潜れない保守士
潜水班が海へ出る間、俺は荷役棟の二階から一歩も動かなかった。
一階には中央港の戻り板。
二階には真央さんの映像層と、岸本さんの潮流図。
窓の外に海は見えるが、港湾海底迷宮の外周は水面の下だった。
見えない場所を、頭の中で完成させないようにする必要があった。
手元の紙には、三点の間を線で結ばなかった。
観測柱の反応。
白い弧の位置。
運搬種が避けた範囲。
並べれば輪に見える。
だが、輪に見えることと、部材がつながっていることは別だった。海底地形で流れが回り、離れた部材が同じ曲率に見えている可能性もある。
俺が線を描けば、次の人はその線を設備だと思って読む。
未確認の間は、空白のまま残した。
「三点を同じ図へ入れます」
真央さんが言った。
「ただし、同時映像にはしません。前回と今回で潮が違います。位置の層、流れの層、付着の層を分けます」
画面の左に、人間が置いた外周観測柱。
中央に、浮遊片が戻った白い線。
右に、運搬種の繁殖域と深い窪地。
岸本さんの図では、潮流の矢印が時刻ごとに色を変えている。
今の矢印を固定すると、潜水班が到達する頃には古くなる。そこで矢印の先ではなく、向きが変わる境だけを帯で示した。
「基準点。観測柱の外側」
岸本さんが回線へ送る。
「人間設備の既知範囲。ここで映像、帰路側の線、上下の流れを確認。採取なし」
潜水班長が、自分の言葉で返した。
『柱の内側へ入らない。帰路側が先に緩んだら到達前でも戻る。映像がなくても撤退する』
復唱は、言われた文章をそのまま読むためではなかった。
海中で何を見て、誰が中止するかが、地上の予定と一致している。
獅堂さんは、地上の回収路を確認していた。
海中の撤退判断へ口を出さず、戻ってきた人をどこへ上げ、次の班を何人残すかを決める。
俺の役目は、三点それぞれで何が分かれば次を捨てられるかを伝えることだった。
「基準点で片側だけが逆なら、第一調査点へ行く理由が残ります。上下とも同じ向きなら、逆転境界をここより内側と考え直します。どちらでも原因は確定しません」
『了解。答えは持って帰りません。差を持って帰ります』
潜水班長の返事の方が短く、正確だった。
岸本さんが少しだけ口元を緩めた。
賞賛ではなく、同じ仕事の言い方が通じた反応だった。
基準点の映像では、観測柱の上と下で流れが分かれた。
上は中央港側へ。
下は沖側へ。
乾側の戻り板も、中央港の右と東港が反対の順で動く。
岸本さんの片側逆転案に合う。
だが、潮だけで起きる正常な短時間逆転との違いは、まだ分からない。
現地設備員が、三年前の保守映像を出した。
同じ潮向きで、観測柱の上下が一度だけ逆へ流れている。
その時は、下が先に戻り、乾側の板も一回で揃った。今日は逆転したまま、次の荷役負荷まで残っている。
異常なのは逆転そのものではなく、正常な終わり方をしないことだった。
俺は《逆転発生》ではなく、《逆転解消遅れ》を比較欄へ入れた。
「第一調査点へ」
岸本さんが言う前に、潜水班長が報告した。
『帰路側は保持。第一調査点まで継続可』
続行判断は海中から出た。
最初の調査点は、前の映像で白い線が見えた場所だった。
真央さんは、画面へ輪郭補正を掛けなかった。
原本の明暗だけを残し、潜水班が照明を動かすたび、白い線が現れたり消えたりする。
俺は線の形より、浮遊片がどこで速度を変えるかを見た。
左から来た片は、線の手前で沈む。
右から来た細い殻は、線を越えてから一度止まり、上へ持ち上がる。
同じ線が壁なら、両方とも手前で止まるはずだった。
「通れない境ではありません」
俺は仮説欄へ入れた。
「流れの向きを変えているか、周囲の流れがそこで合っている。部材か地形かは未確認です」
岸本さんが、海底地形の記録を重ねた。
「天然の段差はこの外です。十五年前の初期図でも、ここは平らだった」
「では、人間設備ですか」
白瀬さんが聞いた。
「私たちの施工記録にはありません」
岸本さんはそこで、古い図面を信用し切らなかった。
港の建設前に別の調査班が置いた観測材、撤去記録のない仮設、海底迷宮が出現した時からあった構造物。人間由来の候補を三つ残した。
真央さんは港湾局の公開資料だけで結論を出さず、調達台帳と撤去原本へ照会を分けた。
今すぐ答えが返る資料ではない。
だから海中班へ、材質を採って確かめろとも言わなかった。
人間が作っていないことと、迷宮設備だと確定することは同じではない。
過去図が不完全な可能性も、別の所有者が設置した可能性もある。
真央さんは《施工者不明》とだけ付けた。
『表側を確認します』
潜水班が、線から距離を保って照明を回した。
白い部分は一本ではなかった。
曲がっている。
画面の外へ弧を描き、暗い海底の下へ続いていた。
そこへ薄い結晶が重なり、線の境を曖昧にしている。
「近づかないでください」
俺は反射的に言いかけた。
回線を開く前に止めた。
距離と撤退条件を決めるのは岸本さんと潜水班長だ。俺に言えるのは、追加で欲しい映像があるかどうかだけだった。
「今の距離で、弧の裏側が映せますか。近づく必要があるなら不要です」
『今の位置から照明だけ回します。身体は線を越えません』
返ってきた映像で、弧の裏側に別の層が見えた。
表は白い。
裏には青黒い筋があり、その上へ古い結晶が薄く重なっている。
岸本さんが言った両面の層だった。
一方向の流れで手前に詰まっただけでは、説明しにくい。
「逆転は濃厚へ上げます」
俺は原因欄ではなく、仮説の確度だけを変えた。
「部材の機能と、逆転を始めた原因は未確認です」
環状部材が流れを作っているのか。
流れが環状部材の周囲を回っているだけか。
そこも分からない。
人類以前の設備だとすれば、知らない文明の部材を、ビルの循環管と同じ名前で呼ぶ方が危険だった。
俺は図の表題を《環状流路》から、《環状部材周辺・流れ未確定》へ変えた。
名前を長くしたのは、理解が進んだからではない。
分からない範囲が具体的になったからだった。
白瀬さんは、三港停止の予備表へ新しい条件を追加した。
《施工対象の確定前に停止時刻を決裁しない》
止める準備を進めながら、正体不明の弧を見つけただけで三港を止めない。
一方、荷役を通常へも戻さない。
医薬便は地上へ、生鮮は冷蔵余力へ、通常貨物は入港順で待機を続ける。
岸本さんと真央さんは、第一調査点の映像を使って残る二点を絞った。
二点目は、弧と繁殖域の外縁が最も近づく場所。
三点目は、乾側の戻りが逆へ動いた時だけ流れの影が出る、深い窪地の手前。
三つとも原因候補ではない。
第一点は部材の表裏。
第二点は運搬種の動線。
第三点は逆転が部材の内外どちらで始まるかを見る場所だった。
最初の案では、弧に沿って細かい観測点が七つ並んでいた。
真央さんが映像の重複を消すと、四つは同じ暗部を別の角度から見ているだけだった。
岸本さんは、潮が変われば位置の意味を失う二つを外した。
俺は、どちらの仮説でも結果が変わらない一点を外した。
残ったのが三つだった。
点を減らした分だけ海中班の滞在が短くなり、一点ごとに「見えなければ帰る」を置けた。
第一点を選んだのは近いからではない。そこで部材の表裏が分からなければ、残る二点へ進んでも逆転と閉塞を分けられないからだった。
同じ観測を三回行う配置ではなく、違う仮説を一つずつ外す三点になった。
「今日は第一点までです」
岸本さんが言った。
「残る二点は、作業帯と次の潮を組み直してから。今の入場許可を延ばしません」
潜水班長が、帰路側の線を確認した。
『第一調査点、映像取得。帰還します』
獅堂さんは残り時間を尋ねず、地上の予備班へ回収準備を出した。
調査点を三つに絞ったことと、今日三つへ行くことは別だった。
真央さんが、第一点の原本を一コマずつ戻した。
白い弧の切れ目に、人間設備ならあるはずの継手も固定具もない。青黒い面は海底の暗い層へ連続し、照明の外へ同じ曲率で回っている。
岸本さんが、最初の港湾工事写真と調達台帳の速報照会を並べた。
同じ場所へ人間の部材を運んだ記録はなく、あの曲率と表面を持つ観測材や仮設も出てこない。
記録の欠落だけなら、人間由来の可能性は残った。
だが接合部を持たず迷宮層へ続く表面は、港湾設備の構造ではなかった。
岸本さんは《迷宮由来部材・機能未確認》へ仮分類した。
第一調査点から、人類の設備ではない環状部材が映った。
画像が一枚増えても、潜れるようにはならない。
俺は次の調査点も、施工方法も決めなかった。
映像原本、岸本さんの潮流図、潜水班の身体で得た流れ、乾側の戻りを別々に閉じる。
つなぐのは、同じ時刻に確認できた範囲だけだった。
潜れない俺が埋めてよい空白は、一つもなかった。
線は引かなかった。




