第七十六話 さよならは言わないで
俺は迷っていた。
迷いながらも身の回りの物の整理を黙々と続けていた。
とはいえ、元々着の身着のままでこの《ノア=ノワール》に連れてこられた身なので、大して詰める物もない。あまり考えもなしに通学鞄に放り込んでいたハンカチやら何やらを洗って乾かして、綺麗に折り畳んではしまい込む。それくらいだった。
「お、おい。もう行っちまうのよ?」
珍しく声をかけてきたのは、何とあのアルヴァーだった。
その隣には魔王もいる。
「ええ。そうですね……もう勇者は本当に不要になった。違いますか?」
「まあ、それはそうなんだけどよ……」
何故か魔王の方でもなく、後ろをちらちらと気にする素振りを見せるアルヴァー。
それから、少し目線を下げて、魔王と目くばせをする。リア充め。
「何もそこまで急ぐ必要はないだろう? せっかくまおたんも友達が出来て喜んでたのに。な?」
「……僕のせいにする気?」
「ち、違う! 違うぞ!?」
じろり、と魔王に睨み付けられ、アルヴァーは真っ赤になって激しく首を振ってみせる。
受け攻めの関係では、やっぱり俺様英雄神は総受けらしい。
「俺様だって……寂しい。決まってるじゃないか! お前は、俺様たちの恋のキューピッドでもあるんだからな。それに、お前に会って話をしておきたいって奴らだってたくさんいただろう?」
「もう、一通り話は出来ましたから。大丈夫です」
葵さん、マクマスとカラフェンの元・勇者コンビ。驚いたことに、ぼーぱるさんや舞亜さん、織緒さんまで来てくれた。あの竜心王のおじいちゃんは年も年なので手紙だけだったが、それでもじんわりと優しさが伝わってくる良い文章だった。
「ほ、本当にいいのかよ、それで?」
言いたいことは分かっているつもりだ。
その中に、マリーの姿だけがなかった。
あの時、《カンピドーリ》でのアルヴァーによる神と魔王の永年の争いの終結宣言の直後から、マリーの姿は忽然と消えてしまったのだった。
「……いいんです」
心の何処かにぽっかりと穴が開いたような空虚さを抱えながらもそう応えた。
「全てが終わった後に、やっぱり俺はこの世界に必要がない、間違った存在なんだ、ってことがはっきりしたら、俺はこの世界から消えなきゃいけない。元の世界に戻らないといけない――そう俺は、予めあいつにも言ってありましたから」
それを聞いた途端、アルヴァーと魔王は沈んだ顔付きで俯いてしまった。
その沈黙が堪らなく嫌で、俺はわざと明るい声を出して逆に尋ねてみた。
「え、えっと……。で、結局、この後どうすることに決めたんですか? 争いのなくなった世界で?」
「お、おう。それなんだがな――」
魔王の好きなことはとことん理解したい、とアルヴァーは言い出したかと思うと、魔王の居城の彼の部屋にたんまりと溜め込まれていた漫画や本の類を持ち出し、昼夜を問わず読み耽った。そして、今まで喰わず嫌いで遠ざけているばかりだったいわゆるオタク文化に傾倒してしまい、天界公認のイベントを年に二回開催することとしたんだそうだ。
もちろんそればかりではなく、今まで不浄であり邪悪であると決めつけていた魔王側にしか存在しなかった文化や習わしの研究を推し進め、良い物は進んで取り入れようとする流れも出来つつある。おかげで天界の人々もただ無為に日々を過ごすばかりではなく、生き甲斐や目標、夢なんて物を取り戻すことができたと言う。
また、当然のように《女神ポイント》システムは廃止されることになった。代わりに万人に有益であると認められた《加護》は、粘膜接触――キスなどという方法を取らずとも、予防接種のような形で希望者に対して付与するサービスも開始される予定らしい。
さらに、一部の魔物に関しては、閉鎖的だった魔界とのゲートを緩和してこちらの世界にも移住する計画もあるんだそうだ。彼らも魔王という旗印が意味をなさなくなった今、誰彼問わず襲いかかる必要でもなくなったので、よほど凶悪な意志を持つ者でもなければ許可は下りるらしい。
「あ、あれだぞ? お前の世界ではそっちの方が一般的のようだが、男女の間での恋愛も認められるようになったんだぜ? な?」
「そうだったね」
魔王は頷いた。
「まあ、僕みたいな魔王は元々両性具有の者が多いからね。見てくれがどっちだって大きな意味はないんだよ。今のところは男だけど……アルヴァーがそっちの方が良ければ、絶世の美女にもなってあげられるんだけど……?」
「ま、まおたん……?」
「嘘、嘘。冗談だってば」
悪戯っぽく笑って言う魔王の肩を掴まえて、俺はずっと気になっていたことをそっと囁いた。
(なあ、まおたん? お前……本当にアルヴァーとのこと、全部思い出したのか?)
すると、案の定、まおたんはぺろりと舌を出した。
(いいや、ちっとも。でもね、こうでもしないと僕、消されちゃうでしょ? それに……意外と僕、アルヴァーのこと嫌いじゃないんだよね。意外?)
(お前なあ……)
そういって悪びれもせず笑ってみせた魔王は、文字通り小悪魔っぽくみえた。
そうこうしているうちに、儀式の準備が出来上がったようだ。
見たこともないほど巨大な魔法陣が《カンピドーリ》の円形の舞台上に青白く浮かび上がっている。
「勇者・ショージよ! そろそろ元の世界へと戻る準備ができましたぞ!」
「あ、はい! 今、行きます!」
何人かの老神が呼びかける声に叫び返し、俺はもう一度天界の景色を振り返る。
そこにはやはり、あの姿は何処にも見えなかった。
最後に……いや、これでいいんだ。
俺が使い慣れた通学鞄を取り上げたその時だった。
「ま、待って! 待ってくださいっ!」
振り返る必要なんてなかった。
そこに誰がいるかなんて、確かめる必要なかった。
そこにいる誰もが色めき、ざわつくのを感じながらも、俺はぼそりと呟いた。
「……遅かったじゃねえかよ」
「これでも精一杯急いだんだってば! でも、時間がかかっちゃって!」
ととと、と駆け寄ってくる足音を知覚しながらも、俺は後ろを振り返ろうとはしなかった。
きっと――。
きっとその顔を、その姿を見てしまえば、俺の決心は鈍る、それが怖くもあったからだ。
と、すぐ後ろで足音が止まる。
そして、くすぐったいような囁きが聴こえてきた。
「……ねえ、ショージ?」
「馬鹿、は付けなくていいのかよ?」
くすくす、と小鳩のように笑いが返る。
「今はいらない。もっと伝えたい言葉が他にあるんだもん。……ね? こっち向いて?」
「……」
「お願い」
俺は目を閉じ、深々と溜息を吐いた。
そして口腔に溜まった唾を呑み下し、ゆっくりと振り返り――。




