竜は同胞を頼る
人嫌いを自認する彗主が何故、隠れ処にちょくちょく獅枇を訪ねていたかと言うと、人間の女などに引っ掛かった幼馴染みに文句を言うためだった。
獅枇は青竜特有の非常に穏やかな気質をしていて、容姿だって悪くない。青みがかった銀の鱗は形も整って艶があり、伴侶を探している雌竜達にもそこそこモテていた。
だから小賢しい知恵ばかり回る愚昧な人間にどうして獅枇が心を奪われたのかさっぱり理解ができず、今からでも遅くない、ちゃんとした雌竜と番になれと、彗主は何度もそう迫ったのだ。
獅枇は勿論相手にしなかった。
彗主の恨み言を軽く聞き流し、それどころか、迎えた妻がどんなに素晴らしい存在なのかを切々と彗主に語り聞かせてきた。
延々と続く甘ったるい話に彗主は胸やけを起こし、最後には尻尾を巻いて逃げ出す羽目になった。
今まで竜同士のじゃれ合いで相手に背を向けた事はないが、体がむず痒くなるようなあの惚気だけはいただけない。
自慢の鱗の艶がなくなるほどのすごいストレスだった。
そんな風に、数年に一度、獅枇の処に突撃を掛けては惚気の反撃を食らって退散するという不毛な行為を繰り返していた彗主であったから、気まぐれで噛んだ人間の子どもが死にかけた時、真っ先に頭に思い浮かんだのが獅枇だった。
獅枇がたまたま医術を修めていたのは、彗主にとって幸いだった。助けを求めるに当たって、これ以上頼もしい相手はいないだろう。
一刻近く空を翔け、彗主はようやく見覚えのある山間の崖を見つけた。その上空に飛んでいくと、鬱蒼とした森の間に突如として平地が開け、広々とした中庭を持つ豪奢な御殿が出現した。
彗主はすぐに中庭に下りる事はせず、上空で数回旋回した。
これは外部の竜が御殿を訪れる際の挨拶のようなものだ。
竜の影を認めた御殿からばらばらと人が姿を現わし、その中に目当ての獅枇の姿を見つけて彗主はほっと息を吐いた。
彗主はゆっくりと高度を下げて石畳に降り立ち、前足で抱えていた子どもを慎重に地面に下ろす。
そして自身はすぐに人間に変化した。
「彗主じゃないか。久しぶりだな」
笑顔で近付いてきた獅枇は、彗主の足元に転がるぼろきれのような塊に初めて気が付いたようだった。
ぎょっとしたように足を止め、その塊に目を凝らす。
「おい、それは何だ。まさか子ども……か?」
獅枇は呆然と呟き、それは獅枇の隣を歩いてきた女性も同様だった。
彗主はその女の事を良く知っていた。彗主が天敵のように毛嫌いしている相手で、ついでに言えば獅枇の最愛でもある。
名をアヴィと言った。
見かけはまあ、ケチのつけようがなかった。
何と言っても、獅枇が一目で惚れ込んだ相手だ。
ぱっちりとした緑色の瞳と珊瑚のように鮮やかな唇を持ち、肌はまるで極上の象牙を思わせる。胸は大きく張り出して、反対に腰はきゅっと括れていた。
いつも堂々と胸を張り、彗主の前でも不遜な態度を崩した事はないのだが、この度ばかりは度肝を抜かれたのだろう。
珍しくぽかんと口を開けていた。
普通であればその間抜け面を笑ってやるところだが、生憎と今は彗主の方にも余裕がない。
ふと周囲を見渡すと、中庭に続々と人が集まりつつある。
彗主が人の子を運んできた事に気付いたらしく、静かな戸惑いとざわめきが広がっていった。
「これは一体どういう事だ」
石畳の上にぐったりと横たわり、お腹を丸めるようにして呻いている人間の子どもを見て、普段滅多な事では感情を荒げない獅枇が、眉宇を寄せて彗主を詰問した。
「森で拾った」
「拾っただと? 拾ったとはどう言う意味だ。まさかお前、人間の子どもを勝手に攫ってきたのか?」
「攫うものか」
無事に夜が明けたら姿を晦まそうと思っていたのに、うっかりこの子どもに真名をつけられてしまった。だから仕方なく傍にいただけだ。
「本当は放っておきたかったんだが、苦しがっているのに放置できないだろ。だからここに連れてきたんだ」
苦しがっているという言葉に、獅枇は慌てて子どもの方に目をやった。
よくよく見れば、子どもは石畳の上に転がったまま、浅く速い呼吸をしている。額には脂汗が滲んでいて、髪の毛がべったりと肌に張り付いていた。
獅枇の後ろにいたアヴィが横をすり抜けて、ヴィレの傍に膝をつく。体をくの字にして小さく呻いている子どもの身体をそっと抱き上げ、頭を膝の上に乗せてやった。
「シェーン、とにかくこの子を診てやって。目に見える傷はないようだけれど」
シェーンというのは、アヴィがつけた獅枇の眞名だ。
眞名を呼んで頼まれた獅枇は、状況把握や理屈は後回しにして、すぐにアヴィの傍らに屈み込んだ。
師枇は人の世界で医家をしていたため、少々の事には対処できる。ヴィレの脈をとった後、皮膚や眼瞼の色などを慎重に確かめ、最後に腹を触診した。
子どもの体に残された吐瀉物の匂いに微かに眉を潜め、食中りかなと首を捻った。
「おい、彗主。何があったのか、事情を説明しろ。見つけた時からこんな風に苦しがっていたのか?」
「会った時は元気だった」
不貞腐れた声で彗主が言った。
「腹が減ったと言うから、狼を狩って肉を食わせてやったんだ。そしたら今度は腹が痛いと言い出した」
「狼の肉を?」
「ああ。結構がつがつといっていたぜ」
「……肉に火は通っていたんだろうな」
「勿論だ。黒焦げ寸前まで焼いてやった」
何だかまずそうだなと、獅枇は思わず眉をへの字にした。
「他に口にしたものは?」
「他には何も。こいつ、丸一日以上何も食ってなかったと言っていたし……」
「じゃあ、おそらくそれが原因だ」
獅枇は大きなため息をついて立ち上がった。
「すきっ腹にいきなりそんなものを大量に食わしたら、誰だって腹が痛くなる」
取りあえず胃の腑の薬を調合するか……と獅枇が小さく呟いた時、背後から鋭い声が掛けられた。
「一体何事なの!」
彗主や獅枇は弾かれたように声の方を振り向いた。
声に反応して人垣が割れ、真っ直ぐに空いた空間を一人の女性が歩いてくる。
体つきは華奢で背丈も低めだが、体全体から威厳のようなものが漂っていた。歩く度に、艶やかな黒髪が背で揺れた。
「桜姫」
その姿を認めた獅枇が軽く頭を下げた。
この隠れ里を統べる長、凛主の妻で、黒竜の純血種でもある。
黒曜石を思わせる黒い双眸が真っ直ぐに人の子へと向かい、続いてその傍らに立っている獅枇に向けられた。
「その子はどうしたの?」
玲瓏な声が赤い唇から落とされる。
「彗主が山で拾ってきたようだ。空腹を訴えた子どもに、狼肉の黒焦げを食わしたら苦しみ始めたと……」
それを聞いた桜姫は、器用に片眉をはね上げた。
「空腹の子に黒焦げ肉……? 随分と間抜けな話ね」
彗主は思わずむっとしたが、反論は口の中で呑み込んだ。何と言っても今は分が悪い。下手な事を言って、桜姫を怒らせる訳にはいかなかった。
「あの……桜姫。この子、かなり具合が悪そうだし、取りあえず手当をしてやったらどうかしら」
そう口を挟んだのは、アヴィの傍に屈み込んで子どもの様子を確かめていた薄茶色の髪の女性だった。
確か、イレーニという名前だったか……と、彗主は曖昧な記憶を探る。
何度もこの隠れ処を訪れている彗主だが、人間にはとんと興味がなかった。だからここに住まう人間の名などほとんど覚えていなかったが、この女だけは特別だ。イレーニの番は純血種の竜であったため、その竜に敬意を表し、一応記憶に留めていた。
イレーニに言われ、桜姫はアヴィの膝に抱かれている子どもに目を落とした。
「凛主の不在に、勝手に人の子を迎え入れるのは気が進まないけれど……」
そう呟いたものの、脂汗を流して唸っている子の姿に、さすがに放ってはおけないと思ったのだろう。
「仕方がないわね。客殿に運んでやりなさい」
迷いは一瞬で、すぐに決断を下した。
「獅枇、貴方は確か人間界で医家をしていた筈ね。この子の世話をお願いするわ」
「ああ」
桜姫の許しを得た獅枇は、客殿へと抱き運ぶべく、慎重な手つきでヴィレの身体を掬い上げた。
彗主は一瞬、肌がざらつくような不快を覚えたが、それが何なのかわからない。手当をしてもらえるのだから、不満な事は何もない筈だと無理やり自分に言い聞かせた。
「私も手伝うわ」
アヴィがそう声を掛けて、獅枇の腕の中の子どもを覗き込む。
獅枇がゆっくりと歩き出すと、揺れが体に堪えたのだろう。腕の中で抱き上げられたヴィレが小さな呻き声を上げた。




