。悔しくて。だからなんとか忍び込んでやろうと」
「煙突から?」
「……そ、そこしかなかったんだもの」
項垂れる姿がよほどおかしかったのか、少年はなるほどとくすくす笑った。
「まあ奴はこの屋敷で最強だからな。いきなりボスと鉢合わせしたわけだ」
「うう。ディアナがあんな呼びかけするから」
「ディアナ?」
「『たのもー』なんて、そんな来訪の挨拶、はじめて聞きました」
恐らく、あの呼びかけがいけなかったのだ。あの兄にしてあの妹。どこか変わったあの美人のメイドはエルシエルのことを楽しいおもちゃのように考えている気がしてならない。
「それは御愁傷様」
でも、と少年が続ける。
「こんな苦労してる人に言うのはなんだが、会うことはできない」
「どうして?」
「さあ」
「絶対?」
「絶対」
「ほんとにほんと?」
少年が頷く。
「暖炉はあるかもしれないが」
「……今の今、その勇気はちょっと」
先を読んだような言葉にエルシエルは苦笑する。あまり得策ではないことは身を持ってわかった。他に策がなければやるしかないだろうが……。
リオレイルの部屋を探し、ドアを破る。そうは思うも、ちらりと入口に目を向けて断念する。頑丈そうな扉はきっとどの部屋も同じだろう。だとすれば自分に壊せるだけの力はない。天使見習いはあくまで天使見習いだ。魔物ではないし戦士でもない。特殊技能と言えば空を飛ぶか傷を癒すか、せいぜいその程度。正式な天使でもない限り、地上の人間と大差はなかった。
エルシエルはその場に座り込んだ。ここで手詰まりなら試験は失敗だ。十回天は十回天のまま戻る。そして再び試験のチャンスが来るのを待つか、それとも消滅か。
試験の失敗も悲しい。けれどそれよりも悲しいのはあの老人の心だ。ほんの僅かに感じた本音が胸に痛かった。あんな思いを抱えたままの人を放っておくことになるのは辛い。
――どうすればいいの?
溢れようとする涙を必死に堪える。泣いて解決するわけでもないし、自分よりもエイドリオの方がよほど胸を痛めているのだから。
それに泣いたら、本当に終わりみたいではないか。
「おい、お前」
知らず握っていた拳を少年が見下ろしていた。
「なんでお前がそんなに落ち込む?」
「べ、別に落ち込んでないもん!」
「半べそかいてるぞ」
「かいてないもん。失礼ね」
ふいと顔を逸らすと、少年が大きく溜息をつくのがわかった。
「真っ黒になって、なぜお前がそんなに必死になる必要があるんだ。お前には関係のないことだろう? 誰が誰と会おうと会うまいと。そんなことどうでもいいのではないか」
「よくない」
思いの他強い口調になって自分でも驚いた。どうでもいいと言った少年の言葉が酷く悲しくて、思わず大きな声が出てしまっていた。
「だめだよ、よくないよ」
エルシエルはゆっくりと顔を上げる。黒く大きな瞳がまっすぐにエルシエルを見ていた。それを見つめ返し、エルシエルは口を開く。
「どうでもいいなんてあり得ない。だって、あたしは天使だから」
3
少年がぽかんとした。幾度か瞬いてから口を開く。
「天使?」
「まだ、見習いだけど」
願い主については洗脳する必要がある。願い事を聞き出さねばならないので試験官による手助けが必須だ。その洗脳により願い主は自然と見習い天使を認識する。これはたった一人に対して行われるもので試験官にしか資格はなかった。
周囲の人間に対しては洗脳は行われないが、必要に応じ、己が天使であることを打ち明けても構わないことにはなっていた。勿論、必要以上に吹聴することは禁じられてはいるものの厳密な決まりがあるわけではなかった。状況から試験官と上の方々が判断することとなる。
エルシエルはこの少年には明かしても問題ないような気がした。偏屈執事も呼ばず、大量のタオルを持ってきてくれた。彼にとっては何の得にもならない行動。その優しさは信頼に値するように思えた。
「天使になるために地上に来たの。エディ様のお願いを叶えてあげたくて」
「本当に、天使なのか」
行儀悪くしゃがみこんだ少年の睨むような視線は鋭い。深い夜のような瞳には嘘を許さないという強さが感じられた。暫く考えて、エルシエルは目を閉じ、普段は仕舞ってある羽を広げた。煽られて煤が舞う中、白く柔らかな光沢を帯びた羽を前に少年が息を呑むのがわかった。
「――これ……本物……?」
見たままのものが信じられないのか、呆然と呟く。それから暫く口も利かず、ひたすらエルシエルを見つめていた。あまりに真剣な視線にこちらの方が恥ずかしくなってくる。
「なんか、胡散臭いな」
「は?」
そろそろしまってもいいかを確認しようとした時だった。まじまじと見ていた少年が眉を寄せて腕を組んだ。
「羽。色が変」
この時程ルシナエルのバカと思ったことはない。
「ほんとに天使なのか?」
「本当だよ。まあ、まだ見習いだけど」
「じゃあ、嘘ではなかったのか」
少年の表情が柔らいだ。
「屋根。飛んで、上がったと」
そのことか、とエルシエルは頷いた。
「天使だから煙突から来たのか」
「……もう、それには触れないでもらえませんか」
その認識ではどんな天使も煙突を使うというイメージになってしまうではないか。
せっかく侵入できてもこの先を考えてはいなかった。というより、煙突でこんなに汚れることを失念していた自分が愚かだった。溜息をつき、エルシエルは立ち上がった。
「帰るのか?」
「わかんない。また何かいい方法思いついたら多分来るけど。とりあえず今日は出直します」
できれば煙突以外を使いたいとしみじみ思う。
「協力してやろうか」
「え?」
「偏屈執事に言って、ここにいられるようにしてやる」
正直、エルシエルは一度町に戻るか、エイドリオのところまで戻ることを考えていた。それがこの屋敷にいられるというのだ、チャンスは掴みやすいかもしれない。
「ほんとに?」
少年が頷く。
「天使のお姉さん、お名前は?」
「エルシエル。みんなからはシェルって呼ばれてる」
少年はネロと名乗った。
「よろしく、シェル」
翌日、町へ使いが出され、ディアナが離宮に呼び寄せられる。離宮に滞在することになった旨を告げると彼女は満足げに頷いたものだ。
昨夜は暖炉の部屋で休んだ。宿に戻ると言うのを引き留めたのはネロだった。さすがに煤だらけで屋敷をうろつくのは躊躇われると言うと毛布を運んできてくれたので、それに包まって一夜を明かした。朝になって現れたのはネロではなく、着替えを手にした偏屈執事だった。
「まさかネロ様に取り入るとは」
偏屈執事は名前をゼルデンと言った。その口振りからして不満なのは明らかだ。
「屋敷の秩序は私が守っている。判断に従わない場合はすぐに追い出すからそのつもりで」
「意地悪婆みたいなことを言うのね」
偏屈執事の眉がぴくりと動く。
「まだ若いのにそんな風に眉間に皺を寄せちゃって。それじゃ幸せが逃げちゃうんだから。もっと笑顔でいたらいいのに」
「お前のようなおめでたい脳みそと一緒にするな。お蔭様で煙突から家宅侵入をしようなどという非常識も持ち合わせてはいない」
「ふんだ、非常識で結構よ」
何と言われようとここの滞在をもぎ取ったのだ。今現在の勝者はエルシエルだろう。
屋敷への滞在が決まったためにエルシエルには客室のひとつが与えられることになった。部屋へと案内するゼルデンが先を歩くものの、その速さたるや、わざととしか思えない。待ってと頼むのも癪なので必死にそれに合わせて並ぶ。
「ところで、ネロ様ってどういうお立ち場の方なんですか?」
約束通りここにいられるようにしてくれたのはいくら感謝をしても足りないが、リオレイルの執事であるゼルデンに物を頼めるとは一体どういう身分の者なのだろうか。
「お前が知る必要はない」
聞いた相手が間違っていた。愛想の欠片もない返答はそれ以上の質問を許さないような冷たさがあった。しかしエルシエルは負けじとそんなゼルデンを見やる。
「じゃあ、失礼な態度があっても仕方ないよね。あたしは確認したのにゼルデンさんが教えてくれなかったんだもんね」
ゼルデンの眉間に更なる皺が寄る。エルシエルが指さすと、うるさいと不機嫌な声が返った。
「やんごとなきお方からお預かりしている。だから失礼な態度をとるな、迷惑かけるな、必要以上に関わるな、はやく出て行け。わかったか」
「最後、なんか違うことが混ざってた気がするんですけど」
意地悪という単語を人間にしたら、きっとこんな人物になるに違いない。
「ねえ、お聞きしてもいいですか?」
よくないという返事も予想したが、意に反してゼルデンは先を促した。
「リオ様はどうして誰ともお会いにならないの?」
「それはリオ様にしかわからないことだ」
「お尋ねしてないの?」
ゼルデンの顔がさらに不機嫌なものになった。さしずめ聞いても応えてもらえないといったところだろうか。
「あなたとも会わないの?」
そうだとの返事が返る。淡々とした回答に、思わずエルシエルは溜息をついていた。
ディアナの話ではゼルデンはリオレイル付の執事ということだったが、そんな側近も会えないのだ。彼も気の毒だが誰にも会わずにいるリオレイルもまた辛いのではないだろうか……。
「なんか、寂しいね」
意外な言葉だったのだろうか。ゼルデンが瞬いた。
「ずっと傍にいるのに、会えないなんて」
「……お前に関係ないだろう」
ゼルデンが目を逸らした。
そうかもしれない。けれど、なんとかできればいい。自分にできるなら。せっかくここにいられることになったのだ。協力してくれる人もいる。できる限り、なんとかしたい。
「ところで」
「はい?」
「なぜそんなに端を歩く?」
階段にも廊下にも中央には絨毯が敷かれており足音は吸収されて響かないようになっていた。エルシエルとしてはせっかくきれいにな絨毯の上を土足で歩くことに少なからず抵抗を感じていたのだが……。
「あ、いや……つい」
気が付けば絨毯から外れて歩いてしまっていたらしい。
「鍵は渡しておく。失くしたら追い出す」
ひとつの扉の前で足を止めるとゼルデンが言った。
「なんか失くすこと祈ってる感じがしますけど」
気のせいだと言って、ゼルデンが施錠を解除するとそのまま金色の鍵を差し出した。素直に受け取って、誘われるままに足を踏み入れる。
正面に大きな窓があった。カーテン越しに日差しが柔らかく差し込む。
「隣はネロ様の部屋だ。うるさくするな」
頷きながら、エルシエルは恐る恐る歩を進めた。
「なんか、すごい部屋なんですけど」
エイドリオの所もそうだったのだが、この国では寝台にはすべて屋根がつくのだろうか。薄いレースの向こうに最高の眠りを約束してくれそうなベッドがある。
部屋の中央には応接セットよろしくさわり心地のよさそうな、布張りの、背もたれが低めのソファが並んでいる。古そうな本を並べた書棚、細かな彫刻が施された猫足が見事なサイドテーブル。そのどれもがよく磨かれ埃ひとつない。磨かれているのは何も家具だけではなく、ドレッサーの鏡も引き出しの金も、台座の方も、触るのが躊躇われるほどに綺麗だった。
ドレッサーの隣にゼルデンが荷物を置いた。大した荷物はなく小さな旅行鞄がひとつだが、一応紳士なのだろう、何も言わずともゼルデンが馬車からそのまま運んでくれた。そもそも手ぶらだったエルシエルに、エイドリオが小柄だった亡き奥方の服がちょうどいいのではないかと、いくつか見繕って持たせてくれたものだった。
ゼルデンが窓を開けると風が流れ、さらに解放感が溢れる。あまりの広さに目を回しそうになってエルシエルはゼルデンの袖を掴んだ。
「あの……半分くらいで十分ですが」
むしろ四分の一、いや十分の一でも構わない。
「物置的な感じの場所は……?」
「ここがいいだろうという指示を頂いている」
落ち着かなげなエルシエルに文句があるのかと問う。それには首を振った。気に入らないなら出て行けと言うに決まっている。
「お前の仕事はネロ様のお相手だ。ネロ様がそう望まれている。呼ばれたら行くように」
「家庭教師とかそういうことでしょうか?」
「まさか」
お前にできるわけがないと言わんばかりの、鼻で笑った言い方だった。
「……あたし、別に遊びに来たわけじゃないんだけど」
「だからこそ、立派な仕事だろう?」
言ってゼルデンが微笑む。
「お子様同士、さぞ気が合うだろうな」
年頃の女子ならば一瞬で心が奪われそうなほどに麗しい笑顔だった。だが、年頃の天使見習いは一瞬怒りで我を忘れそうだった。
宿敵、現る。エルシエルの脳裏で戦いのゴングが鳴ったのだった。




