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第四部第十話:深淵の香油と、月下の急襲

第四部第十話:深淵の香油と、月下の急襲


――古代の巨石が鈍い黒光りを放つ、地底深くの暗黒神殿。

松明の赤黒い炎が壁面を揺らし、立ち込める湿気とカビの匂いが静寂を圧迫していた。

「ようこそ、リサ王女殿下。私はテルセイの七魔導士が一人、シャギュアと申します。此度の尊き邪なる儀式、謹んで司らせていただきます」

恭しく腰を折り、白髪混じりの髭を撫でながら挨拶をしたのは、初老の魔導士シャギュアであった。

その深い皺の刻まれた顔容には一見、紳士的な笑みが浮かんでいるものの、落ち窪んだ双眸には狂信的な冷血さがギラギラと宿っている。

彼の前には、ゴブリンどもによって引きずり込まれ、冷たい石床の上に乱暴に放り出されたニコラが倒れていた。

手首と足を太い麻縄で硬く縛られたニコラ。

しかし彼女は、豪奢な王女の神官衣を纏っているばかりか、その胸元にはルガーラ王家に代々伝わる「青き精霊の首飾り」を掲げ、指には王家の紋章が刻まれた指輪を光らせていた。

(……これでいい。これで姫様が遠くへお逃げになる時間が稼げるなら……!)

ニコラは恐怖で今にも破裂しそうな心臓を必死に押し殺し、己の正体を明かすことは一切しなかった。

「無礼者ッ! 私を誰だと思っているのです! 早急にこの不浄な縄を解きなさいッ!」

ニコラは胸を張り、幼い頃からリサ王女の側で見てきた完璧な気品と高圧的な態度を必死に演じてみせた。

「……おお、失礼いたしました。もちろんでございますとも。これから偉大なる魔王のお命を召し上がり、その伴侶となられるお方……。まずは綺麗に湯浴みの支度をさせましょう」

シャギュアが細い指先をかざして静かに呟くと、ニコラの全身を縛り上げていた麻縄が、まるで生き物のようにひとりでにほどけ落ちた。

「さあ、お行きなさい」

すかさず周囲を囲む十数匹のゴブリンたちが、錆びついた槍の穂先を突きつけ、ニコラを地下神殿のさらに奥へと促した。

神殿の最奥には、地熱によって温められた白濁の温泉がこんこんと湧き出ていた。

シャギュアの命を受けた数匹の雌のゴブリンたちが、爪を立てぬよう奇妙な手つきでニコラの身ぐるみを剥がし、その肌を丁寧に洗い上げていく。

(……思えば、私もこうして毎日、姫様の美しいお身体を優しく拭って差し上げていたっけ……)

温かい湯に浸かり、湯気に包まれながら、ニコラはふと遠い目をした。

自分はいま、王女として扱われ、王女としての待遇を受けている。

しかし、本物のリサは過酷な逃亡の身であり、自分は間もなく魔王の生贄として肉体を捧げる運命にあるのだ。

そのあまりに皮肉な対比に、ニコラは悲しげな苦笑を漏らした。

(……姫様。どうかご無事で……。セルバの地へ辿り着けましたでしょうか)

ふと、あの大胆不敵で生意気な黒髪の青年――アルの顔が脳裏をよぎる。

(……アルがいれば、きっと大丈夫。姫様を絶対に守り抜いてくれる……そんな気がするわ)

湯から上がると、雌のゴブリンたちは妖しい黒塗りの小瓶を取り出し、ニコラの白い肌全体にドロリとした濃密な香水を塗りたくった。

その瞬間、甘く、頭が痺れるような耽美な香りが充満する。

「う……ぁ……」

香油が皮膚から浸透するにつれ、ニコラの視界は急激に歪み、手足から急速に力が抜けていった。意識が濃厚な麻薬の海へと沈んでいく。

抗うことすらできぬまま、ニコラはうつろな状態へと陥っていった。


意識が半ば途切れたニコラは、全裸のまま漆黒の絹布を纏わされ、祭壇の中央に位置する不吉な石柱へと固く括り付けられていた。

「オオオオオオン……! グラァァァッ!」

祭壇を取り囲む数百のゴブリンたちが平伏し、太鼓の重低音に合わせて怪異な踊りを狂ったように踊り狂う。

怪異な熱気が神殿全体を包み込んでいく。

「時はいま満ちたり! 我が叫びに応え、深淵なる闇より目覚め給え……狂乱の魔王よッ!!」

祭壇の頂点に立つシャギュアは両腕を天へと掲げ、恍惚とした表情で狂信の呪文を叫び立てた。

彼の体から禍々しい「魔王力」が溢れ出し、地底の空間が激しく歪み始める。

――その時であった。

――――ドドォォォォンッ!!!

堅牢な地下神殿であるはずの天井が、突如として激しい落雷によって爆砕された!

崩落する巨大な石柱と粉塵の渦。

激しい光の炸裂に、狂乱していたゴブリンたちが悲鳴を上げて散らばる。

煙が立ち込める崩れた柱の頂点に、いつのまにか一人の男が降臨していた。

漆黒のマントを夜風にたなびかせ、血のように赤い瞳をギラりと光らせた男――吸血鬼ハンニバルである。

その蒼白な顔容には、圧倒的な強者の余裕と冷徹な笑みが刻まれていた。

「……ふむ、芳しい血の匂いに惹かれてやって来てみれば、なるほど極上の生贄ではないか。その美しい処女の血は……我がいただく!」

ハンニバルはわざとらしく低く響く声で言い放ち、鋭い犬歯を覗かせた。

「おのれッ! 冥王界の亡者めッ! 我らが神聖なる生贄を横取りしに参ったかッ!?」

シャギュアは激怒に顔を歪め、ハンニバルが全身から放つ凄絶な「冥王力」の気圧に対し、激しい敵意を剥き出しにして叫んだ。

「ものどもッ! あの不吉な血吸いコウモリを叩き落とせッ! 追い払うのじゃッ!」

シャギュアの怒号を受け、数十匹のゴブリンが一斉に武器を構えてハンニバルへ飛びかかった。

「クックック……愚か者どもが」

ハンニバルが黒マントを豪快に一翻すると、彼の体から解き放たれた無数の紫電が放射状に降り注ぎ、飛びかかってきたゴブリンたちを一瞬にして黒こげの塊へと変えて吹き飛ばした。

凄まじい雷撃の嵐が、ゴブリンの大軍を祭壇から強制的に引き離していく。


ドォン! ガラガラガラッ!

ハンニバルが巻き起こした大混乱と派手な破壊工作。

神殿の影、崩れた巨石の死角で短剣を固く握りしめていたアルは、その光景を冷静な目で見つめていた。

「ふっ……上々だ。あのジジイ、期待以上に派手に暴れてくれてるぜ」

ハンニバルが敵の視線と全戦力を完全に引きつけ、祭壇周辺の手薄になったその一瞬の隙――。

アルの瞳が野生の肉食獣のごとく鋭く光った。

拘束されたニコラを救出し、暗躍する「AAA」の邪気そのものを撃ち払うべく、黒髪の義賊は影となって静かに地を滑り出したのである。

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