第四部第二十話:宵闇の対峙と、新時代の破暁
第四部第二十話:宵闇の対峙と、新時代の破暁
セルバ王国の王都を一望する、月光に冴え渡る荒涼とした岩山の頂。
立ち込める暗紫色の邪王力の残光と、眼下で混迷を極める人間たちの浅ましい欲望、恐怖、そして愛欲の濁った気が、夜風に乗って漂っていた。
そこに立つ魔王母メルフェレーンは、目を細めてその残り香を深く吸い込み、うっとりと唇を舐めた。
特に、リサ王女に成り代わった侍女ニコラが、理想の男性であるゲイル王子への情念と偽りの幸福に溺れていく滑稽な姿は、メルフェレーンにとって何よりの至上のご馳走であった。
「――相変わらず、悪趣味が過ぎるな。メルフェレーン」
静寂を割って、背後の闇から音もなく影が揺らめいた。
月光の下に姿を現したのは、黒い外套を纏い、凄絶な気品と冷徹な死気を漂わせた吸血鬼ハンニバルであった。
「……おや。しばらく見ないうちに、一段と男前が上がったねぇ」
メルフェレーンはゆっくりと振り返り、妖艶な瞳でハンニバルの佇まいを頭から爪先まで舐めるように眺めた。
「どうかしら? 私と久しぶりに交尾でもしよう……? 冥王族の血を引き、吸血鬼と化したあなたと、魔王族である私の混血ならば……さぞかし上等で恐ろしい子が生まれるでしょう」
真っ赤な舌先で唇を潤し、蠱惑的に囁くメルフェレーン。
しかし、ハンニバルは表情ひとつ変えず、冷ややかに肩をすくめた。
「フン……やめておこう。我はもう、貴様のような存在と関わるのは懲り懲りなのだ」
「おや、つれないねぇ。もはや私を憎んでさえくれないのかい?」
「そうとも。一度冥王界の底へと堕ちた我には……もはや、この地上で起きる人間の愛憎も歴史も、すべてどうでもよくなったのだ」
「……ふん。私とあなたとの間に生まれた我が子をその手で殺しておいて、よくも言えたものだねぇ」
メルフェレーンの言葉に、ハンニバルの鋭い瞳が一瞬だけ深く落ち込んだ。
「……そうだ。すべて……何もかもが過ちだった。そのことだけは、貴様に詫びねばならんと思っていた」
「ハッ、私は平気さね。子など星の数ほど産んできたのだ、いちいち一人ひとりを気にかけちゃいられないね」
「……フン、貴様ならそう言うだろうとも。一時は貴様をその手で打ち滅ぼそうとも考えたが……我もすでに人ではなくなった。ただ魔王族であるという理由だけで、貴様を殺す理由もなくなったのだ」
「そうかえ。では、また会いましょう……。その時は、とびきり濃厚な交尾を嗜むとしましょう」
妖しい高笑いを残し、メルフェレーンの姿は夜の深い霧の中へと溶けるように消え去った。
「それもまた一興か.......」
一人取り残されたハンニバルは、月を見上げ、今ここで彼女を討ち果たすべきだったかとしばし思案した。
だが、胸に湧き上がる後味の悪さを振り払うように一回首を振ると、彼もまた静かに夜の闇へと姿を消していった。
それから、五年の月日が流れた。
地王暦二十六年。
過酷な邪王力の惨禍と混乱を乗り越えたセルバ王国の王城では、復興と新たな治世のもと、日夜数多くの謁見が執り行われていた。
ある日、重厚な謁見の間の扉が開き、一人の男が踏み入ってきた。
男の名はアレスレイン。豊かに蓄えられた堂々たる髭と、鋭い眼光。
冒険者として世界を駆け巡っていた男の姿であった。
彼が王宮へ持ち込んだのは、これまでにない全く新しい事業の認可要求であった。
怪物退治や街の事件解決の依頼を一手に引き受け、熟練の傭兵や冒険者たちを適切に手配・仲介する組織――世界初となる『ギルド』の設立である。
さらにその組織は、資力を預かり融通する「銀行」の役割も果たすという画期的なものであった。
その名は――「傭兵天国」。
「セルバ国王陛下、並びにゲイル王子殿下。我がギルドの設立にあたり、真心の品々を献上いたします」
威厳ある立ち振る舞いで、アレスレインは各国の珍品や豪華な品々を王家へと献上した。
その見事な手腕と実益の高さにセルバ王家は感嘆し、傭兵天国は正式に王家御用達のギルドとして認可されたのだった。
謁見の儀が滞りなく終わりかけたその時、アレスレインは傍らに座していた「リサ王女」の前へと恭しく歩み寄った。
「……リサ王女殿下。こちらは、私の妻でありますエリザベートからの私的な贈り物にございます。どうぞお納めください」
アレスレインは懐から、細やかな装飾が施された小さな漆黒の木箱を取り出し、差し出した。
「エリザベート様から……? 感謝いたします」
リサ王女――すなわち、身代わりのまま王女として生きてきたニコラは、不思議そうに首をかしげながら小箱の蓋を開けた。
箱の奥、シルクの布の上に静かに鎮座していたもの。
それ目にした瞬間、ニコラは息を呑み、美しい碧眼を丸く見開いた。
そこに収められていたのは、かつて自分が解き放ち、運命を狂わせるきっかけとなったルガーラ王家の正統なる証――『王家の指輪』であった。
真実を知る者からの、無言の救済と訣別。
ニコラは震える指先で箱を抱きしめ、目の前に立つ髭面の男の瞳をしっかりと見つめ返した。
「……深く感謝申し上げます。生涯の宝といたしますわ。……奥方様に、そうお伝えくださいませ……アル殿」
「アル殿」という言葉に、アレスレインはニヤリと不敵な笑みを浮かべると、誰にも気づかれぬよう片目を軽く瞑ってみせた。
それ以上、ふたりが言葉を交わすことはなかった。
アルは恭しく一礼すると、一度も振り返ることなく謁見の間の重厚な扉の向こうへと去っていった。
こうして、ひとつの偽りと真実が静かに結実した。
侍女であったニコラは、その後もセルバ王国にて「リサ王女」として愛され続け、ゲイル王子の傍らで、生涯その手に掴んだ幸福を慈しみながら穏やかに暮らしたのだった。
第四部・完




