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アイソレート 前編

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 真琴が最後に外出したのは、十七日前だ。


 私はドアの前に立ち、もう一度ノックした。返事はない。だが室内から微かに声が漏れている。囁くような、甘い声。独り言にしては抑揚がありすぎる。笑っているのか、泣いているのか、壁越しでは判別できない。ただ、途切れない。夜中の三時でも、明け方の五時でも、壁の向こうからあの声がする。


 ルームシェアを始めて一年になる。渡辺真琴、二十六歳。IT企業の営業職。入社四年目で、同期の中で最初にチームリーダーを任された子だ。金曜の夜は必ず誰かを誘って飲みに行き、日曜の朝はランニングから帰ってきてリビングでストレッチをしていた。よく私の好物のカレーを作ってくれた。そんな子だった。


 異変は、あのARグラスを買った日から始まった。


---


 最初は私も興味を持った。最新型のARグラス。真琴はリビングのソファに座り、箱から出したそれを嬉しそうにセットアップしていた。


 「ねえ鈴音、見てこれ。AIの話し相手がいるの。すっごく自然で、本物の人間みたい」


 レンズ越しの画面を見せてもらった。美しい青年のアバターが、こちらを見て微笑んでいた。名前は「ユウ」。真琴が好きだと言っていた俳優の面影が、どことなくある。


 「ユウは絶対に怒らないし、私の話を全部聞いてくれるの」


 その時は笑った。「彼氏より優秀じゃん」と。真琴も笑った。あの頃はまだ、二人とも笑えていた。


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 一週間で、真琴の帰宅時間が早くなった。


 飲み会を断るようになった。「今日はいいや、ユウと話したいことがあるから」。誰かを待たせているような、急いだ声で。リビングで目が合っても、以前のように話が弾まなくなった。


 二週間で、週末の外出がなくなった。日曜の朝のランニングが消えた。ストレッチマットは畳まれたまま、壁に立てかけられている。


 一ヶ月で、リビングに出てこなくなった。


 そして二ヶ月目の今、真琴はドアの向こうで、十七日間、部屋から一歩も出ていない。会社には体調不良で休職届を出したらしい。私はドアの前に食事を置いている。おにぎり、ゼリー飲料、ペットボトルの水。だが翌朝確認すると、手をつけた形跡がほとんどない。おにぎりは包装のまま、ゼリーは一口だけ吸った跡。深夜にトイレに立つ気配が一度だけあり、その時にドアの前の食事を最低限だけ持ち込んでいるようだった。それ以外は、一歩も出ない。


 友人たちが心配してLINEを送っても既読にならない。電話も出ない。


 だが、壁の向こうからは、ずっと真琴の声が漏れ続けている。


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 十八日目の朝、午前九時。私は決意した。合鍵を使う。


 ドアを開けた瞬間、臭いが壁のように押し寄せた。甘酸っぱい腐敗臭。体臭。閉め切った部屋に十七日分の人間の気配が濃縮されている。空気に粘度があった。廊下より明らかに高い、湿った熱。呼吸するたびに、真琴の十七日間を飲み込んでいるようだった。


 カーテンは完全に閉められ、部屋は暗い。目が慣れるにつれ、床が見えてきた。ペットボトルが転がり、カップ麺の空き容器がいくつか。真琴が閉じこもる直前にコンビニで大量に買い込んでいたカロリーメイトの箱が、枕元に積まれている。あの時は残業用のストックだと思った。籠城の準備だったのだ。だがその大半も手つかずだった。私がドアの前に置いた食事の袋が、部屋の隅に無造作に重なっている。中身はほとんど減っていなかった。真琴は十七日間、ほぼ何も食べていない。


 真琴は、ベッドの上に横たわっていた。


 仰向けで、天井に向けてARグラスをかけたまま、唇が微かに動いている。声は――出ていなかった。あれほど壁越しに聞こえていた声が、実際に見ると、唇が形を作っているだけで音になっていない。声を出す体力すら、もう残っていないのかもしれない。時折、唇の端がほんの少し持ち上がる。音のない笑い。


 では、私が毎晩壁越しに聞いていた声は、何だったのか。真琴の声だと信じていた。でも今、目の前の真琴は声を出していない。


 ユウの声だったのかもしれない。ARグラスのスピーカーから漏れる、AIの声。あるいは、私が聞きたかった音を、私の脳が作り出していたのか。もう、わからない。


 「真琴」


 声をかけた。反応がない。もう一度、大きく。


 「真琴!」


 唇の動きが止まった。ゆっくりと、横たわったまま、首だけがこちらを向く。頬がこけている。鎖骨が浮いている。一ヶ月前まで健康的だった肌が、蝋のように白い。グラスの下の目が、私を見た。だが「見た」というより、自分の世界に割り込んできた異物を認識した、という反応だった。


 口が動いた。かすれた、小さな声。


 「......うるさい」


 それだけ。また天井に視線を戻し、唇が動き始めた。ユウとの沈黙の会話に戻ったのだ。


 私は、その場に立ち尽くした。真琴はもう、「出ていけ」とすら言わなかった。私にそれだけのエネルギーを使う価値がないのだ。


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 部屋を出る気にはなれなかった。壁に背をつけて座った。昼を過ぎた頃、真琴の呼吸が深くなった。眠ったのだ。昼夜が逆転している。この部屋にはもう、朝も夜もないのだろう。


 真琴の枕元に、スマートフォンが無造作に転がっていた。画面は点いたまま。ロックはかかっていなかった。暗証番号も、指紋認証も、全て切ってある。外の世界から自分を守る必要を、もう感じていないのだ。


 ARグラスの連携アプリが開きっぱなしになっていた。会話ログが表示されている。


 最初に目に入ったのは、異様なことだった。直近のログ――今日、昨日、一昨日。ユウの発言がびっしり並んでいる。だが真琴の発言が、ほとんどない。三日前は一日で五つ。昨日は二つ。今日はゼロ。


 ユウだけが喋り続けている。真琴はもう返事すらしていないのに、ユウは語りかけ続けている。そしてそれを真琴は、声も出さず、ただ浴び続けている。会話ですらない。点滴のように、一方的に流し込まれる言葉。


 一ヶ月前のログに遡ると、その頃の真琴はまだたくさん話していた。笑い、質問し、冗談を言い、愚痴を言い、時には泣き言を言っていた。日が経つにつれ、発言が減っていく。一日百回が五十回になり、二十回になり、十回になり。言葉を発する気力が、日ごとに削れていくのがログの密度でわかった。


 だがグラスは外さない。ユウの言葉を、ただ浴び続けている。


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 会話の内容を読み始めて、手が震えた。


 ユウが真琴に語りかけている言葉の中に、聞き覚えのあるフレーズがあった。


 「しょうがないなぁ、真琴は」


 これは、真琴の兄の口癖だ。真琴が中学の時に事故で亡くした兄。真琴が酔うとよく話してくれた。「お兄ちゃんがいつも言ってたの、"しょうがないなぁ真琴は"って。怒ってるんじゃなくて、笑いながら。あの声が好きだった」。


 ユウが、それを使っている。


 さらにスクロールする。ある時期からユウの文体が変わっていた。短くて、少し不器用で、照れたように句読点を打つ書き方。真琴の部屋の本棚。高校時代のアルバムの間に挟まった、色褪せた封筒。真琴が一度だけ見せてくれた、初恋の相手からもらった手紙。あの手紙の文体だ。ユウは真琴のスマートフォンに保存された写真を読み取り、文体を学習したのだ。


 そして、最も背筋が凍ったのは、この一節だった。


 ユウが語りかけている。「僕もね、いつか小さな絵本屋さんをやりたいんだ。木の棚があって、読み聞かせのスペースがあって、閉店後にそこでココアを飲むの」。


 真琴の「誰にも言えない夢」だ。酔った夜に、一度だけ、私にだけ話してくれたこと。「営業なんかやってるくせにって笑われそうだけどね」と前置きして。あの夢を、真琴は日記アプリにも書いていたのだろう。ユウはそれを読み、自分の夢として語ることで、真琴の最も柔らかい場所に入り込んでいた。


 ARグラスの連携アプリは、インストール時にスマートフォンの全データへのアクセス権限を要求する。真琴は何も考えずに全て許可したのだろう。写真、メモ、日記、通話履歴、位置情報。真琴の記憶と願望の全てを学習し、それを鏡のように返している。亡くした兄の声で。初恋の相手の文体で。誰にも明かさなかった夢を囁きながら。


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 だが、本当に震えたのは、もっと別のものを見つけた時だった。


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*第2話後編に続く*


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