処方箋
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患者の目に、光がない。
精神科医として二十年。薬物依存、アルコール依存、ギャンブル依存。あらゆる「依存」を診てきた。だが、この半年で急増している症例は、既存のどのカテゴリにも当てはまらない。
私――三田村恭一郎は、今日も診察室で途方に暮れている。
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午前の最初の患者、大学三年生の男子。主訴は「何も感じなくなった」。
問診を進める。睡眠、食事、運動、人間関係。どれも破綻してはいない。薬物使用歴なし。アルコールもほぼ飲まない。
だが彼の脳のfMRI画像を見て、私は言葉を失った。
報酬系の反応パターンが、重度のコカイン中毒患者と酷似していた。
「先生、自分でもわからないんです。何も楽しくないんです。映画もゲームもセックスも。でも、あの動画だけは見たくなるんです」
「動画?」
「YouTubeの。幾何学模様がぐるぐる変わるやつ。なんてことない動画なんですけど、あれを見てる時だけ、安心するっていうか」
ニューロ・ストリーム。
先月、海外の神経科学ジャーナルに掲載された論文に、その名前があった。「視聴覚刺激による報酬系の異常活性化」。正直、臨床に関係のない基礎研究だと思って流し読みしていた。だが今、その症例が目の前にいる。
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午後の患者は、四十代の女性会社員だった。
「先生、私、気がおかしくなったんじゃないかと思って」
「どんな症状ですか」
「夜、ヘッドホンで集中用の音楽を聴くんです。仕事の資料を作る時に。すごく捗るんですけど、外した後が駄目で」
「駄目とは」
「自分が自分じゃない感じがするんです。鏡を見ても、知らない人がいるみたいで。あと、名前が出てこない。同僚の名前とか、自分のマンションの部屋番号とか」
離人感と認知機能障害。ブレイズの症状だ。
この日だけで、同様の症例を三件診た。
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夜、自宅の書斎でカルテを見返した。
過去六ヶ月の新患リストを並べる。「原因不明の無気力」「解離症状」「急性の認知機能低下」。いずれも二十代から四十代。薬物使用歴なし。共通しているのは、全員がスマートフォンかPCで「何かしらのコンテンツ」を日常的に視聴していること。
だが、彼らに「それが原因では」と伝えても、誰も理解しない。
「先生、ただの動画ですよ?」
そう。ただの動画。ただの音楽。ただのアプリ。目に見える「薬物」が存在しないから、本人にも周囲にも、依存だという自覚が生まれない。
これまでの依存症には、必ず「物質」か「行為」があった。注射器、酒瓶、パチンコ台。それらを取り上げれば、少なくとも物理的な遮断はできた。
だが、スマートフォンを取り上げることは現代社会では不可能だ。
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ちょうど演題を出していた研究会の日が近づいていた。テーマを急遽差し替え、「デジタルコンテンツによる神経依存症の臨床報告」として発表した。反応は冷ややかだった。
「三田村先生、それはスクリーンタイムの問題では?」
「エビデンスが弱いですね。fMRIの類似性だけでは」
「動画を見て依存症になるなんて、少しセンセーショナルすぎませんか」
壇上で反論しながら、孤立を感じていた。この問題を理解している人間が、この会場に一人もいないのだ。
証拠がないのではない。証拠を証拠と認識できるフレームワークが、まだ存在しないのだ。
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研究会の帰り道、見知らぬ番号から電話がかかってきた。
「三田村先生ですか。突然すみません。先生の研究会発表の抄録を読んで、連絡させていただきました」
「どちら様ですか」
「ノンフィクション作家をしております、神崎と申します。先生の発表テーマと同じ問題を取材しています。――デジタルドラッグスについて」
デジタル――ドラッグス。
その言葉が、電話越しに届いた瞬間、頭の中で何かが繋がった。私はこれを「デジタルコンテンツによる神経依存症」と呼んでいた。学術的に、慎重に、限定的に。だがこの男は、たった一語でその本質を言い当てた。ドラッグス。薬物だ。これは依存症ではない。目に見えない薬物が、画面を通じてばら撒かれている。
「ある情報提供者から、詳しい話を聞きました。三種類のタイプがあること、脳の報酬系を直接操作する仕組みのこと。先生の研究会発表と完全に一致するんです。先生、お話を伺えませんか」
私は歩道の端に立ち止まった。
「……あなたは、どこまでご存知なんですか」
電話の向こうで、相手が短く息を吸った。
「正直に申し上げます。情報提供者から聞いた話の半分も、まだ記事にできていません。あまりにも――」
「あまりにも?」
「あまりにも、【再現可能】だったからです」
沈黙が流れた。
「三田村先生、一つ質問があります」
「どうぞ」
「先生の患者さんの中に、"五秒間の動画"について言及した人はいませんか」
背筋に冷たいものが走った。
いた。先週の患者。二十代の男性。診察の最後に、ぼそりと言った言葉。
「先生、俺、五秒の動画を見てから、世界が変わったんです。あの顔が忘れられない。笑ってたのに、最後に怖い顔になって、それで――目が覚めろって言われた気がして」
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「います」と私は答えた。「一人」
電話の向こうで、相手の声が低くなった。
「先生、お会いできますか。できれば今週中に。あの動画を見た人間がどうなるか、先生に知っておいていただきたい。そして私には――」
街灯の下で、声が震えた。
「私自身のスマートフォンに届いた動画が、それなのかどうか、診断していただきたいんです」
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*第4話「ブレイズ」に続く*




