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エピローグ

エピローグ


 厳かな鐘の音が突然途絶えた。淡い芳香が薄れ、遠ざかっていた音が耳に戻ってくる。

 もういいよと言うパパリの声に目を開けると、目の前には緑があった。

「な、なに、ここ? ええ?」

 明らかに繁みのただなかだ。動けば小枝に、葉っぱに髪やら服が引っかかる。

「どうだい、僕らの移動方法」

「ほえ?」

 本来見習い天使の地上への移動手段は巨大鳩による運搬で、直接世界の境界を強引に飛び越すようなことはない。だが試験官たちは直接境界を繋いで行き来が可能で、自由に場所を選択することができる。

「らくちんだろ?」

「……そ、そうだね」

 どうやら今回は正規の移動手段ではないようだ。試験官と同じ瞬間的移転方式なのはいいが、もう少し場所を考えてほしい。何が楽しくて草木の中に埋もれればならないのか……。

 あの日、光の帯を描いてエイドリオを射った弓矢は不合格を示した。合格ならば右手に白く羽紋様が刻まれるのに何の変化もない。エルシエルの推察は物の見事に外れたのだ。

 結果――エルシエル、十一回目の試験、失敗。

 悪魔――見習いであるダリアに関わった時点で本来なら失格だ。それは免れたが、試験は継続といったジブリールにはこの結果は見えていたはずである。見えていたからこそ継続中と言ったのかもしれない。

 試験後は地上の穢れを落とすため一時期隔離される。何度も経験済だが喋る相手もなく、何をするでもないただ祈るだけの数日は決まって退屈でひどくもの寂しい。今までは失敗の悔しさを噛みしめ、反省をして元気を取り戻すためのものだった。実際、その意味もある隔離なのかもしれないが、没頭するもののない時間はエルシエルを地上での数か月へと引き戻していく。

 目を閉じて浮かぶのは深淵の宇宙のような闇色の瞳。

 思い出すのは毎日の、他愛ないやり取り。そして――温かい手。泣きじゃくる自分を抱きしめ、絶対に忘れないと言ってくれた声が心に繰り返し蘇る。考えまいとすることが考えることに繋がってしまう。忘れたいわけでは決してない。けれど、今、思い出すにはまだ心が痛い。

 ジブリールが顔を出したのは、エルシエルがどうしようもなく、そしてどうしてよいかわからない気持ちを持て余して、本当にどうにもできずにいる時だった。

「今回は残念だったわね」

 試験に失敗した者を相手の発言にしてはあまりににこやかすぎる口調だった。複雑な思いで首を傾げるエルシエルにジブリールは続ける。

「あなたは天使の中の天使になれる素質があるんだけど」

 でも、とジブリールは花の微笑みを浮かべる。

「みんなの天使にはなれないみたいね」

 消滅なのかと思った。もう試験は無駄だという宣告かと思った。それならそれで構わなかった。消滅すればこんな苦しい思いともお別れできる。ただ、苦しいのに、思い出すたびにほんのりと温かな気持ちになる、その温もりを失うことだけが寂しい気もする。

 ジブリールが指を鳴らすとそこにパパリが現れた。頷くジブリールに羽ばたきで応じる。差し出されたしなやかな手に、促されるまま、エルシエルは戸惑いつつも己のそれを重ねた。

 ――幸せになってね。シェル。

 ふんわりと耳に入った言葉。不意に体が軽くなる感覚に襲われた。

 懐かしい楽園の空気が流れ、風が変わる。唐突に音が途切れ――そして次の瞬間には、パパリとともに緑の中にいたのだ。

「僕はここまでだから」

 どうやらここが地上だというのはわかった。わかったが、どこだというのか。パパリがいるのだから試験が行われるのかと思ったが、それならここまでという意味が理解できない。

「洗脳はしないの?」

 パパリが首を振る。

「でも、それじゃ試験は無理でしょ?」

 パパリは答えない。

「……どういうこと?」

「十回天ってのはさ。ほんとは、蔑む言葉じゃないんだよ」

 パパリが言った。

「あり得ないこと。つまり、それだけの輝きを持つ魂ってことで、本当は奇跡を意味するんだ」

「……奇跡?」

「天使以外の道が開ける」

 エルシエルは目を瞠った。

「僕が担当した二人目の十回天だよ、シェルは」

 一人目の十回天は大天使の道を進んだ。それが一番ふさわしいだろうことは誰の目にも明らかで、そして本人もそれを受け入れた。

「多分、この道が一番いいんじゃないかって」

 決して強制ではない。命令でもない。本来なら本人に意向を問うのだが、今回はその必要はないだろうと、エルシエルに確認は行われず決定したのだとパパリが言う。

「この道……?」

 怪訝な顔をするエルシエルにパパリは特に答えることはしなかった。代わりに笑うような明るい声が続く。

「元気でな、シェル」

 パパリが小さな羽根を羽ばたかせて舞い上がる。

「え――ちょっと、待って。パパリ!」

 頭上を二度、白い小鳥が旋回する。手を伸ばしても届かない。そのまま小さな白い姿が澄んだ青空へと消えていく。何度呼ぼうともパパリが戻ってくることはなかった。

「パパリ……元気でって」

 呆然として、エルシエルはその場に座り込む。

「何が、どうなってるの?」

 巨大鳩での移動でもない。洗脳もしない。指示もない。試験でないというのなら、なおさらどういうことかもわからないし、どうしていいかわからないではないか。地上に、たった一人残されて、楽園の援助も受けられず、天使以外の道が開けるとかなんとか――。

 エルシエルの頭の中はは真っ白だった。

 自分は天使見習いで、ずっと天使になることだけを夢見てきた。それなのに天使以外の道なんて急に言われてもどうしていいのかわかるはずもない。そんなもの想像したこともないのだ。

 ――天使以外の道とは、なんなのだ?



 あまりのことに立ち上がる気力さえないエルシエルの背後で草木の動く音がした。がさがさと何かがこちらに分け入ってくる。人か、獣か。不安に慄きつつ、背後を振り返って――息を呑んだ。飲み込んだまま吐くことを忘れ、そのまま目を瞠った。

 それは人だった。こちらを見下ろす目はエルシエルに負けないくらい驚きに見開かれている。

「リ――」

 ――リオレイル、と。

 喉元まで出かかった名前は口にすることはできなかった。一度、地上を離れた自分を覚えているわけがない。よくわからないこの状況に対する混乱と、会えた嬉しさと。覚えていないだろうという怖さと。様々な感情が綯交ぜになって困惑するエルシエルを、だが、目の前の青年は端正な顔に少しだけ腕白さを滲ませて笑った。

「シェル?」

「――」

「こんなところで、何をしてるんだ」

「お……覚えてるの?」

 覚えているのかと問えば当たり前だとの返事。エルシエルは目頭が熱くなった。

「おい、なんでいきなり泣く」

 急激に視界が潤み、涙が溢れてきた。溢れたら、もう止まらなかった。

 試験なのかと思ったらそうではなく。奇妙な謎かけとともにどこだかわからない場所に置いて行かれた。いよいよ途方に暮れるしかないと思ったその時、リオレイルが現れた。現れただけではない。あろうことか自分の名前を口にしたのだ。記憶を消されているはずのリオレイルが「シェル」と呼んだのだ。これが感動せずにいられるだろうか。

「ああ、もういいから。わかったから、とにかく落ち着け」

 しゃくりあげながら事情を話すエルシエルにリオレイルが困惑の表情を見せる。背中を擦ってくれる優しさに、ますます泣けて、エルシエルは温かな胸にしがみついた。

「どうでもいいが……相変わらず、お前は変なところにいるのだな」

 苦笑交じりに言うと枝葉を払い、絡まった髪を解く。最初の出会いは暖炉だった。あの時は煤で真っ黒だったわけだからリオレイルの感想も無理はないものだ。

「あたし」

 大きな手が包むようにして涙を拭う。その温もりに頬が熱くなるのと同時に安堵を感じた。

「天使になれなくって」

 口にして改めて試験に失敗したのだと自覚する。

「それで、天使以外の道に進めって言われて、それで楽園を追い出されちゃって」

 そうかとリオレイルが微笑む。そこでどうして笑顔なのかわからずエルシエルは憮然とする。つまりはお先真っ暗なのだということを、果たして理解してくれているのだろうか。

「あの……お願いがあります」

 鼻をすすりつつ、エルシエルは口を開いた。

「ここに置いてください!」

 エルシエルは頭を下げた。

「置いてもらえるなら雑用でもなんでもします。お給金とかいらないし」

「偏屈がいるぞ?」

 一瞬動きを止めたエルシエルだが頭をぶるぶる振って懇願する。

「だ――大丈夫。ゼルデンさんの意地悪にはだいぶ慣れたので、多分、きっと、もう全然!」

 頼れるのはリオレイルだけだ。もし雇ってもらえなければいよいよもって絶望するしかない。

「やっぱりメイドになりたいのか? 無理だろ、のろまで不器用なメイドなんて最悪だ」

「……う」

 辛辣な言葉に思い出す。リオレイルもまたゼルデンやディアナと同じ人種だったのだ。

「メイドになる必要などない。ここはお前の家でもあるんだから」

 戻ろうとリオレイルが手を差し出した。ジブリールのそれと違い、硬質の、大きな手だ。

「まずは風呂だな。泥だらけだぞ」

「あの……?」

「ゼルデンがいじめる相手がいなくなったと嘆いていたぞ。ディアナも洗濯を押し付けられないと愚痴ってるし。はやいところ顔を見せてやってくれ」

 ――みんな覚えている

 消されているはずの記憶。リオレイルだけでなく、どうしてみんなに残っているのか。

「シェル」

 なかなか手を出さないのに業を煮やしたのかリオレイルが自らエルシエルの手を取った。

「エディ爺の願いを教えてやろうか」

 そうだった。推察したものが間違っているならば正しい願いは他にあったはずだ。

「嫁さんだ」

「ええっ」

 またそれか!

 思わず大声で言いそうになるのを続く言葉が食い止めた。

「孫の」

「……え?」

「早いとこ、嫁をもらって安心させてほしいってさ」

 なあんだと胸を撫で下ろす。が、そこで瞬く。エイドリオの孫の嫁ということはつまりはリオレイルの嫁ということではないか。そんなものどう叶えれば良かったと言うのか。

「というか……まあ、つまり、ひ孫が見たいらしくてな。それが爺さんの願いらしい。それにはまず俺が結婚する必要があるわけだ」

「そ、そうですね」

「シェルは、エディ爺の願いを叶えるんだったよな?」

「え?」

 目を向けるとにやりとするリオレイルと目が合った。言わんとする意味を悟った瞬間、ぼんと顔が熱くなる。どんどん赤くなるエルシエルを見て、リオレイルが実に楽しそうに笑う。

「叶える気はあるか? 天使様」

「て、天使じゃないです」

「見習いだったか」

「……今は、見習いでもないです」

「なんだっていい。シェルはシェルだ。俺にとっては恩人で、天使に違いない」

「あ」

 ジブリールの言葉が浮かんだ。

 ――天使の中の天使になれるのに、みんなの天使にはなれない。

 その言葉の意味を理解した。エルシエルの心はたった一人を選んでしまっている。己の手の繋がった先――この温かな温もりをくれるリオレイルを。

 天使以外の道――それは今のこの状況に答えがある。

 笑うパパリの、元気でという声が耳に蘇る。

 どうしたと不思議そうに見る闇色の瞳になんでもないとエルシエルは答えた。

「そういえば聞きたいと思ってたことがあるんです」

 傍らを見上げると質問を待つリオレイルの笑顔がある。

「ネロって、どこから考えた名前なのかなって」

「ああ、あれはな。昔、お婆様が飼っていた猫の名前から拝借したんだ。真っ黒な猫で、尾の先だけが白かったそうだ。絵なら何枚か残っている」

 見たいかと問われエルシエルは頷いた。

「やっぱり本物には会っておかないと。リオ様も」

「俺も?」

「名前を借りたこと、ちゃんと報告しなくちゃ」

「なるほど。では、夕食後にでも一緒に会いにいきますかね」

「……一緒に?」

「なんだ、嫌なのか?」

 勢いよく首を振るとリオレイルが笑った。

 ――一緒に、いられる。ずっと……。

 考えただけで胸が熱くなって涙が出そうになる。向けられる微笑が柔らかくて、優しくて。再びこの温かさに触れ、こんな風に並んで歩いて、こんな風に話せるとは思いもしなかった。

 繋がった手に目を向け、嬉しさに口元が思わず緩んでしまう。歩きながら何度も何度も見ては、恥かしくも嬉しい気持ちを実感する。

「なんだ?」

「いえ、別に」

「おかしな奴だな」

 届かないと思った幸せをしみじみ噛みしめる手を不意にリオレイルが離した。急に繋がりが失われたことに驚く間もなく素早く腰に回された手がエルシエルを引き寄せる。

「お帰り、シェル」

 前髪越し、額に唇が触れる。照れくささとくすぐったさに首を竦めるとそっと口づけされた。ぽーっと呆けるエルシエルに笑いかけると、再びリオレイルが手を引いて歩き出す。

 広い背中の向こう、見上げた青空。さらにその先に、楽園はある。

 ――天使になれたよ。

 そう心で語りかける。何回も挑戦して失敗してもめげる必要なんてない。

 いつだって頑張れば、ちゃんと夢は叶うのだから――。

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