第四部第十九話:血塗られた静寂と、偽りの祝歌
第四部第十九話:血塗られた静寂と、偽りの祝歌
惨劇の地獄絵図と化していたセルバ王国の王都。
充満していた不吉な邪王力は、街を包むように展開されたブルドの冥王力と、シーナが展開した鎮静の術によって、少しずつその濃度を薄め、落ち着きを取り戻しつつあった。
聖王力や天王力で守られていた一部の神官たちや衛兵らも正気を取り戻し、街の混乱の収拾に尽力し始めていた。
暴走から目覚めたゲイル王子をはじめとする王家の人間たちも、激しい頭痛に耐えながら正気を取り戻していった。
その王宮の片隅――無数の遺体と血煙の匂いが残る広場で、ニコラは未だ「リサ王女」の姿のまま茫然と立ち尽くしていた。
そこへ、漆黒のドレスの裾を揺らし、ルガーラ王妃マルグレートが静かに歩み寄ってきた。
彼女は冷ややかな笑みを浮かべ、優しく愛おしむかのようにニコラの華奢な身体を抱き寄せると、その耳元で毒のように甘い声を潜ませて囁いた。
「……本物のリサは死にました。あなたはこれより……死ぬまで『リサ王女』として生きるのです」
その言葉が頭腔に響いた瞬間、ニコラの身体が小さく跳ねた。
だが、拒絶の言葉は出なかった。
彼女は静かに瞳を閉じ、腹をくくったように覚悟を決めた。
(……いいえ。これは、私自身がずっと望んでいたこと……)
侍女としての過酷な宿命を捨て、理想の男性に愛される高貴な存在へ。
永遠に続くであろう欺瞞の苦悩と、手に入れた幸福。
ニコラの胸中では、ドロドロとした罪悪感と甘美な歓喜が交ざり合い、複雑な渦を巻いていた。
「リサ……! リサ王女、ご無事でしたかッ!」
正気を取り戻したゲイル王子が、衣服の乱れも気にせず駆け寄り、ニコラを強くその胸へと抱きしめた。
「ゲイル……様……っ」
ニコラはゲイルの背中に細い腕を回し、その胸に顔を埋めて涙を流した。
国家の醜い思惑や黒幕の奸計がどうあれ――今この瞬間だけは、己の幸福だけを噛みしめようと心に誓いながら。
なお、混乱の真相はマルグレートの手によって都合よく書き換えられていた。
すべては魔導士シャギュアと結託し、大神官になりすましていたクーリッジの単独の陰謀であり、それをルガーラ王妃マルグレートが見事に破って事態を収拾した――というシナリオである。
身勝手な野望を抱いていたクーリッジは、真相を口にする前にマルグレートの手で暗黒の魔術によって密かに始末されていた。
これにより、セルバ王国とルガーラ王国の同盟はこれまで以上に強固なものとなり、両国は「魔王族の残党の完全撲滅」に向けて全面的に協力することを誓い合ったのだった。
王宮の喧騒と狂乱の混乱に乗じ、城の奥深くまで潜入していたブルドとシーナの二人は、豪華な回廊の陰からゲイル王子に抱きしめられるニコラの姿を遠目に見つめていた。
ニコラから漂う微かな気配と、変貌したその運命の不自然さ。
事情を察した二人は、それ以上立ち入ることなく、静かに足音を消して城を辞した。
王都の郊外、荒涼とした薄暗い森の小道。
静寂の中を歩きながら、ブルドは手にした漆黒の錫杖を鳴らし、隣を歩く紫衣のシーナへと視線を向けた。
「……シーナよ。お主はどこまで知っておるのじゃ?」
師匠の重厚な問いかけに、シーナは歩みを止め、伏し目がちに正直な告白を口にした。
「……天導教団内に『天使抹殺』の極秘計画が存在すること自体は存じておりました。ですが、その具体的な内容までは私にも知らされてはいなかったのです。……私が把握していたのは、リサ王女を捕らえ、邪王力を増幅させる生贄として捧げる……という段階まででございます」
「ふむ……。では、あのマルグレート王妃も『AAA(Anti Angel Army)』の幹部の一人なのか?」
「はい。ですがマルグレートは……ルガーラ王へ嫁いだ時点でAAAを離脱していたはずでした。まさか、裏で今なおクーリッジと協力し、糸を引いていたとは思いもしませんでした……」
シーナは悔しそうに首を振った。
「ふむ、まあ良い……。真のリサ王女を失った(……ということになっている)以上、ワシらがこれ以上この茶番劇に介入するのは不粋というものじゃな」
「……左様でございますね」
「では、ワシらも引き上げるとしようか」
ブルドはカツン、と錫杖を大地に鳴らし、立ち止まることなく新たな流浪の旅路へと歩みを進めた。
半冥王族の長たるブルドは、己の絶大な冥王力の知覚によって、すでに真実に勘づいていた。王宮にいる「リサ」が身代わりの侍女ニコラであることも、そして本物のリサ王女がアルとともにどこかへ消え去り、生き延びているであろうことも。
だが、彼はそれを敢えて口にせず、暗黙の了解として胸の奥底に秘め続けた。
偽りの平和を享受する王国と、姿を消した真の王女。
蠢く闇の影を背に受けながら、半冥王族の僧侶と元七魔導士の影は、静かに黄昏の彼方へと消えていくのであった。




