第5話 花が枯れる日
第一章 1時間だけ、おばあちゃんと暮らすことになりました。
何度も、うめさんの家を訪ねた。
そのたびに、うめさんは庭の花を摘んで、小さな花束を作ってくれた。
「持っていきなさい」
そう言って渡してくれる花が、みほは嬉しかった。
家に帰ると、花瓶に飾った。
仕事から疲れて帰ってきても、その花を見ると、少しだけ心が軽くなった。
花が枯れる頃には、ちょうど次の訪問の日がやってくる。
また、うめさんに会える。
そう思っていた。
けれど、その日は違った。
花瓶の中の花は、少し首を下げていた。
水は、もう残っていなかった。
みほは、その花をしばらく見つめた。
いつもなら、
「綺麗ですね」
そう言って笑うはずだった。
でも、声が出なかった。
胸の奥が苦しくなった。
「……私みたい」
ふと、そう思った。
毎日、笑顔を作っていた。
大丈夫なふりをしていた。
「仕事だから」
そう自分に言い聞かせていた。
けれど、自分でも気づかないうちに、少しずつ心の水がなくなっていた。
そして、とうとう体が動かなくなった。
朝になっても、起き上がれなかった。
体は鉛のように重く、息をすることさえ苦しかった。
涙だけが、止まらなかった。
仕事では、それまでの訪問営業に加えて、新規顧客も獲得しなければならなくなっていた。
給料が上がった代わりに、会社から求められることも増えた。
失敗を責められる日々。
無理な目標を追い続ける日々。
それでも、みほは「これくらい普通なんだから」と、自分に言い聞かせていた。
何ヶ月も、耐え続けてきた。
もう、限界だった。
朝、目覚ましが鳴っても、すぐには起き上がれなくなった。
以前なら当たり前にできていたことが、少しずつできなくなっていった。
歯を磨くこと。
顔を洗うこと。
服を選ぶこと。
そんな小さなことさえ、遠い場所にあるように感じた。
いつもなら、帰宅するとテレビをつけていた。
何となくニュースを流して、何となくドラマを見て笑って、何となく一日を終える。
けれど、ある日から、それができなくなった。
テレビをつけると、人の声が一気に部屋へ入ってくる。
誰かの笑い声。
明るい音楽。
早口で話すアナウンサー。
それだけなのに、胸がざわざわした。
みほは、そっとリモコンを置いた。
それから、テレビはつけなくなった。
「行かなきゃ」
頭では分かっている。
でも、体が動かなかった。
会社へ向かう電車の時間を考えるだけで、胸が苦しくなる。
それでも、みほは自分に言い聞かせた。
「みんな頑張っているんだから」
「これくらい、普通なんだから」
そう言い聞かせながら、毎日を過ごした。
けれど、心は少しずつ、声を出せなくなっていた。
みほは涙を流しながら、内科を受診した。
診断は、適応障害だった。
しばらく仕事を休むことになった。
久しぶりに外へ出たある日、街中で友人とすれ違った。
「あれ? みほじゃん!」
「最近、全然会ってなかったよね?」
「心配してたんだよ。SNSも更新してないし、飲みにも来ないし」
「前から、何かあったら言ってって言ってたじゃん」
その言葉に、みほは少し安心した。
やっと、誰かに話せる。
そう思った。
みほは、今の状況を話した。
友人は、しばらく黙って聞いてくれた。
「そっか……大変だったね」
その言葉に、みほは少しだけ期待した。
けれど、続いた言葉は違った。
「私には何もできないから、とりあえず区役所とか行ってみたら?」
「仕事も辞めたほうがいいんじゃない?」
「そういえばさ、みほ、犬飼ってたよね?」
「私も犬飼うことにしたの! いろいろ教えてよ」
「ドッグカフェって行ったことある? 私も行ってみたいんだよね」
「お酒飲めるドッグカフェとかあるのかな?」
「みほもさ、お酒飲んでパーッとしたら、元気出るよ!」
その瞬間。
みほの心は、静かに暗くなった。
違う。
欲しかったのは、アドバイスじゃなかった。
ただ、
「大丈夫だよ」
そう言って、隣にいてほしかった。
みほは、涙がこぼれそうになるのをこらえながら、友人の話を聞き続けた。
期待していた分だけ、寂しかった。
自分の心を守る方法が、みほにはもう分からなくなっていた。
その後、みほは心療内科を受診した。
病院までの道は、いつもよりずっと長く感じた。
足が重い。
心も沈んでいた。
診察室で、医師は静かに尋ねた。
「仕事は、まだ続けたいですか?」
みほは少し黙った。
「……わかりません」
「でも、生活があります」
そう言うと、医師はゆっくりと首を横に振った。
「今は、考えなくて大丈夫です」
「しばらく休んでください」
診断書を受け取り、みほは家へ帰った。
その日、みほは泥のように眠った。
目が覚めても、体は動かなかった。
ふと、花瓶に目を向ける。
花はもう、花びらを落としていた。
茶色くくすみ、静かに枯れていた。
みほは、食事を取ることさえできなくなっていた。
テーブルの上には、家賃の値上がりを知らせる通知書。
みほはそれを手に持ったまま、ただぼんやりと座っていた。
花瓶の中には、もう水がない。
花は、枯れていた。
そして――
みほの心にも、もう水は残っていなかった。




