同胞は噛みに気付く
ヴィレを抱き上げた獅枇が遠ざかるのをぼんやりと目で追っていた彗主だが、後へ続こうと足を踏み出した途端、桜姫の厳しい声がそれを止めた。
「彗主、貴方には詳しい事情を聞く必要があるわ。私についてきて」
彗主は渋々と頷いた。
長代理である桜姫の立場なら当然の言葉だろう。
この場所は竜とその番のための隠れ処で、無闇に人間を連れて来ていい場所ではない。かなりの掟破りをした自覚があったため、彗主はおとなしく桜姫の後をついていった。
ややあって桜姫の殿舎に通された彗主は、桜姫の無言の圧に屈したように渋々と口を開いた。
「勝手に子どもを連れてきた事は……、まあ、悪いと思っている」
少々歯切れが悪くなってしまったのは仕方がない。
黄金竜は元々気難しく、気位の高い竜種だ。性格上、素直に頭を下げるなどできよう筈がなく、彗主にとってはこれが精いっぱいの謝罪だった。
桜姫もそれを知っているため、それ以上の詫びは求めなかった。
ただ、頭が痛いとでもいうように額に指を当て、疲れたような小さな吐息を唇に乗せた。
「全く……。長がいない間に、何という面倒事を持ち込んでくるのかしら」
思わず呟かれた繰り言に、彗主は驚いたように顔を上げた。
「今、凛主は不在なのか?」
「ええ。他の隠れ処で揉め事が起きて、昨日からここを留守にしているの。長丁場になるかもしれないと聞いているわ」
凛主ならさもありなん……と彗主は独り言ちた。
凛主は桜姫と同じ黒竜の純血種で、竜が番と暮らす隠れ処を初めて世界に作り上げた立役者でもある。
その名を知らぬ竜はいないし、多くの同胞達から深く慕われ、頼りにされていた。
今では完全に竜の世界の常識となった隠れ処だが、その歴史はまだ浅い。
人間と番った竜は人界で暮らさなければならなかったが、老化の速度が人よりも遅いために、同じ場所に長く居つく事ができなかった。人に正体を悟られぬよう細心の注意を払いながら、根無し草のように土地を転々とする。
そうした同胞達に安住の地を与えたいと考えるようになった凛主は、当時恋人であった桜姫を襲った不幸な事件をきっかけに、数年の歳月をかけて彼らのための隠れ処を完成させたのだ。
その後、竜の隠れ処は徐々に数を増やしていき、現在は大陸の十数か所に点在している。
竜の世界にも人の世界にも馴染めずにいた彼らは、凛主によってようやく満ち足りた安寧を手にする事ができたのだ。
その凛主がこの地に今、不在である事をどう捉えればいいのかと、彗主は忙しく頭を巡らせた。
長の凛主がいないのであれば、当座はこの桜姫が場を仕切る事となる。
凛主がいれば頼もしかったが、一方で凛主は情よりも理を重視するきらいがあった。ならば情に深い桜姫が対応した方が、まだ穏便に事を済ませてくれる気がした。
「取りあえず手当はさせるけれど、それだけよ」
そんな彗主の思いを読み取ったのか、桜姫は厳しい口調で釘を刺してきた。
「隠れ処と関係のない人間をいつまでもここに置いておく訳にはいかないわ。具合が良くなったらすぐ元の所に戻していらっしゃい。わかったわね」
「元の場所……と言うとあの崖の上か? 一日も経たぬ間に獣に襲われて死ぬと思うが……」
彗主の返事に、桜姫は思わず眉根を寄せた。
「崖の上? 一体何を言っているの? そうではなく、家族のところに返しなさいと言っているの。子どもが一人きりで山の中にいる筈がないでしょう?」
「一人だったぜ」と彗主は肩を竦めた。
「他の人間は全部夜盗に殺されていた。多分あいつが最後の生き残りだろう。
夜盗どもに崖まで追い詰められていたのを、たまたま見つけて助けたんだ」
「……助けた? 貴方がわざわざ人間の子どもを?」
桜姫は信じられないというように目を見開き、彗主は気まずそうにそっぽを向いた。
「別に助けた訳じゃない。夜盗どもが気に食わなかったから殺しただけだ。ついでにあいつも殺すつもりだったんだが……」
気付けば殺し損ねていた。
いじましく命乞いをしたら惨たらしく殺してやろうと思っていたのに、予定が外れたのだ。
「それで?」
「置き去りにするつもりが、タイミングを逃した。腹が空いたと言うから狼肉を食わせたんだが、今度は腹が痛いと言い出した。
俺が食わせた肉で死なれても寝覚めが悪いだろ。だからここに連れてきた」
その説明に、桜姫は釈然としない思いを抱いた。
好奇心旺盛で、思い込んだら突っ走るところのある青竜や、自分のように元々子ども好きな竜であれば、そういう事もあるだろう。
だがこの彗主はそういうタイプではない。竜至上主義を煮詰めたような典型的な黄金竜で、人間の命などどうでもいいと思っている筈だ。単なる気紛れというだけでは説明がつかなかった。
「良くそこまで面倒をみたものね」
違和感を拭えずにそう問いかけると、彗主はあからさまな渋面を作った。
「気が向いたんだ。
自分で殺す気になれなかったからここに連れてきたんだが、あんたがどうしても山の中に捨てて来いと言うなら……」
「いいえ。待って」
桜姫は仕方なく彗主の言葉を遮った。これ以上彗主を刺激したら、この傲慢な黄金竜がどう行動するかわかったものではない。
売り言葉に買い言葉で、本当に子どもを山の中に捨てかねなかった。
「あそこまで具合の悪い子を放置できないわ。体が回復するまでこちらに滞在を許しましょう。
ただし、彗主。貴方がこの隠れ処に連れてきたのだから、貴方には相応の責任を取ってもらうわよ。勝手にここから去る事は許さないわ」
「わかった」
彗主は仕方なさそうに言った。
「しばらくはこっちで世話になる。外で寝泊まりするから、用があれば呼んでくれ」
「ああ、それでは駄目よ」
桜姫は思わず溜め息をついた。
彗主は竜型に戻って外庭で眠るつもりなのだろうが、それでは子の世話を放棄しているのと同じだ。
「今は獅枇が看てくれているけれど、本来あの子の世話は貴方がするべき事よ。貴方はあの子と一緒に客殿に泊まりなさい。
ああ、心配はしないで。別に同じ部屋で寝てやれなんて言ってない。客殿は広いから、他にいくらでも部屋があるでしょう。そちらで休んでちょうだい」
彗主は心底嫌そうな顔をしたが、ここは折れるしかないと思ったようだ。
「客殿に泊まればいいんだな」
そう言葉を返し、話はついたとばかりに背を向けてきた。
そのまますたすたと彗主は去って行き、桜姫はそれを止めなかった。
大まかな事情は分かったし、これ以上話す事もなかったからだ。
桜姫は肘掛椅子にゆったりと体を埋め、疲れたように眉間を指で揉んだ。
「可哀そうだけれど、人の子をこのまま隠れ処に置いておくわけにはいかないわね」
ここに置いておけないのならば、人の世界に帰すしかない。
確か人の世界には、孤児を引き取るような施設もあると聞いた事があった。そこに送ってやるようになるだろう。
そして桜姫はふと、かつて自分が可愛がっていた人間の子どもの事を思い出した。人間にはひどい目に遭わされたけれども、あの子だけは最後まで桜姫を慕ってくれた。
肘掛けに腕を置いたまま、桜姫はぼんやりと窓の外を見る。
そう言えば、あの子を見つけたのも今とちょうど同じような夏の季節だった。
幸せにしたかったのに、結局守れなかった。
桜姫は瞳を閉じて、優しい思い出を手繰り寄せる。
屈託のない柔らかな子の笑顔が薄闇に浮かび、そして静かに解けていった。
一方、一足先に客殿に入った獅枇は子どもを寝台に寝かせ、世話はアヴィに任せてそのまま薬房に向かった。
薬房には甘露水が常備されていて、その中にいくつかの生薬を溶かし込み、子どもが寝ている寝台へと向かう。
もう吐くものもなくなったのだろう。子どもはぐったりを寝台の上に丸まり、妻のアヴィがその背中をそっと擦ってやっていた。
「薬を持ってきた。何とか飲めそうかな」
そう声を掛けると、妻のアヴィはほっとしたように顔を綻ばせた。
子どもの体をそっと抱き起し、おでこを合わせるようにして優しく肩を揺する。
「お薬よ。少し苦いけれど、お腹が楽になるわ。飲んでみて」
薬湯を匙で掬って子の口に近付けると、子どもはうっすらと目を開けて小さく口を開いた。
アヴィはその口に薬湯をゆっくりと流し入れてやる。強いえぐみに子どもは顔を顰めたが、言われるままに全部を飲み切った。
「いい子ね」
口の周りについていた薬湯を指で拭ってやり、再び布団の中に丸まった子どもの頭をアヴィは優しく撫でてやった。
それから首筋の汗を手巾で拭いてやろうと思い付き、その襟元を広げる。
何気なくその首元を覗き込んだアヴィは、次の瞬間、信じられないものを見つけて顔を強張らせた。
「シェーン!」
悲鳴のような妻の叫び声に、獅枇は慌てて駆け寄ってきた。
「どうした」
問いかける獅枇に、アヴィは無言のまま目でそれをさし示す。
視線を追って子どもの首筋を見た獅枇が、「嘘だろう……」と困惑しきった声で呟いた。
少女の細い首筋に斜めに並んだ、腫れたような二つの赤い点。
その印が何を意味するか、わからぬ筈がなかった。
けれどそれを現実とは認めたくなかった。こんな子どもに竜の刻印を授けるなんて、あり得ない変態行為だった。
「どこの馬鹿がこんな事を……」
「どこの馬鹿って、連れてきた張本人しか考えられないのではなくて?」
アヴィが呆れを滲ませながら答え、言われた獅枇は頭を抱え込んだ。
確かに連れてきた彗主以外はあり得なかった。
獅枇が魂が抜けたような顔で座り込んでいると、ちょうどタイミングよく、半開きになっていた扉の向こうから当の本人が姿を現した。
意に染まぬ事を桜姫から言われ、すっかりつむじを曲げていたのだが、取りあえず子どもの様子を見ておこうかと思い付いて、ここにやってきたのである。
諸悪の根源の登場にアヴィがぎっと彗主を睨みつけ、遅れて獅枇も彗主の方を見た。
「……おい、この首筋の印は何だ」
低い声でそう問い質された彗主は、今日は厄日かよ……と大きく天を仰いだ。
ああ、やはりあのままこいつを放っておくべきだったかと後悔したがもう遅い。
「何って、見たままだ」
「こんな子どもに刻印を授けるなんて、お前、正気か?」
「正気じゃなかったんだろうな」
彗主はしみじみとそう答えた。
実際、自分でも頭がおかしかったのかと思っているのだから、そうとしか言いようがない。
開き直られた獅枇はがっくりと項垂れ、ややあってから扉に向かって顎をしゃくった。
「話がある。ついてこい」
とにかく事情を聞かなければならないが、子の傍でする話でもないだろう。
彗主は嫌そうに獅枇を見つめ返したが、このままばっくれても仕方がないと思ったのだろう。
反論はせず、おとなしく獅枇の後をついて行った。




