第四部第四話:揺れる炎と、死への暗黙
第四部第四話:揺れる炎と、死への暗黙
――夜霧が深く立ち込める森の陰。
小さな岩穴の口で、一本の乾いた薪がパチパチと爆ぜる音だけが静寂を静かに削っていた。
少し離れた場所で、長旅の緊張と先ほどの凄惨な戦闘に疲弊しきった侍女のニコラが、木の根元に体を丸めて泥のように深い眠りに落ちている。
その横で、アルとブルドは小さな焚き火を挟んで腰を下ろし、今後の道筋について低く息を潜めるように思案していた。
「……で、これからどうする?」
ブルドが剃り上げた頭ながら、錫杖を地面に軽く突いて尋ねた。
「決まっているさ。このまま王都の王城まで王女様を無事に送り届けて、王様から謝礼をたんまり頂戴する。俺たちの『旅費』としては十分すぎるだろ?」
アルが不敵な笑みを浮かべ、冗談めかして肩をすくめたその時――。
「……王都には参りません」
暗がりの中から、鈴を転がすような、しかし凛とした透き通る声が静かに割り込んできた。
掛けられていた毛布を静かに払い、立ち上がったのはリサ王女であった。
焚き火の橙色の光が、彼女の儚くも美しい白銀の髪と、決意を秘めた碧眼をくっきりと浮き彫りにしている。
「なぜだ? 一番安全で、あんたを守れる騎士たちが大勢いる場所だろ」
アルが不思議そうに眉をひそめると、リサは唇をキュッと結び、悲痛な光を宿した瞳でアルをまっすぐに見つめ返した。
「この修道院を襲撃させ、私を狙わせた混乱の首謀者は……我が義母だからです」
「なんだって……? 義母って、今のルガーラ王妃のことか?」
「はい。父王フリストは、私の実母であるエレナ王妃を失った後、後妃としてマルグレートを迎え入れました。彼女にとって、前王妃の血を引く私は……自らの権力を揺るがす邪魔者に他ならないのです」
「……いくら何でも考えすぎじゃないか? 王都の貴族どものドロドロした権力闘争にしても、修道院をゴブリンの大軍で襲わせるなんて芸当は……」
「いいえ、そんなことはありません。彼女はただの人間ではなく、恐ろしい術を操る魔導士に違いありません。それに……私の母エレナを毒殺したのも彼女だという噂が絶えないのです」
リサの言葉に一切の揺らぎがないのを見て取り、アルとブルドは顔を見合わせた。
(確かに……ルガーラ王国の後妃マルグレートには、市井でもあまり良い噂を聞かない)
だが、アルの頭には一つの疑問が浮かんでいた。
マルグレート王妃にはすでに、父王との間に生まれた実の男児・カイン王子がいるのだ。
乱暴な言い方をすれば、王位継承権の観点から見ても、いずれ国はマルグレートとカイン王子のものになる。
今更リスクを侵してまで、第一王女であるリサの命を辺境の修道院で狙う理由がどこにあるというのか。
「……まあいい。理由はどうあれ、王都へ戻らないとなると……では、どうする?」
アルが尋ねると、リサは迷いのない手つきで西の空を指した。
「隣国セルバ王国に、私の婚約者がおります。彼のもとへ向かい、協力を求めましょう。セルバの軍勢であれば、義母の脅威からも私を守り切れるはずです」
「隣国か……随分と遠いな」
アルは溜息をつき、隣で黙って話を聞いていたブルドへ視線を投げた。
「おいブルド、お前のあの『転移の術』で一気にセルバまで飛べないのか?」
「ふむ……生憎じゃが、転移の術は使えんぞ」
ブルドは長い白髭を指先で弄りながら、首を横に振った。
眼光はいつになく真剣である。
「このルガーラとセルバの国境付近一帯には、何者かの手によって、広大な『探知の結界』が張り巡らされておる。ここから先、下手に高密度の王力や空間術を使えば、即座に巨大な網に引っかかるじゃろうな」
「ちっ……結局、地道に歩きってわけか」
アルは頭を抱えたが、すぐに切り替えるように立ち上がった。
「そうと決まれば、もう寝た方がいい。明日は長旅になるぞ。見張りはブルドと俺が交代でするから、あんたは安心して休め」
「……ありがとうございます、アル殿」
リサ王女は胸に手を当て、深く淑やかに頭を下げて礼を言った。
泥や埃に汚れながらも、気品を失わずに素直に感謝を述べる姿に、アルは(こういう素直なところは、案外可愛げがあるんだがな)と密かに心の中で思った。
すると、横でゴロンと横になったブルドが、すれ違いざまにアルの耳元へ口を寄せ、ニヤリと不吉な笑みを浮かべて囁いた。
「……姫君に『婚約者』が居ると分かって、少々残念じゃのう? アルよ」
「――ぬかせッ! 余計なことを言ってないでさっさと寝ろ!」
アルは顔をわずかに赤くし、足元に落ちていた小枝を焚き火の中にくべながら、吐き捨てるように怒鳴った。
ブルドの規則正しい寝息が響き始め、夜はいよいよ深まっていった。
アルは一人、燃え落ちていく薪の残り火を見つめながら、思考の海へと没入していた。
数々の疑問が頭を駆け巡る。
もしリサ王女の言う通り、後妃マルグレートが黒幕なのだとしたら――彼女は、あのテルセイの残党組織【AAA(対天使軍)】の連中と繋がっているというのか?
(いや……ただの権力争いじゃない。あの七魔導士ボルゲの目は、単なる刺客のそれじゃなかった)
アルには確信があった。
AAAの真の狙いは、ルガーラ王国の王女であるリサを「生贄」として捧げ、この天王界の地に、かつての猛威たる「魔王」を再び召喚・顕現させることにあるのだと。
「……おい」
アルは静かに声をかけた。まだ眠りについていなかったリサが、毛布の中からゆっくりと体を起こし、アルを見つめ返した。
「奴らは……AAAの連中は、ただあんたを殺したいんじゃない。あんたを生贄にして、恐ろしい魔王をこの地に呼び込むつもりだ。もしもの時……万が一、奴らに追い詰められて逃げ場がなくなった時は……俺があんたを……」
アルは言葉を濁した。
だが、その言わんとする惨酷な意味――「生贄にされる前に、俺の手であんたの命を絶つ」という誓いを、リサは正確に読み取った。
「……その時は」
リサは悲しげに、しかし一切の迷いを捨て去った清らかな瞳でアルを直視した。
「……その時は、どうか、お願いします」
魔王の依代となり、世界を滅ぼす生贄にされるくらいならば、人間としての尊厳を持ったまま死を選ぶ覚悟が、彼女には最初からでき上がっていた。
そして、目の前にいるこの黒髪の青年ならば、情に流されることなく、その惨酷な約束を躊躇なく成し遂げてくれるだろうという不思議な信頼があった。
「……約束だ」
アルは低く呟き、短剣の柄を強く握りしめた。
リサは小さく頷くと、ようやく安堵したようにゆっくりと目を閉じ、無理矢理に深い眠りへとついていった。
暗闇の中、冷たい夜風が吹き抜け、焚き火の赤い火の粉が夜空へと儚く舞い上がっていった。




