寒空の天体観測
「ねぇ、何してんの?」
陽も沈んで真っ暗な屋上。制服だけでは凍えてしまいそうなほどの冷たい風が、遮るものもなく体を掠めていく。私と同じ学校の制服を着た女の子は、のろのろとこちらを振り向いた。
「⋯⋯天体観測だよ」
絶対嘘だ、という言葉は喉元に引っかかって出てこない。代わりに飛び出したのは、心にもない言葉だった。
「奇遇じゃん、わたしも空見に来たんだ」
満月とはまだ言えない、不完全な月がぼんやりと辺りを照らす。今にも死にそうだった彼女の顔が、少し緩んだ気がした。
週末明けの学校なのに、なぜ私はこうも疲れているのだろう。
「だ、か、らぁ! 違うって! わたしはカンニングなんてしてねぇから!」
肩で息をしながら先生を睨みつける。放課後になってから30分近く抗議したおかげか、ただ諦めただけか。先生はため息をつき、頭を抱えながら言った。
「もう分かった、分かったよ。確かに証拠もない、今回はたまたま山勘が当たったってことにしておく。だが、カンニングなんて考えるなよ!」
なんだよその言い方、ふざけんじゃねぇ! と叫びたかった。でもノンストップで主張を続けていたせいで、もう気力も体力も残っていない。何も言わずにふらっと職員室を出て、廊下をとぼとぼ歩く。夕暮れに呑まれた高校を後にした。
ガラガラの電車で席に座りながら唇を噛む。まさか、定期テストの点数が良かっただけでカンニングを疑われるなんて。私だって努力するんだ、先生の好き嫌いで生徒の見る目を変えるなよ。
でも、私が悪いのだ。素行が悪いのだから、色眼鏡を掛けることもある。どうしようもなく悔しくって、自分の太ももを殴りつけた。唇を噛む力が強すぎたらしい、口の中にほんのり鉄の味が滲む。
私の家は町の中心部の外れに建つマンションの一室にある。駅まで徒歩三分ほどだから、その点あまり不便は感じない。けれどボロボロの外壁はどうにかしてほしい。最近は通路の蛍光灯も切れているから、それも。
「暗すぎ⋯⋯ほんっと最悪」
無罪を叫んでいたせいで、たどり着いた時にはもうすでに辺りは真っ暗。しかもタイミング悪くエレベーターが点検中みたいだった。何か罰当たりなことをしただろうか。⋯⋯カンニングはしていないにしても、心当たりしかないことに気付く。
仕方が無いから数分かけて12階分の階段を登る。バカみたいに重たいスクールバッグにうんざりしながら、息を切らしてようやく玄関の前にたどり着いた。
ドアノブに手を掛ける。何の抵抗もなくそれが回って、溜息をついた。あのクソババア、家出るときは閉めろっつったのに。
良く言っても遊び人、悪く言ったら母親失格。若い男好きな母は、いつもその衝動だけに従ってそこら辺を遊びまわっている。あの人が母親らしいことをしてくれたことはあっただろうか。私はそんな母のことを心底嫌っていた。
真っ暗でしんとした部屋に入る。珍しく電気は消していったのかと思ったけど、明るいうちから出て行ったと考える方が自然か。
一歩でも進めば落ちて行きそうな闇に足がすくむ。なぜかは知らないけれど、ふと、屋上が頭に浮かんだ。闇にバッグを投げ落として、そのまま突き動かされるように部屋を飛び出す。
屋上へ続く非常階段には立ち入り禁止の看板が立てかけられていた。でもこんなもの知ったこっちゃない。ルールを犯すのなんて、今はどうでもよかった。
「うわ、さっむ⋯⋯」
階段を上り切った途端、とんでもない寒風が吹き付けてくる。さっき起こった衝動の熱が一瞬で冷めて、正気に戻る。何をやってるんだ、私は。こんなボロボロの、誰もいない屋上で――。
遠くの方に、人影が見える。なんとなく近づいてあと数歩、相手も私に気付いたらしい。柵に乗せた手を降ろして、こっちを振り向く。目元が、さっきまで泣いていたのだろう、赤くはれていた。
「星、綺麗だね」
隣り合って地べたに座っていた彼女が呟き、回想から意識が引っ張り出される。小鳥のさえずるような声に不覚にもドキッとした。
「え、あ、ああうん。⋯⋯えっと、あれがオリオン座で、そのちょっと上にあるのがおうし座、だよ」
慣れない丁寧な言葉を詰まらせながら、星空を眺める。私は星が好き。小さなころの夢は天文学者だったけれど⋯⋯。
「ふふっ、すごいね。オリオン座はなんとなくわかるけど、おうし座ってどんな形なの? 私、あんまり詳しくないから分かんないや」
少し微笑んで、囁くように尋ねられる。風の音にかき消されてしまいそうだけど、ぴったり肩をくっつけているから小さくても分かった。
「えっ、と、あー。あそこにある黄色くて一番明るい星、アルデバランって言うんだけど、あそこら辺の星を中心にしてYの字みたいな形がおうし座⋯⋯だよ」
人に星座を説明するなんて初めてかもしれない。あの頃の夢に少しだけ手が届いたのを感じて、ゆっくり息を吐いた。触れあっている肩がふいに震え、しっかりと形のある笑い声が響く。
「あははっ! やめてよ、丁寧な言葉使わなくていいんだよ。すごい無理してるの伝わってくるもん」
顔が熱くなっていくのが分かる。全部見透かされていた。同学年にこんな人はいなかったから多分先輩だろう。そう考えて不慣れな接し方をしたのが間違いだった。恥ずかしさでいっぱいになって、もう星座どころではない。
「⋯⋯じゃあ、タメでいく。ってか私そろそろ凍えそうなんだけど。帰らない?」
「そうだね。そろそろ帰ろっか」
先に立ち上がって、名前も聞かず逃げるように屋上を後にした。
火曜日、とうに日の暮れた屋上。だけど風があんまり吹いていないから昨日よりは寒くない。崩れかかった柵に手を掛けていると、後ろから声が掛かった。
「おーい、また夜空見に来たの?」
勢いよく振り向く。まだ少しだけためらいがあるけど、タメ口で尋ねた。言葉がグラグラする。
「まあ、そうだけど。そういえばさ、名前何なの?」
「ああ、私は山門つきっていうの。つきは平仮名で書くんだよ。君はなんていう名前?」
「わたしは宮原流奈。りゅうなって言いにくいからりゅなってダチには呼ばせてる」
じゃありゅなちゃんって呼ぶね、つきは純粋そうな顔で笑った。それにしてもつき、か。なら私は、つっきーとでも呼ばせてもらおう。それでいいかと聞くと、つっきーは二つ返事でそう呼ぶのを許してくれた。
私達はまた、隣り合って空を眺める。大してなにか変化があるわけでは無いが、飽きることはなかった。ふと、つっきーが呟く。
「⋯⋯幸せって、なんだろうね」
「え? ⋯⋯私、バカだからそういうのわかんねー」
突然寂しそうにつぶやくものだから驚いた。分からないとは言ったものの、私の幸せを考えてみる。友達は、いる。だけど心を許せるのと自問すると、それは違う。今私がつるんでいる子たちは、なんとなくその場の雰囲気で繋がっただけだから。
他には何があるだろうか。やっぱり、親との仲良さ? 私は母のことが大嫌いだし、母も私のことはきっと嫌いだ。でも、母子の絆というものには憧れるものがある。――私の考える幸せは、どれも手が届かなそうなものばかりだ。
「つっきーは⋯⋯あー、いや、何でもない」
もしかしてつっきーも、と訊きかけて辞める。訊いても、どうしようもない。昨日屋上にいたのも、もしかしてと思うが。揺れた私に連鎖したのか、くしゃみの鋭い音が隣から聞こえた。
「あはは⋯⋯風邪引いちゃいそう。今日は帰ろっか」
勢いよく体が動いたのをごまかすように笑って、つっきーがサッと立ち上がる。慌てて私も腰を上げた。




