宮前を呼べない谷
朝倉さんへ送れなかった文章は、端末に残ったままだった。
《二事象のまま扱ってください。現在位置から新しい確認へ入らず――》
そこから先は消した。
地上回線が落ちた後に正しい助言を完成させても、森林迷宮の中には届かない。届かない指示を作る時間で、外にいる班が一つ動ける。
「内部十一名です」
真央さんが入場原本を二枚に分けた。
試験班は五名。朝倉さん、柏木さん、名取さん、片桐さん、戸田さん。最後の音声では全員負傷なし、外周観察所の退避壁内側だった。
別に、奥作業区の林業班六名。試験開始前から材の選別と設備巡回に入っており、事故切替の表示を受けて奥の避難区画へ移る予定になっていた。こちらは試験用の通信ではなく、現地の入退場札で地上側も把握している。
五人が孤立してから、隠れていた避難者が見つかったわけではない。
初めから二つの集団が、土砂の反対側にいた。
「奥の六人に負傷記録はありません。ただし、避難区画への帰着確認は現地盤の表示だけです。音声なし」
「表示が更新された時刻は」
「回線断の四十秒前。六名。以後は不明です」
分かっている人数は十一。
現在を確認できた人数は五。
その差を、たぶん避難済みという一行にしなかった。
地盤班が、斜面の上から戻ってきた。土を掘ったのではない。木の間に置いた標識と、地表に開いている古い水抜き口を外から見ていた。
「正規路の上は、まだ動いています」
班長は泥の付いた図面を広げた。
「大きく滑る段階は過ぎたように見える。ただ、仮設床材の下へ水が寄っている。今、入口側を除けると、その奥が落ちる可能性があります」
「救助班の進入は」
獅堂さんが聞いた。
「許可できません。山側の保守口も、途中の地面を確認するまで人は通せない」
獅堂さんは救助具を戻さなかった。二組を入口と山側に残し、黄色線だけをさらに下げた。
入れないことは、救助をやめることではない。
入れる条件が変わるまで、次に使う道を守る仕事だった。
白瀬さんは片桐さんが事故前に持っていた許可票を開いた。
通常の試験許可は、本人がすでに失効させている。その下に、通信断時の現地中止権があった。
《退避線への生態侵入》。
《観察柱の前回幅逸脱》。
《比較条件の喪失》。
《通信二系統のうち一系統喪失》。
試験を始めない条件として、森林迷宮へ入る前に五人が読み合わせたものだ。二系統を失った時は、地上の返答を待たず、試験区画と次の利用負荷を現地責任で止められる。
止められる範囲も書いてある。
外周観察所から入口までの試験区画。正規路へ入れる次の搬出負荷。奥作業区全体の停止や迷宮の全面隔離は含まれない。
「片桐さんの現地緊急条項は有効です」
白瀬さんが言った。
「こちらから承認を送り直す必要はありません。取消しもできません」
答えが届かない時に、権限まで地上へ戻る設計にはしていなかった。
久世統括官は救助本部の端末越しに、許可票の時刻と署名を確認した。
『研修生だから停止を保留する、という扱いはしないでください。現地条項で行った停止は、通信復帰後に記録で監査します』
合格させるための特例ではない。
事故中に、肩書を理由として権限を消さない確認だった。
森林迷宮の設備員が、地上詰所の裏へ回った。斜面から突き出た短い送気筒に、細い観測布が付いている。奥の避難区画へ直接空気を送る設備ではない。迷宮内の風が正規の戻りへ抜けていれば、地上側で布が一定方向へ引かれる。
今は、泥を含んだ風に揺れていた。
「奥の空気は、これで分かりますか」
俺は聞いた。
「量までは分かりません。向きだけです。避難区画の盤は別にあるが、あちらでしか読めない」
「では、地上では向きを記録します」
正常時の映像を真央さんが出した。
搬出前は谷側へ細く引かれる。通常搬出中は一度緩み、終了後に同じ向きへ戻る。昨夜の雨の記録では振れ幅が大きいが、逆には向いていない。
現在は、谷側と迷宮側の間を決め切れずに震えていた。
その横で、斜面の土が小さく落ちた。
地盤班が全員を送気筒から離した。設備員も布を直しに行かなかった。観測具がずれていても、危険線を越えて正す値ではない。
地上側でできる支援を三つに分けた。
山側保守口の外へ、六人分ではなく十一人分の水、照明、保温具を置く。内部から開けられた場合だけ使い、外から扉を動かさない。
正規路入口では、土砂を除けず、二次崩落の範囲を更新する。地盤班が許可を出すまで救助班を入れない。
通常搬出は停止を続ける。翌日の増便へ振り替えず、材は別の集積所へ地上搬送する。
山側へ物資を運ぶにも、森林迷宮の設備が要った。
通常は切り出した材を谷へ下ろすための搬出索が、地上詰所の上を通っている。現地の設備員は索の経路を図面で選ばず、斜面に立つ三本の支柱を地盤班と外から見た。真ん中の支柱だけ、事故前の写真より谷側へ傾いている。
そこへ十一人分の荷を載せれば、救助物資が斜面を引く側になる。
「索は使えません」
設備員は運転鍵を抜いた。
代わりに、山側の林道へ回れる別班が、保温具と水を背負って保守口の外まで運ぶ。到着には時間がかかる。早い搬送方法が現場にあっても、今の地盤で使える設備とは限らなかった。
通信班も、切れた既設線をつなぎに行かなかった。
断線位置は仮設枝道との境に近い。黒い被覆線の端が土砂から見えているが、引けば内側の残りまで動く。入口側から継ぐ案を閉じ、山側の退避塔へ臨時線を回せるか、地盤を踏まない経路だけを調べた。
「回線が戻るまで何分ですか」
白瀬さんが聞いた。
通信班長は予定を作らなかった。
「山側の経路確認後です。今は未定。切れた線へ触れば早い、という案は採れません」
通信断は、宮前の答えだけを現場から取り上げたわけではない。
人数の更新、空気の値、物資の到着、救助開始時刻も同時に取り上げていた。だからこそ、内部が事前の条件で止まれることと、外部が推測で線を越えないことの両方が必要だった。
小暮さんは奥の六人の勤務表を開き、家族連絡を自治体窓口へ回した。無事と断定せず、入場確認時の人数、最後に避難表示が出た時刻、現在は通信できないことまでを同じ文面にした。
事故の外でも、待つ人の時間は進んでいた。
内部の原因を当てる作業は、一つもなかった。
俺が聞いた底音も、土砂の下では使えない。入口側の太い落下音が、奥の細い返りを隠している。聞こえない奥を《系統把握》で補うことはできなかった。
「宮前さんなら、どこを止めますか」
小暮さんが聞いた。
現地へ送る質問ではない。地上側の準備範囲を決めるためだった。
「最後の記録だけなら、外周の搬出負荷を止めます。奥は人がいるので、空気の確認なしに全面隔離しません」
「朝倉班も同じにすると思いますか」
「分かりません。こちらにはない観測を持っています」
同じ判断をすることを、訓練の成功条件にはできない。
中で見た事実が違えば、止める範囲も違う。
俺は送れなかった文章の続きを、支援票の未確認欄へ移した。
《五人の現在位置、更新なし》。
《奥六人の送気、地上で量は測定不能》。
《仮設枝道の水受け機能、未確認》。
助言の形では役に立たなくても、救助路が開いた時に最初に確かめる項目にはなる。通信が戻る前に答えを作るのではなく、戻った人から受け取る順番だけを残した。
十一時十二分、地上の観察柱が下がり始めた。
警報が消えたのではない。上昇の傾きが止まり、前回幅の上端で横になった。通常搬出は入れていない。地上側も、迷宮圧へ触れる作業はしていない。
森林迷宮の設備員が、送気筒の布を見た。
迷宮側へ震えていた端が、一度だけ谷側へ引かれた。
「一区画、落としたな」
表示がないままでも、停止への戻りは出ていた。
朝倉班がどの設備を使い、誰が決裁したかは分からない。だが新しい負荷を止め、入口側の一区画を隔離した時に出る反応と合っている。
土砂の落ちる間も、少しずつ長くなった。
地盤班は安定とは呼ばなかった。監視継続へ変えただけだった。
止まったことで、安全になった範囲は増えた。
同時に、送気筒の観測布が垂れた。
谷側へ引く風が消えた。
森林迷宮の設備員は正常映像を見直し、首を横へ振った。
「外周を落とすと少し弱ることはある。ここまで止まる記録はない」
山側へ回した物資班から、保守口前への到着だけが入った。扉は内側から開いていない。外からこじ開けず、水と照明を番号順に並べ、誰かが出た時に人数を取り直せる位置で待った。
救助物資が届いたことも、内部の無事を証明しなかった。
誰も黄色線を越えなかった。
奥の避難区画に六人いる。
朝倉班が一区画を止めた時の反応とは合っていた。どの枠を誰の鍵で止め、停止が成立したかはまだ確認できない。
地上で確かなのは、圧の上昇が止まった一方、奥へ返る風まで観測範囲外へ落ちたことだけだった。




