第四部第六話:月下の説法と、求道者の芽生え
第四部第六話:月下の説法と、求道者の芽生え
朝日が山並みの端を白ませ、静寂な山間の牧場に穏やかな鳥のさえずりが戻っていた。
昨夜の死闘が嘘のように落ち着きを取り戻した牧場を見届け、半冥王族のブルドは深く息を吐き出した。
敵の頭領を討ち取られた亜人どもはすでに潰走しており、この温かな農夫の家族にこれ以上の危害が及ぶことはない――そう確信したブルドは、一人静かに牧場を後にした。
アル、そしてリサ王女一行の後を追うべく、薄霧の立ち込める急な山道へと踏み込む。
黒い錫杖の先についた環が、歩みに合わせてチリン、チリンと悲しげな鈴音を響かせる。その静けさを破るように、一本の巨木が落とす濃い影の奥から、ぬっと一人の女性が姿を現した。
「初にお目にかかります。私はテルセイの七魔導士が一人、シーナと申します」
深紫色の法衣に身を包んだその女性は、淑やかに胸に手を当てて深く一礼した。
年齢はブルドと同じ三十代半ばほどに見えたが、その瞳は驚くほどに澄み渡り、世界の秘密を覗き込もうとする純粋な好奇心に満ちあふれていた。
その凛とした立ち姿の奥に、どこか可憐な少女のような危うさを同居させている。
「そなたは……幾多の死線をくぐり抜け、生と死の深淵にて『悟り』を開きし者、ブルド卿かと存じますが……いかがか?」
「ふむ……いかにも拙僧はブルドと申すがの。『悟り』を開いたかどうかなど、自分ではとんと覚えがござらんな」
ブルドは立ち止まり、丸めた己の頭をパシパシと面倒そうに撫でながら、どこか世間を食ったような目で目の前の女性魔導士を見つめた。
「ご謙遜を。私はあなたと争うつもりなど毛頭ありません。……どうか私に、あなたが辿り着いたその『悟りの境地』をご教授いただきたいのです」
真摯な眼差しで懇願するシーナに対し、ブルドは重く首を横に振った。
「なんじゃ、そんなもんが知りたいのか? 存外つまらん物じゃぞ。……知ってしまえば希望は奪われ、ただ途方もない絶望に苛まれるやもしれん。悟りなど開かぬ方が良かったと、死ぬほど後悔するやもしれぬのだぞ?」
「――ぜひとも。私は世界の真理を知りたいのです」
シーナの心に一切の揺らぎはなかった。ただ知識と存在の根源を欲する純粋な欲望が、彼女の碧眼を強く輝かせていた。
「……やれやれ。そこまで言うなら、見せてやるほかあるまいな」
ブルドの纏う空気が一変した。
それまでの好々爺とした緩慢な雰囲気が霧散し、一瞬にして生命の根底を揺るがす恐ろしい「冥王力」の気配が山道を圧迫する。
ブルドは静かに念仏を唱え始めると、深く閉じていた両目をカッと見開いた。
「――喝ッ!!!」
雷鳴の如き太い喝声とともに、ブルドの分厚い拳が空を穿つ。
その瞬間――シーナの視界から山道の風景が消え去った。
時間と空間の概念が物理的に崩壊し、彼女の魂は一瞬にして底なしの「宇宙の底」へとまっさかさまに引きずり降ろされたのである。
何もない虚無。
星の生まれ、そして滅びゆく深淵。
生者も死者も、愛も憎しみも、全てが等しく不毛な塵へと還元されていく絶対の無。
ブルドにとってはわずか一秒にも満たない「一瞬」の出来事。
しかし、その概念の直撃を受けたシーナにとっては、魂が押し潰されそうになるほどの無限とも言える「永遠の刻」が流れていた。
「ハッ……! 吸っ……!」
荒い息を吐きながら、シーナは膝を折り、地面に両手をついた。
滝のような汗が額から滴り、白皙の頬を濡らす。
正気に戻った彼女の顔には、生と死の虚無を知ってしまった猛烈な寂寥感と、真理に触れた圧倒的な感動が同時に込み上げていた。
彼女の目からボロボロと溢れ出す涙。
そして、その唇に浮かんだのは、すべてを悟ったかのような晴れやかな笑顔であった。
「なるほど……。知ってしまえば……これほどまでに、つまらない物だったのですね」
「ふむ。この世の理など、知ったところで何かが変わるわけではないからの。……だが、それを踏まえた上で、残された人生を無為に過ごすも、有意義にするも、すべてはそなた次第じゃ」
ブルドは肩をすくめ、手にした漆黒の錫杖を地面に突いた。
「ブルド師匠……! お願いです、私を弟子にしてくださいませ!」
シーナは泥に膝を突いたまま、ブルドを見上げて切実に懇願した。
「やや! そのようなことを申すとは、まだまだお主も悟りきれておらぬようじゃな」
ブルドは苦笑いを浮かべた。
自ら「悟りを開いた」と認めてしまえば、それは慢心であり、探求の終わりを意味する。
ブルド自身、未だに己の悟りを完全に認めたくはないという青臭い執着を残していたのだ。
「ワシは弟子など取らん。……だが、共に答えを追い求める『求道者』として歩むというなら、手を貸してやらんこともないぞ」
「……! ありがたき幸せにございます!」
シーナは涙を拭い、清々しい笑みを浮かべて深く頭を下げた。
その時、二人の会話を遮るように、山道の樹木や岩陰からザクザクと濁った足音が響いた。
シーナが率いていた配下のゴブリン部隊が、いつのまにか二人を隙間なく取り囲んでいたのだ。
「シーナ様! 敵の術師を拘束したのですか!?」
殺気立つゴブリンの長が、錆びた斧を掲げて進み出た。
しかし、シーナはゆっくりと立ち上がると、静かで冷徹な声を彼らに向けた。
「お前たち……我が部隊は、本日をもって解散とする。武器を捨て、どこか静かで安住できる地を見つけ、そこで幸せに暮らすが良い」
「な……なんですと!?」
ゴブリンの長は己の耳を疑い、目を丸くした。
「しかしシーナ様! 我らの悲願である、あの高慢な天王族どもを討ち滅ぼす戦いはどうなるのです!? 天王界を我ら亜人の手に取り戻すのでは……ッ!」
「もはや、そのようなことは些事に過ぎない。己の命を賭けるほどの価値など、どこにも無かったのだ」
シーナは愛おしそうに遠くの空を見つめ、静かに告げた。
「人は……あらゆる生命は、いずれ等しく死ぬ。ならば、その刻が訪れるまで、己の人生をいかに意義あるものにするか……それだけが重要なのだ」
だが――哀しいかな、過酷な奪い合いの中でしか生きてこなかったゴブリンたちにとって、シーナの崇高な言葉は到底理解できるものではなかった。
彼らの目には、大幹部であるシーナが、老いた死霊使い(ブルド)の怪しげな術によって精神を狂わされたとしか映らなかったのだ。
「いかん……! シーナ様が奴に操られているぞ! 殺せッ! あの老いぼれを叩き斬れッ!」
叫びとともに、無数のゴブリンが一斉に凶器を構えて襲いかかってきた。
「……愚かな。ならば、あなた方にも少しだけ見せてあげましょう」
シーナは嘆くように目を閉じると、胸の前で印を結んだ。
ブルドから受け継いだ「無」の衝撃を、彼女独自の聖なる冥王力へと変換し、全身から眩いばかりの純白の光を解き放った!
――――ゴオオオオッ!!
光の波動が波紋となって一瞬で周囲のゴブリンたちを包み込む。
攻撃の物理的なダメージはない。
だが、その光に触れたゴブリンたちの頭の中に、自らの死の瞬間と世界の冷酷な絶対の虚無が、鮮烈な「死の幻影」となって叩き込まれた。
「ヒィィィィッ……!? 死ぬ! 殺されるッ! 逃げろぉぉッ!」
凄まじい絶望の恐怖に打ちのめされたゴブリンたちは、武器を投げ捨て、蜘蛛の子を散らすかのように山奥へと狂乱しながら逃げ去っていった。
集団としての統率を失った彼らは、やがてかつてのような野盗同然の卑小な暮らしへと戻っていくだろう。彼らがいつか本当の「幸せ」を見つけられるかどうかは――まだ誰にも分からない。
「ふむ……。それでは、先を急ぐとしようかの」
騒動が収まると、ブルドは手持ちの錫杖を一度だけ鳴らし、アルたちの残したかすかな足跡を追って山道を歩き始めた。
「はい、師匠……いいえ、ブルド様」
シーナは紫の法衣の裾を優雅に整えると、穏やかな笑みをたたえ、ブルドの斜め後ろを静かに、そして確かな足取りでついていった。
かつて「七魔導士」として過酷な破壊の宿命を担っていた女性は、いまや一人の求道者となり、黒髪の義賊アルとリサ王女を追う物語の舞台へと、静かに踏み出していくのであった。




