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曇天、屋上、私の幸せ。

 水曜日、十二時過ぎの高校。私の望む幸せの形が、こんな近くにあるなんて。

「つきちゃん、そのお弁当箱に付いてる入れ物なに?」

「えへへっ、これね、ミカンゼリーなの。お母さんと一緒に作ったんだ」

 温かくて微笑ましい、小鳥のさえずるような会話が耳に入ってくる。美しくって、幸せそうで、私には手の届かないもの。

 三階に位置する三年生のフロアには、購買だったり机と椅子のたくさん置かれた室内広場がある。生徒の半分くらいが昼休みにここを使うから、学年が入り混じって昼食をとることが基本だ。かくいう私も、いつもつるんでいる奴らとお昼を食べに来たのだが、まさかつっきーが居るなんて。当たり前といえばそうだけど、考えもしなかった。

「お? りゅなどうした? なんだよその顔? 間抜け面すぎてウケるんですけど!」

 つるんでいる奴の一人が何かを言っているが、なにも返せない。目の前にある幸せに、私は釘付けになっていた。


 いつも通り鍵のかかっていない家の扉を開くと、男物の靴が玄関に転がっている。それを無視して、リビングへ向かう。

 母と知らない男が堂々とキスをしていた。慣れているとはいえ良い光景ではない。無意識のうちに舌打ちをしたら、母がこちらを睨み返してきた。

「うわ、何見てんの? 早く消えなさいよ」

 おおよそ娘に投げかけるものではない強い言葉に少し怯む。と、全身を舐め回すような視線を感じた。

「美智子ちゃん落ち着きなよ~。別に俺は見られながらでもいいし。それとも、君もこっち来る? 別に俺は年下の子でもいけるよ?」

 男の顔を見て、凍り付く。動けないでいるとしびれを切らしたのか、私の腕を掴んで痛いほど強く引っ張られた。全身の毛が逆立って、とっさに男の腕に噛みつく。力が弱くなった一瞬のうちにそこから跳ね退き家を飛び出した。

 一階のエレベーターホールまで逃げて、追ってきていないことを確認する。ありえない、こんなことがあっていい訳がない。もしも恐怖で固まったままだったら、きっと乱暴されていた。過呼吸になりそうなのを必死に抑える。

 吐きそうで仕方ない。男の顔よりも、あんなことをされてなんとも思っていないような母の顔のほうが鮮明だ。あのまま抵抗できず犯されたとして、母は私を助けてくれるだろうか? 昼に見た私の望む幸せとは、あまりにもかけ離れすぎている。


 家に戻れるわけなくて、どうしたらいいか分からない。気付くと私は、屋上への階段を登っていた。

 星どころか月明かりすら見えないような曇天の下、何故屋上にきてしまったのだろうか。もう天体観測という言い訳はできない、嫌でも本心に触れるしかない。

 そして、それは彼女も同じだった。柵の外で街の明かりを見下ろすつっきーが、こちらを振り返る。微弱な街の明かりが私達を濡らす。つっきーの顔は、驚いているような、諦めているようなものだった。

「なんで、今日も?」

 そう尋ねる私の声は驚くほどに頼りない。そりゃそうだ、だって彼女は幸せなのだから。理解が出来なければ声も震えるに決まっているじゃないか。私よりか幸せなつっきーの声が、丁度降り始めた雨に紛れてぽつぽつと聞こえてくる。

「⋯⋯こうやって高校にも通えて。友達もいて、家族とも仲が良くてさ。なんでこんなことしてるんだろうね」

 吐き捨てるように、苦しそうに。音が紡がれていく。

「恵まれてる。分かってるよ。でもね、辛いの。分かんないけど、もう嫌なの。もう終わらせたいの」

 つっきーが話している間、瞬き一つできなかった。うまく理解が出来ないのは、私が幸せを持たない側の人間だからだろうか。頭の中が真っ白になって、どうすればいいか分からない。そうこうしているうち、タイムオーバーと言わんばかりにつっきーが柵の内側に戻ってきた。

「⋯⋯りゅなちゃんも、きっと同じでしょ。理由は違うかもしれないけど、最初っから私達同じ目的でここに来てた。⋯⋯ごめんね。邪魔、しちゃったね」

 よろよろと階段を降りていくその背中を、私は見つめることしかできなかった。まさか、あんなに苦しんでいるだなんて。幸せを妄信していた浅はかな私を蔑むかのように、雨が強まる。服がびしゃびしゃだと明日の学校が面倒だ。少しばかり残った理性だけを頼りに、私も屋上を後にした。

 

 戻れないと思っていた家の扉を開く。母の喘ぐ声と、身体同士を打ち付ける音がリビングから漏れてきていた。別段動揺するわけでもなく、自分の部屋に入り込んだ。女の声をシャットアウトしたくて、頭から布団をかぶる。

 明日学校に、つっきーは来るだろうか。

 降り始めた強い雨が、部屋の窓を叩く。不安に包まれたまま、私は眠りに落ちた。

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