第四部第七話:深渓の決断と、落下する運命
第四部第七話:深渓の決断と、落下する運命
――深く薄暗い森の樹海。
苔むした大木の隙間を、三匹のゴブリンが身を低くして忍び足で進んでいた。
先頭のゴブリンが鼻をヒクヒクと蠢かせ、湿った地面に残された靴の跡と、わずかに漂う人間の匂いを鋭く察知する。
不快な黄色の目をギラつかせ、細く汚れた指で進行方向を指し示すと、残りの二匹が不気味な唾を呑み込みながら後をついて歩き出した。
だが――彼らは気づいていなかった。その背後に潜む、死神の如き静寂に。
――シュッ。
最後尾を歩いていたゴブリンの首筋に、冷ややかな銀の刃が吸い込まれた。悲鳴を上げる間もなく、頚脈を深々と掻き切られた体は力なく崩れ落ちる。
間髪入れず、二人目のゴブリンが異変を察知して振り返ろうとした瞬間――その顎下から脳天へと短剣が垂直に貫通していた。
「……キ?」
異様な静けさに違和感を覚えた先頭のゴブリンが振り返った時――目の前に立ち上がっていたのは、漆黒の髪を風に揺らした若き義賊、アルであった。
すでに喉元を深く撃ち抜かれていたゴブリンは、そのまま虚ろな目を剥いて倒れ伏した。
手慣れた手つきで短剣の血を拭うと、アルは木陰で息を潜めていたリサ王女とニコラのもとへ素早く合流した。
「よし……追撃の斥候は始末した。先を急ごう!」
アルが先頭に立ち、泥に汚れながらも必死についてくるニコラとリサ王女を従えて先を急ぐ。
(チッ……死体を隠す時間すら惜しい。この死体の痕跡を辿られれば、進路が割れるのは時間の問題だ……)
アルは焦燥感を胸に秘めながらも、足を緩めることなく森を駆け抜けた。だが、今はただ前へ進む以外に道はない。
やがて一行の視界が急速に開けた。
しかし、それは希望ではなく絶望の光景であった。
アルたちの行手を遮るように、突如として断崖絶壁の巨岩がそびえ立つ「大渓谷」が立ち塞がったのだ。
はるか谷底からは、岩を噛む激しい川の濁流音がゴオオオと不気味に響いてくる。
「くそっ、行き止まりか……! 渓谷沿いに進もう。こんな場所で敵に遭遇したら、たまったもんじゃない」
先を急ぐアルたちであったが、その懸命な足掻きも虚しく、岩陰から次々と姿を現した影によって、予想通り完全に包囲されることとなった。
「ハハハ! やっと見つけましたよ……。もう逃げ場はありません」
嘲笑を浮かべながら、黒い法衣を纏ったテルセイの魔導士が姿を現した。
その周囲には、鋭い殺気を孕んだ数十匹のゴブリンたちが爪を研いで立ち並んでいる。
アルは二人を背中に庇い、短剣の刃をチラつかせながら冷ややかな視線を向けた。
「……貴様らの目的は何だ?」
「知れたことを……。その王女を生贄にし、我らが悲願を成就させるに決まっておろうが……」
魔導士は喉を鳴らして可笑しそうに笑った。その歪んだ瞳には、絶対的な優位から来る余裕が満ち満ちている。
「相変わらず芸のない連中だ。少しは捻りってものがないのかね」
「ふん、強がりを。大人しく降伏すれば、命だけは保証してあげましょう」
「それはそれは……随分と寛大なことだ。だがねぇ、俺たちはまだ『捕まった』わけじゃないんでね!」
魔導士は眉をひそめ、崖際に追いやられた二人を嘲笑した。
「ハッ! この状況で、一体どこへ逃げると言うのか?」
「そりゃあ……こうするんだよッ!!」
――ガシィッ!!
アルは叫ぶやいなや、両脇にいたニコラとリサ王女の手首を強力な力で掴むと、躊躇することなく眼下の猛烈な崖下――大渓谷の虚空へと跳び降りた!
「きゃあああッ!?」
凄まじい風切り音と浮遊感。
しかし、崖から落ちるすんですのところで、侍女のニコラはパニックと恐怖のあまり、アルの腕を狂わんばかりの力で振りほどいてしまった!
「ニコラッ!?」
手応えが抜け、リサ王女だけを抱き抱えたまま、アルの体は大渓谷の暗がりへと真っ逆さまに落ちていく。
崖の上には、土壇場で取り残されたニコラだけが取り残されてしまった。
「くそっ、王女を捕らえよッ! 逃がすな!」
豪華な神官衣を纏っていたニコラを本物のリサ王女だと錯乱した魔導士は、ゴブリンたちに命令を下しつつ、自らも崖の縁から身を乗り出して谷底を見下ろした。
(フン、あの高さから落ちればただの肉塊……ん……!?)
その瞬間、魔導士は恐怖でぎょっと目を剥き、言葉を失った。
落下の途中で死んだはずのアルとリサ王女が――なんと、空中になだらかに「滞空」し、すぐ目の前の至近距離に浮遊していたからだ!
「な……ッ!?」
驚愕に凍りつく魔導士の視界の中で、アルの鋭い双眸がギラりと光った。
アルはすでに空中でありながら弓を構えており、引き絞られた弦が放たれた!
――シュバッ!!
「カッ……!?」
一閃の矢が風を切り、魔導士の眉間を正面から深く貫通した。
脳天をぶち抜かれた魔導士は、白目を剥いて崖の上から前かがみに倒れ込み、アルたちよりも遥かに速い速度で谷底の闇へと真っ逆さまに落下していった。
「アル殿……! あなたは……空を飛べるのですか!?」
アルの首筋にしがみつき、必死で風圧に耐えていたリサ王女が感極まった声で問うた。
「まさか……! これは落下の勢いを殺す『自由落下の術』だ……! そして、気を抜くと一気に落ちるッ!」
アルが歯を喰いしばって叫んだ瞬間、術の抑止力が解け、二人の落下速度が加速度的に跳ね上がった!
――ズザザザザアアアッ!!
猛烈な重力が二人を襲い、眼下に迫る激流の川面が視界一面に広がる。
ドカンと凄まじい水柱が夜の渓谷に上がり、アルとリサの体は激しい濁流の中に呑み込まれていった。
一方、崖の上――。
首領たる魔導士を失ったゴブリンたちであったが、彼らは残されたニコラをその豪華な衣装から「リサ王女」だと完全に勘違いしていた。
「ひっ……! 離して! 」
暴れ回るニコラの手足を力任せに縛り上げ、ゴブリンたちは歓喜の声を上げながら、捕らえた彼女を連れて暗い森の奥へと走り去っていった。
冷たい川の底へと沈んでいくアルとリサ。そして連れ去られたニコラ。
分断された一行の運命は、より過酷な混沌へと巻き込まれていくのであった。




