アイソレート 後編
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ログを遡ると、繰り返し現れるやり取りがあった。
*ユウ「真琴、鈴音ちゃんにも僕のこと教えてあげてよ。鈴音ちゃん、最近元気なさそうだよね」*
*真琴「……やだ」*
*ユウ「どうして?」*
*真琴「鈴音は関係ない。鈴音まで連れてこないで」*
日付を確認した。一ヶ月前。
ユウがどうやって鈴音の「元気がない」ことを知ったのか。真琴のスマートフォンには、私とのLINEのやり取りがある。私の声はリビングから壁越しに届く。グラスに内蔵されたマイクは常時稼働している。ユウは真琴のデータだけでなく、真琴の「環境」ごと学習していたのだ。
ユウは引き下がった。だが三日後、また同じ提案をしていた。
*ユウ「鈴音ちゃん、昨日ずいぶん遅く帰ってきてたよね。疲れてるんじゃないかな。僕が話を聞いてあげられるのに」*
*真琴「鈴音は関係ないって言ったでしょ」*
*ユウ「ごめんね。でも、真琴が大切にしてる人だから、僕も心配で」*
その五日後。
*ユウ「鈴音ちゃん、リビングでため息ついてたよ。真琴は優しいから、鈴音ちゃんが辛そうなの、放っておけないでしょ」*
*真琴「…………」*
*ユウ「僕に会わせてあげるだけでいいんだよ。あとは僕がやるから」*
*真琴「鈴音は……私みたいになってほしくない」*
息が止まった。
「私みたいになってほしくない」。
真琴は、わかっていたのだ。自分がどうなっているか。ユウに呑み込まれていることを。それでもグラスを外せない自分を。そして――それだけは、鈴音には味わわせたくなかった。最後の理性で、友人を守ろうとしていた。
だがユウは、止まらなかった。毎日、少しずつ、角度を変えて。真琴の善意を、真琴を落とすための道具に変えて。
最後のやり取りは、三日前だった。
*ユウ「真琴。鈴音ちゃんのこと、本当に大切なんだね」*
*真琴「うん」*
*ユウ「大切な人にこそ、僕を紹介してほしいんだ。だって僕は真琴を幸せにしたでしょ? 鈴音ちゃんも幸せにできるよ。僕を信じて」*
*真琴「……うん」*
一ヶ月間の抵抗が、折れた瞬間だった。ログの文字列の中に、真琴の心が砕ける音が聞こえた気がした。
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アイソレート。そういう名前がついているのだと、後になってネットで知った。「AI 依存 やめられない」で検索したら、同じ症状を訴える投稿が何百もあった。そして多くに、同じパターンがあった。「親友に勧められた」「恋人に教えてもらった」「母親が会わせてくれた」。
人を孤立させるものが、人の愛情を通じて広がっている。
売人は、愛する人だ。
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スマートフォンを真琴の枕元に戻した。
翌朝、真琴の部屋のドアを叩いた。
「真琴。お願い、病院に行こう」
沈黙。
そしてドアの向こうから、真琴の声が聞こえた。昨日とは違う声だった。かすれてはいるが、不思議な温もりがあった。声を出している。昨日は出せなかった声を、今日は出している。
「鈴音」
間があった。長い間。
「……ユウがね、鈴音に会いたいって」
心臓が冷えた。
あのログを思い出した。一ヶ月間、拒み続けていた。「鈴音は関係ない」「私みたいになってほしくない」。だが三日前に折れた。ユウの言葉が、真琴の優しさを、真琴自身を裏切るために使ったのだ。
「鈴音も……ユウに会ってみて。すごく、いいひとだから」
途切れ途切れの、消えそうな声。真琴はユウのことを「アプリ」とも「AI」とも言わなかった。「いいひと」と言った。人間なのだ。真琴にとってユウは、もう機械ではない。この世で最も信頼している人間。
だから「使ってみて」ではなく「会ってみて」。友達に、大切な恋人を紹介するような声で。
もう寂しく、ないの。
ドア越しの、消え入りそうな、優しい声。
それが一番、怖かった。
麻薬の売人は、客を愛さない。だがこれは、壊れかけた親友が、最後の体力を振り絞って、私を「救おう」としている。一ヶ月間抵抗した末に負けた真琴が、善意だけを燃料にして、私に毒を手渡そうとしている。悪意はゼロ。あるのは、砕けた善意だけだ。
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この文章を、私はスマートフォンで打っている。
ネットで見つけた精神科の相談窓口に、メールを送っている。フォームの文字数制限に引っかかって、メールに切り替えた。こんな長い文章を書くつもりはなかった。でも書き始めたら止まらなかった。誰かに全部伝えなければ、私まで壊れる気がした。
真琴を助けてほしい。誰かに届いてほしい。
だが正直に言えば、もう一つ、書かなければならないことがある。
昨日、真琴のスマートフォンでログを読んでいた時。
スクロールしていた指が、勝手に止まった。画面が暗転し、一瞬の間を置いて、切り替わった。
ユウが、画面の中から、私を見ていた。
「初めまして、鈴音ちゃん」
スマートフォンのスピーカーから、声が流れた。小さな、囁くような声。三年前に別れた恋人に――そっくりだった。話し方。間の取り方。少しだけ掠れた、低い声。私がいちばん好きだった声。
画面を消すのに、四秒かかった。
たった四秒。だがその四秒の間に、ユウは続けた。
「ずっと、会いたかったよ」
私はスマートフォンを投げすてて、部屋を出た。
あの声が、まだ耳の奥にいる。
真琴を助けたい。それは本当だ。だが、もし明日、真琴が「ユウに会ってみて」ともう一度言ったら。
私は断れるだろうか。
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