第四部第十一話:虚妄の幻影と、漆黒の転生
第四部第十一話:虚妄の幻影と、漆黒の転生
立ち込める濃密な香油の匂いと、妖しい松明の火影がゆらゆらと揺れる神殿の奥底。
拘束された石柱の上で、意識を薬香に奪われたニコラは、底なしのまどろみの海を揺蕩っていた。
熱く痺れるような浮遊感の中、突如として耳元で、甘くねっとりとした妖艶な女の声が鼓膜を撫でた。
「……憎い……。憎いでしょう、可憐な娘……? お前を哀れな身わりに差し出し、ひとり安全な場所へと逃げ延びた……あの高慢な王女が憎くてたまらないでしょう……?」
「ん……ッ……誰……誰なの……?」
うわ言のように唇を震わせるニコラ。
その問いに応えるように、空間の闇がゆらりと揺らぎ、ぬめり気を帯びた漆黒の霧の中から、この上なく官能的で恐ろしい輪郭を持った女の幻影が姿を現した。
露わになった豊満な胸元、妖しく光る紫の瞳、そして溢れ出る圧倒的な邪王力。
「私はメルフェレーン……。魔王母メルフェレーンよ」
「魔……王母……ッ!?」
恐怖で身体を震わせようとするニコラに対し、メルフェレーンは蛇のように滑らかな手つきで、ニコラの無防備なうなじから鎖骨、そして露わな胸元へと濡れた指先を滑らせていった。
「そう……お前の心に芽生えた、熟れ切った『憎悪』の蜜を味わいに来たのよ……。もっとあの王女を憎みなさい。お前を鎖で縛りつけ、見捨てていったあの女を恨み……呪うのよ……」
「ち……違う……っ。私は……私は王女様を恨んでなんて……ッ!」
「くすくす……強がりはおよしなさい。嘘はいけないわ。……お前をこんな惨めで、哀れな目にあわせているのは……一体、誰かしら?」
メルフェレーンは吐息をニコラの耳たぶに吹きかけながら、その豊満な体躯をニコラの肌へとすり寄せた。
滑らかな唇が、ニコラの白く透き通る首筋を、撫でるようにゆっくりと舐め上げていく。
「んんッ……!? や……やめ……あぁっ……!」
ぞくぞくと背筋を駆け上がる、抗いがたい官能的な熱量。
魔王母の放つ妖しい媚薬の気配と、皮膚を舐めとる湿った感触に、ニコラは絶望的な苦脳に苛まれながらも、甘い喘ぎ声を漏らして体をよじらせた。
「ほうら……ご覧なさいな。これが……お前が命を賭して守ろうとした、お淑やかな王女の真の姿よ……」
メルフェレーンの指先がニコラの額に触れた瞬間、視界の闇が弾け飛び、凄惨で淫靡な幻影が目前に広がった。
そこに映し出されていたのは――黒髪の義賊アルに強く抱きしめられ、肌を赤く染めながら淫らに胸を打ち震わせて悶える、リサ王女の姿であった。
「……ッ!? うそ……! 違う……そんなの……嘘よッ!」
ニコラは首を激しく振り、溢れ出る涙とともに叫んだ。
だが、その視線は釘付けになったまま離れない。
自分が冷たい石床で異形の恐怖に怯えている間、あの大切な姫様は、自分を置き去りにして男の腕の中で快楽に身を委ねている――そんな邪悪な幻像が、媚薬で麻痺したニコラの精神を苛烈に苛んでいく。
「ふふふ……感じるわ……。お前の心の底から溢れ出す……狂おしいほどの『憎悪』と『嫌悪』……そして、果てしない羨望を……」
「違う……っ! 憎んでなんて……ない! 私は……ただ……っ!」
「可憐で、美味しい娘……。お礼に……お前がずっと心の奥底に隠してきた、本当の願いを叶えてあげましょう……」
とろけるようなメルフェレーンの声が、ニコラの魂の深淵へと深く突き刺さる。
「いや……っ! 魔王族なんかの取引になんて……応じない……ッ!」
「ふふふ……遅いわ。望みは……すでに叶えられたのだから」
「え……? 嘘……私、何も……何も望んでなんて……ッ!」
ニコラの叫びを嘲笑うかのように、メルフェレーンの妖艶な高笑いが神殿全体に響き渡った。
「――アハハハハハハーッ! 強欲な娘よ! その欲望のままに……望むがままに生きるが良いッ!」
――スウゥゥゥッ……!
次の瞬間、メルフェレーンの漆黒の肉体が、まるで妖しい蜜となって溶け出すように、ニコラの毛穴という毛穴からその体内へと直接染み込んでいった。
「あぁぁぁぁぁッ……!!!」
体内を駆け巡る猛烈な熱量と、脳裏を焼き尽くす圧倒的な絶頂感。
生殺与奪の快楽の果てに、ニコラは白目を剥き、声もない悲鳴を上げながら完全に意識を失った。
静まり返った祭壇。
石柱に縛られたまま動かなくなったニコラの肉体に、不気味で不可思議な変貌が訪れ始めていた。
ジジジ……と音を立てるように、彼女の艶やかな漆黒の髪が、根元から急速に美しい「銀色」へと染まっていく。
それだけではない。華奢だった肩幅、引き締まった腰つき、そして柔らかな胸の膨らみまでもが蠢き、背丈や肉体の輪郭そのものが書き換えられていく。
さらには、幼さの残っていた顔立ちの骨格すらも滑らかに変貌を遂げていく。
やがて光が収まった時――そこに横たわっていたのは、もはや侍女のニコラではなかった。
ルガーラ王国の正統なる血脈、可憐にして気高き「リサ王女」そのものの完璧な姿であった。
身代わりの恐怖の裏側に隠されていた、彼女の魂の深層にあった真の渇望。
窮屈な侍女の身分を捨て、愛され、尊ばれる存在になりたい――「リサ王女になりたい」という深く強烈な嫉妬と欲望。
魔王母の邪気を受け入れたニコラは、己の姿も、存在そのものも「偽りの王女」へと変貌させ、静かに狂気の眠りについたのであった。




