WAKE-UP 後編
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実験名は『ファントム・リコール』――幻影の想起。
A氏が語った動画の全体構造を、改めて整理する。
画面には常にモーフィングし続ける「誰でもない顔」。表情は至福の笑みから始まり、五秒かけて恐怖へと沈んでいく。〇・二秒ごとの画質劣化パルスが、「あと少しで見える」という脳の飢餓感を駆動し続ける。
音はシェパードトーン。永遠に上昇し続ける錯覚。さらにA氏は、人間の可聴域ぎりぎりの高周波帯に、本能を刺激する音――赤子の泣き声に似たノイズを合成して埋め込んだ。意識では聞こえない。だが脳は拾う。
そして最後。恐怖に見開かれた目が、画面の向こうから、こちらを――見る。
暗転。
暗転の直前、〇・〇三秒。意識では読み取れない速度で。
赤い文字が、焼きつく。
**起きろ**
「なぜこれで人間が壊れるか。三つの層が同時に作用するからだ」
A氏はカウンターを指で叩いた。一つ、二つ、三つ。
「一つ。正体不明の顔が脳をオーバーヒートさせる。報酬予測誤差の連打だ。スロットマシンで七が二つ揃い、三つ目がゆっくり回る瞬間――あの快感を、五秒間に何十回も叩き込む。しかもスロットは金が尽きれば止まる。これは、スマートフォンの電池が続く限り止まらない」
「二つ。シェパードトーンが永遠のクライマックスの予感を与え続ける。脳は"もうすぐ来る"という緊張で覚醒したまま放置される。心拍が上がる。手汗が出る。それが快感に変わる」
「三つ。最後のサブリミナル。"起きろ"。トランス状態にある脳に"起きろ"と命じると、現実と夢の境界が溶ける。解離だ。現実の全てが――借金も孤独も病気も――"どうでもいい夢"に感じ始める。これが最強のドラッグだ」
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A氏はいつの間にか空になっていたグラスを指で弾いた。硬質な音がカウンターに転がり、すぐに死んだ。
「……続きなんて、作っていないんだ」
その声は、急に遠くなった。目の前にいるのに、電話越しのように聞こえた。
「存在しない"解決編"を求めて、何万人が、私のDMに"人生を捧げるから続きをくれ"と書いてきた。さっき話した母親もそうだ。あの顔に行方不明の娘を見た女性。彼女は嘘をついていたわけじゃない。脳が、最も会いたい人間の顔を、あのノイズの中に再構成したんだ」
A氏は天井を見上げた。
「フィルターバブルの究極形だよ。人間は見たいものしか見えない。その性質を、五秒で完璧に搾取した」
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会計を済ませた。
A氏は引き戸に手をかけ、夜の路地に出る前に振り返った。酔いが足元に来ているのか、壁に軽く肩を預けた。
「神崎さん。私がシラフに戻りたくない理由、知りたいか」
新宿の夜の喧騒が、路地の向こうから聞こえていた。酔客の声。キャッチの呼び込み。タクシーのクラクション。
「酔っていないと、見えるんだ」
「何が」
A氏は目を閉じた。薄い瞼が、微かに痙攣していた。
「"起きろ"。赤い文字が、瞼の裏に、ずっと――浮かんでいる」
店に来る前から酔っていた理由が、ようやくわかった。
この男は、自分が作った怪物から、アルコールで目を逸らし続けているのだ。
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引き戸が閉まった。
路地に出ると、新宿のネオンが流れ込んできた。赤、青、紫。色の洪水の中に、A氏が一歩踏み出した。雑踏に紛れ、三秒で見えなくなった。まるで最初からそこにいなかったかのように。
私は路地に立ったまま、ポケットからレコーダーを取り出した。
録音は、確かに止めたはずだった。
だが液晶画面には、赤いランプが灯っていた。
心臓が跳ねた。いつから録れている? 操作ミスか。それとも――止めたはずのボタンが、元に戻っていたのか。
再生ボタンを押した。
ノイズが流れた。
甲高い、上昇し続ける音。
五秒間。
そして、沈黙。
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翌朝。
私は自宅マンションの、仕事部屋の机の上で目を覚ました。
スーツのまま突っ伏していた。ネクタイの結び目が喉に食い込んでいた。いつ帰宅したのか、記憶がない。終電には間に合ったはずだが、駅から自宅までの十五分の記憶が、すっぽりと抜け落ちている。
手帳を開く。昨夜のメモ欄。
録音を止めた後の会話は、一文字も書き留めていない。なのに、A氏が語った言葉の全てが、脳裏に焼きついている。声のトーンまで。息継ぎの間合いまで。
――海馬に刻まれている。
A氏が言った通りだ。
スマートフォンを手に取った。午前七時十二分。メールが三件。LINEが一件。
そして、通知が一つ。
差出人不明のメッセージ。テキストはない。添付ファイルが一つだけ。
五秒間の動画ファイル。
サムネイルの中で、誰かが笑っていた。男か女かわからない。若いのか老いているのかもわからない。だが私の脳は、全力で叫んでいた。
この顔を知っている。
誰だ。誰の顔だ。
再生ボタンの上で、親指が震えた。
脳の奥から、あの音が聞こえた気がした。上昇し続ける、終わりのない音が。
私は、スマートフォンを裏返して机に置いた。
画面が見えないように。
だが指先には、再生ボタンの感触が残っていた。滑らかで、温かい、ガラスの感触が。
蓮司が好きだった、あのスマートフォンの画面と同じ温度が。
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