乾いた側から海底を見る
潜水装備の申請欄には、俺の資格を入れる場所がなかった。
港湾海底迷宮の外周へ入れるのは、海中迷宮の潜水資格と、この港の流路講習を両方持つ人だけだった。
俺はどちらも持っていない。
保守士であることも、海浜迷宮で潮の戻りを見たことも、代わりにはならなかった。
「映像を見ながらなら、後ろから入れませんか」
港湾局の連絡担当が聞いた。
岸本さんは、俺が答える前に申請画面を閉じた。
「入りません。後ろに一人増えれば、潜水班の回収時間が増えます。海中で宮前さんを守る人も必要になる。観測が一つ増えて、退路が二つ減ります」
「俺も同じ意見です」
海底へ行けないことを、遠隔映像で行ったことにはできない。
俺の担当は、乾いた側に残る反応を分け、海中班が自分の判断に使える比較だけを渡すことだった。
荷役棟の奥に、営業床から切り離された三枚の戻り板がある。
人の設備で作った板だが、海底迷宮から返る熱と位相の順番を、中央、東、西の三港ごとに受けている。
普段は数値だけが港湾局へ送られ、板そのものを見る人は少ない。
今朝は三枚の前へ、現地設備員、真央さん、俺が一人ずつ立った。
同じ観測手順を三回繰り返すためではない。
中央港では、荷を通した後の左の遅れを見る。
東港では、中央港の荷を減らした時に何を受けるかを見る。
西港では、どちらも動かしていない時間に残る脈を見る。
目的が違うので、正常記録も別だった。
中央港の正常記録は、同じ曜日の朝便から選んだ。
東港は緊急搬送がない夜間の記録。
西港は、潮の向きが今日と同じ日だけを残した。
三枚を平均すれば滑らかな一本になる。滑らかになった線は、どの港の正常でもない。
俺は一枚ずつ、使えない条件へ灰色の札を付けた。
《集中便あり》
《潮向き不一致》
《保守後で比較不可》
残った記録は少なかった。
少ないことを、自分の耳で補わない。
岸本さんが海上の潮流図を机へ広げた。
海中班の映像は、地上へ届くまでに少し幅がある。
俺たちが「今」と呼んでいる画面も、潜水員の現在位置そのものではない。
真央さんは映像の隅へ、撮影時刻、受信時刻、遅れ幅を分けて出した。乾側の戻り板と重ねる時は、受信時刻ではなく撮影時刻の帯を使う。
帯が重ならない反応は、同じ出来事として結ばない。
映像が鮮明であることと、同時に見えていることも別だった。
「外周点検班は、海底迷宮の内側へ入りません。既設の観測点まで。今の潮なら一回、短い比較ができます」
「採ってほしいのは三つです」
俺は画面に場所を書かず、現象を置いた。
「中央港の戻りが二方向へ分かれた後、どちらが先に冷えるか。外周の殻や残渣が、流れのどちら側へ付いているか。負荷がない時にも、戻りが逆向きへ動く瞬間があるか」
潜水班長の声が限定回線から返った。
『場所の指定は岸本技師から受けます。こちらで近づけないと判断した点は、欠測で返します』
「お願いします。欠測をゼロにはしません」
俺が欲しい値を増やせば、海中で止まる時間が長くなる。
原因を当てるための映像ではなく、仮説を捨てるための差に絞った。
潜水班長から、一つ差し戻しが来た。
『殻の付着方向は、映像だけでは表裏を取り違えます。観測柱の番号と、潜水員が見た面を別に記録します。映像から方向を決めないでください』
俺は依頼欄を直した。
《殻の向き》を、《柱番号・観察面・付着の厚薄》へ分ける。
海中班は俺の目の代わりではない。
自分たちの現場で、こちらの質問が成立する形へ翻訳していた。
最初の外周映像が来るまで、白瀬さんは荷の移送を進めた。
医薬原料の白い保冷箱は、地上車へ積み替えられている。
積替え担当は、急いで箱を一台へまとめなかった。保存条件の異なる一箱を見つけ、研究所の受取確認が届くまで冷蔵区画へ戻した。
早く運ぶことと、使える状態で渡すことは別だった。
魚の箱は、競りへ間に合う三箱だけを近隣の地上便へ回した。
残る箱の前で、荷主が受入先へ電話している。値が下がるから転移床へ戻せと言わず、冷蔵履歴が保てる加工先を選んだ。
一番傷みの早い二箱には、補償査定の札が付いた。
港を守るための予防移送は、何も失わない作業ではなかった。
真央さんの画面へ、海中班の映像が入った。
照明の円の外は黒い。
映っているのは、人間が設置した外周の観測柱と、その根元を横切る薄い殻だけだった。潜水員の顔、回収路、船からの位置は調査版にも出していない。
殻は一方向へ寝ていない。
上半分は中央港側へ倒れ、下半分は逆に起き上がっている。
『現在点、進入可能』
潜水班長は映像の説明をしなかった。
岸本さんが位置と潮を確認し、次の観測点を指定する。俺は戻り板を見た。
中央港の左が温まる。
一拍遅れて東港の板が冷え、西港はほとんど動かない。
中央港で戻らなかった分を、東港が受けたように見えた。
見えただけだ。
同じ時刻に東港で一件、緊急の医薬搬送が入っていた。人工負荷を分けなければ、海中からの戻りか荷役の影響か決められない。
「東港の一件を除いた時間帯が欲しいです」
「今、止められる搬送ではありません」
白瀬さんが言った。
「患者側の受入れが済むまで、医療便を測定のために遅らせない。欠測扱いにします」
比較より人を優先したことで、東港の一列は空白になった。
その空白を、都合のよい平常値で埋めなかった。
二つ目の映像では、観測柱の裏に細い結晶が付いていた。
海中班は採取しない。外周点検の許可は映像と既設計器までで、現物へ触れる作業権限はない。
光を当てる角度だけを変えると、結晶の根元に暗い筋が見えた。
俺の仮説どおり片側が詰まっているなら、流れに押された殻は、抵抗の手前へ厚く付くはずだった。
映像では、薄い方が手前にある。
厚い側は照明の外で、確認できない。
「この映像で詰まり位置は決められません」
俺は仮説欄へ追記した。
《付着方向は片側閉塞案と一部不一致。厚さ未測定》
潜水班は三つ目の観測点へ移った。
岸本さんが、回線へ潮の変化を伝える。
『予定点まで行けます。ただし、帰路側の流れが先に変わったら、映像を残して戻ってください』
判断は潜水班長へ返された。
画面が一度暗くなり、遠くに白い線が現れた。
人類の観測柱ではない。
そこへ近づく許可は、まだ出ていなかった。
海中班は距離を保ち、流れだけを記録した。
俺の画面では、白い線の正体を拡大できた。
拡大すれば輪郭は太くなるが、照明の外にある厚さは増えない。
見えていない部分まで補正する機能を真央さんが切った。きれいな線を作らず、黒い欠けを原本のまま残す。
乾いた部屋では、その黒い部分を原因だと思いたくなる。
海中班にとっては、近づかないと決めた範囲だった。
予定では、そこからもう一度だけ照明を振ることになっていた。
潜水班長は実施しなかった。
『帰路側の線が、上だけ先に緩みました。三点目はここまで。欠測で返します』
岸本さんは了解だけを返した。
獅堂さんも、残り時間があるとは言わなかった。
地上の入場票で、三点目の欄が《未到達》ではなく《境界外から流れのみ確認》に変わる。
何も見なかった空白と、危険を見て近づかなかった結果は別だった。
細い浮遊片が白い線へ向かい、途中で止まる。
次の瞬間、同じ片が来た方向へ戻った。
乾いた側の板が動く。
俺は中央港の左が先に温まり、右が遅れて冷えると予想していた。
片側閉塞なら、抵抗の手前へ熱が溜まり、抜ける側が先に戻るはずだった。
実際は逆だった。
中央港の左が先に冷え、その後で右が温まった。
海中映像の浮遊片も、冷えた側から押し戻されている。
「時刻を切ってください」
真央さんが、映像、戻り板、三港の荷役原本を別々に固定した。
岸本さんは潜水班へ、予定どおり帰還を指示した。
追加観測を求めなかった。
海中班が上がる間、現地設備員は戻り板の周りを閉鎖した。
潜水映像が切れたからと、営業荷を試しに一つ流さない。比較中の床が自然に冷えるまで、医薬便も生鮮品も地上側の行先を維持する。
一人目が退出札を返す。
二人目が映像器と観測具を別々に返す。
岸本さんが、人数、機材、未到達点を照合して外周点検を閉じた。
俺は海中班の完了欄へ署名しない。
乾側の比較依頼者として、受領した三つの値と、一つの欠測だけを確認した。
調査班が外周から戻るまで、俺は仮説を原因欄へ移さなかった。
片側が流れにくい、までは残る。
だが、単純な詰まりなら説明できない。
戻ってきた一か所の値は、俺の予想と逆だった。
その逆を見つけたのは、俺が海中を見通したからではない。
潜水班が依頼を直し、危険な一点を欠測で残し、乾側の現地設備員が同じ時刻の板を閉じたからだった。
分からない一か所を残したことも、この調査で持ち帰った結果だった。
その空白は消さない。




