港湾技師の常識
宮前直人の最初の仮説を、港湾技師の私――岸本梓は海中へ持ち込まなかった。
《環状戻りの片側抵抗増》
そこまでは使える。
追記された《単純閉塞案と一部不一致》も使える。
だが、彼が乾いた側で予想した熱の溜まり方をそのまま調査図へ描けば、潜水班は一番危険な方向から間違った場所へ入る。
海は、管の中の水ではない。
港湾海底迷宮の外周では、地上の潮が引いていても、迷宮から返る熱、三港の人工搬送、海底の地形で、局所の流れが先に向きを変える。
十分後の映像へ、今と同じ矢印は使えない。
この港へ来た最初の年、私は同じ失敗をした。
地上の潮位表を海中図へ写し、引き潮なら外へ流れると決めた。点検班は予定点へ着いたが、海底の窪地だけは先に満ち側へ返っていた。
事故にはならなかった。
当時の潜水班長が、回収線の重さを理由に引き返したからだ。
その記録から、港湾局は地上潮、外周流、迷宮戻りを別の欄にした。私が知っているのは海を読み切る方法ではない。読めなかった時に、地上の数字で潜水員を押し込まないための失敗だった。
「宮前さん。閉塞点の手前を探す案は外します」
私は中央港の乾側観測室で、彼の仮説図へ灰色の線を引いた。
消去ではない。
陸側でそう見えた原本を残し、海中で使えない理由を重ねる。
宮前さんは図を守ろうとしなかった。
「どこが合いませんか」
「戻り熱を、同じ向きへ流れ続けるものとしているところです」
私は潜水班が持ち帰った外周映像を止めた。
観測柱の上半分で殻は中央港側へ倒れ、下半分では起き上がっている。同じ時刻、同じ柱の上下で流れが違った。
単純な閉塞なら、抵抗の手前に浮遊片と熱が寄る。
映像では、薄い結晶の手前から浮遊片が押し戻された。乾側では冷えた側が先に動き、その後で反対側が温まっている。
「片方が詰まったのではなく、片方が逆へ回っている可能性があります」
「環状戻りの片側逆転」
「候補です。潮だけで起きる短い逆転なら正常です。異常なのは、人工搬送を落とした後も戻らないことです」
宮前さんは、陸側の板で見た左右を海底図へ直結していなかった。
《左》《右》の下へ、《乾側の呼称》と小さく残している。
海中班から見れば、同じ流れは上と下、港側と沖側になる。呼び名を同じにすれば、地上の左を潜水員が自分の左だと受け取る危険があった。
私は三点へ番号を振り、方角ではなく既設の観測柱からの位置で渡した。
現地の常識は、海を知っていることだけではない。
同じ言葉が場所によって変わると知っていることでもあった。
私は三港の運行表を並べた。
中央港が荷を減らす。
東港へ緊急搬送が入る。
西港は定常運転を続ける。
三つは別の会社と自治体が持っている。地上の荷役床も別だ。
だが、海底へ返す熱を港ごとに壁で切った証拠はない。
建設時の調査図には、各港の観測柱から沖へ消える戻り線があるだけだった。線の先は、海底迷宮の保守層として立入禁止。十五年間、人間は外から温度と圧を読んで使ってきた。
一港の負荷が落ちれば、空いた側へ流れが寄る。
二港が押せば、寄った流れが反転する。
それが季節と潮の範囲なら、設備は戻る。
今は、戻るはずの向きへ戻っていない。
「詰まりを見つければ取れる、という工程にはできません」
私は言った。
「逆転の起点が動くなら、昨日の閉塞候補へ今日入っても空振りです。空振りだけならいい。潜水班が流れの外側へ出たところで向きが戻れば、帰路がなくなります」
獅堂さんは、戦闘班の配置図を伏せた。
「魔物をどかせば通れるか」
「通れる場所と、帰れる場所は違います」
「なら、帰れる条件を先にくれ」
強い人が海中の危険を小さく見た声ではなかった。
自分の専門で埋められない条件を、先にこちらへ返している。
私は潜水班長へ確認した。
外周映像の最後、薄い殻の群れが照明の外へ退いた方向。
帰還時、回収線がどちらへ弓なりになったか。
観測柱の上と下で、身体へ当たる流れが変わった時刻。
返事は、映像の見た目と同じではなかった。
『上は中央港側です。下は一度、沖から戻りました。帰りは回収線の下側だけ先に緩んだ。映像では分かりにくいです』
潜水員は、カメラに映らない身体の情報を持っていた。
宮前さんの乾側板にも、私の潮流図にもない。
「その差を基準にします。次の調査では、映像より先に帰路側の線を見てください」
『調査点に着いていても、帰路側が緩んだら戻ります』
「それでお願いします」
私は調査線を一本引き直した。
閉塞候補へ最短で向かう線を外す。
代わりに、流れが逆転した境を外周から三つの範囲で挟む。
一つ目は、人間の観測柱がある乾側の端。
二つ目は、浮遊片が戻った白い線の外。
三つ目は、二方向の流れが同時に記録される深い窪地の手前。
三つの範囲の内側に原因がある、とはまだ言えない。
どの境を越えた時に、帰りの流れが別になるかを確かめる配置だった。
宮前さんが、自分の仮説欄を更新した。
《片側閉塞》の後ろへ取消線を引き、《片側逆転を含む抵抗増》と書く。
原因欄は空白のまま。
「詰まりと逆転では、施工も変わりますか」
「変わります」
「何を見つければ分けられますか」
「付着物の厚さより、表と裏を見ます。流れが一方向なら、殻は受ける側へ育つ。向きが変わっているなら、同じ部材の両面に違う時期の層ができます。ただし、採る許可はまだ出しません」
「止めずに表裏だけ確認できる範囲は」
「外周から照明が届くところまでです。部材の間へ身体を入れる確認は、三港の負荷が残っている間は認めません」
「では、映らなければ未確認ですね」
「そうです。映像を得るための一歩を、診断の都合で足さないでください」
宮前さんは《映らなければ未確認》を調査条件へそのまま入れた。
宮前さんは、除去方法を聞かなかった。
「では映像で表裏を分けられる点まで。採取は別工程ですね」
外から来た人が現地の常識を一度で理解した、とは思わない。
海中施工では、見える位置と手を置ける位置が違う。止まって見える部材も、潮が返れば作業者ごと動く。地上で一人増えるのと、海中で一人増えるのは、必要な回収人数まで変える。
だから私は、彼の人数を潜水票から外した。
代わりに乾側へ残し、三港の板を同時に見てもらう。
それは配慮ではなく分業だった。
荷役棟の外で、冷蔵車が出た。
医薬原料の便だった。
一台目を出した後、二台目の車列が動かない。生鮮用の冷蔵車を医薬便へ回したため、加工先へ送る魚の箱が残っている。
荷主は港湾局へ、中央港だけでも通常へ戻せないかと求めていた。
「三港の停止なんて決まっていないんでしょう」
「決まっていません」
私は答えた。
「だから今は予防移送です。中央だけを元へ戻す判断も、まだしません。片側逆転なら、ここで押した負荷は別の港へ行きます」
荷主に海底の理屈を納得してもらうことは、今の私の仕事ではない。
冷蔵枠の残り時間、代替加工先、補償の記録を玲奈さんへ渡す。止める損失を小さくできなければ、正しい停止案も実行できない。
港湾技師は、流れだけを見ていればよい職ではない。
海中で安全な線を引いても、そのために医薬便が切れれば設備事故は別の被害へ変わる。生鮮品を全部通すために一港だけ負荷を上げれば、二港と海中班へ危険を移す。
私が選べるのは、誰も損をしない案ではなかった。
今の中央港を限定運転に置き、地上輸送の費用と生鮮の損失を先に出す。その代わり、原因の分からない流れへ潜水班を入れず、医薬便は使える状態で渡す。
損失欄へ自分の担当名を入れた。
宮前さんに反証するだけで、その費用を玲奈さんと荷主へ渡しては、現地の判断にならない。
反証には、採らなかった案の損失まで持つ責任があった。
真央さんが、候補範囲の比較画面を作った。
私は一度、公開表示を止めた。
「潜水班の帰路が分かる層は外してください。公開するなら、原本を固定して全員が帰った後です」
「調査版と公開待ち版を分けます。逆転は断定にしますか」
「しません。現地仮説です」
宮前さんの詰まり案も、私の逆転案も、潜水班を正解へ連れていく保証ではない。
ただ、二つの仮説で危険になる方向は違う。
その違いを残せば、外れた時に人を帰せる。
三範囲のうち、深い窪地の映像を過去台帳から開いた。
点検は半年前で、流れは正常だった。
窪地の上を、薄い殻を背負った運搬種が群れで横切っている。人へ向かう種ではない。海底迷宮の残渣を集め、外周の繁殖域へ運ぶ。
昨日の映像では、その群れが白い線の手前で向きを変えていた。
群れの経路を二つ重ねる。
流れの逆転を挟む三範囲の中心と、繁殖域が重なった。
「最短線は使えません」
私は調査図を獅堂さんと潜水班長へ渡した。
逆転の起点候補は、魔物の繁殖域を横切っていた。
だから、最短が安全とは限らなかった。




