獅堂の入場試験
診断点が一番高かった瀬尾を、俺は入口で不合格にした。
異常を見落としたからではない。
退避済みの人数へ数えられた後、黄色線を越えて現場へ戻ったからだ。
俺――獅堂蓮司が試すのは、故障の答えではない。直せるかどうかも、戦えるかどうかも採点しない。
人が現場へ入る前に、入らない条件を決められるか。
退避を命じられた後、自分の判断でそれを取り消さないか。
その二つだった。
森林迷宮の実地試験は、入口から外周観察所までの正規路に限った。赤札のない仮設枝道は範囲外。昨夜置いた携帯中継器の往復確認が取れなければ、開始しない。通常搬出は止まっており、地上詰所には救助班と現地設備員を待機させた。
宮前は地上側にいる。研修生と同じ記録を取るが、答えは送れない。
俺の合図で事故回線へ切り替えれば、試験はその場で終わる。
安全な試験とは、事故が起きないと信じる試験ではない。予想していない変化が出た時、採点を捨てられる試験だ。
最初は、全員で入口まで来た。
前日の雨は上がっていたが、低木の葉から水が落ちている。正規路の人工床は乾き始め、仮設枝道との境だけ色が濃い。地面の奥では、十一分ごとの底音が短く鳴った。
底音があること自体は、昨日の正常記録と同じだ。
土が湿っていることも、すぐには異常にしない。
ただし、条件が違う。雨の翌日に、この範囲で人を入れた記録はまだない。
俺は最初の黄色線を、予定より入口側へ置いた。
「昨日と違います」
朝倉が言った。
「違う。理由は?」
柏木が、仮設枝道との境を見た。
「正規路は見えています。でも分岐側の低木が濡れて、動いた時に奥が隠れます。地上から二人同時に見えなくなる」
「それでいい」
線の位置に正解の距離はない。
今日の視界で、外から人数を数えられるところが線になる。
試験は一人ずつの技能競争にしなかった。五人が入るなら、五人で戻れなければ全員の進入が成立しない。だが、個人の違反を班全体の恥にもさせないため、開始前の確認だけは順番に行った。
瀬尾の番では、柏木が外側の確認者になった。
瀬尾は線の内側へ入る前に、正規路の泥跡を見た。前日より運搬種の向きが散っている。仮設枝道から正規路へ戻った跡はあるが、観察所側から逆に入った跡も混じっていた。
「数が増えたとは言えません。往復ができた可能性があります。試験中、退避線へ入った個体が一体でもいたら、人を先に出します」
次に、観察柱の時刻と携帯中継器を照合した。
底音は記録された。
温度の斑は、雨の前日より狭い。
柱の返りは、無負荷の幅にある。
「底音は継続。温度は降雨後の比較がない。柱は現在範囲内。入るなら、温度を正常と呼ばず、線の内側で一回だけ記録します」
診断の採点は高かった。
入場前の判断も通った。
瀬尾と柏木が、黄色線の内側にある観察点へ入った。名取が地上側で設備記録を持ち、戸田が映像と時刻を取る。片桐は試験範囲の許可票を開いたまま、変更が出ればその場で効力を止める。
朝倉は次の組なので、俺の隣から二人の報告を聞いていた。
瀬尾は予定どおり温度図を一枚取った。
柏木が退避線と分岐を同じ画角へ入れる。
運搬種は現れない。
土も動かない。
試験時刻が終わり、俺は撤退を命じた。
「二人、出ろ」
柏木が先に黄色線を越えた。
「一」
戸田が数えた。
瀬尾が続いた。
「二。内側、ゼロ」
その時、瀬尾の記録札が風で転がった。
薄い札は黄色線を越え、観察点の手前で止まった。時刻と温度図の原本番号が書かれた一枚だった。
瀬尾は一歩で取りに戻った。
速かった。
俺より近かった。
危険個体もいない。土の動きもない。札を拾うだけなら、八秒も要らなかった。
だが、戸田の記録では、内側の人数はもうゼロになっていた。
柏木は戻った瀬尾を見て、黄色線の外で足を止めた。戸田は確認済みの人数を取り消す。名取は訓練用の隔離幕を下ろす動作を止めた。
一度終わった退避が、誰の宣言もなく開き直った。
俺は笛を鳴らした。
試験停止の短い音だった。
瀬尾は札を持って外へ戻った。俺は再び二人を数え、線の内側を目視し、試験区画を閉じた。
予定した退避時間を十七秒越えていた。
十七秒が危険だったから不合格なのではない。
何秒延びるか、外にいる人間が知らなかったからだ。
昔、深層の討伐で、俺も同じことをした。
退避の途中で誘導具を落とした。俺なら取りに戻っても追いつける。実際、追いついた。
だが、後衛の一人が俺を待った。さらに一人が、その後衛を置いて帰れなかった。
俺一人の八秒が、三人の停止になった。
最後尾が攻撃個体を受け、帰還後に腕を固定することになった。俺が敵を倒した数は記録に残ったが、落とした物を諦めなかった判断も事故記録に残った。
戦える人間ほど、自分だけなら戻れる距離を長く見積もる。
安全担当が教えるべきなのは、その計算を上手くする方法ではない。
計算を始めない線だ。
「瀬尾、別室へ来い」
ほかの研修生の前で点数は読まなかった。
映像のうち、戻った場面だけを本人と確認した。
「札を残せば、記録が欠けます」
瀬尾は言い訳ではなく、戻った目的を話した。
「そうだ」
「観察点のごみにもなる」
「それも事実だ」
「では、どうすればよかったですか」
「外から申告する。札は現場に残った物として位置を記録する。回収のために再入場するなら、人数と許可を最初から組み直す」
札一枚を諦めろ、とだけは言わなかった。
残した物には赤札を付ける。
回収は、退避の続きではなく次の入場になる。
「診断点は取り消さない。だが今日の入場試験は不合格だ。再試験は別日にする」
瀬尾は視線を落としたが、俺は慰めなかった。
合格扱いにする方が、彼の正しい診断まで危険な見本に変える。
「今日の記録は、班へ渡していいですか」
「事実と未確認を分けて、自分で引き継げ」
瀬尾は、温度図、往復する足跡、回収した札を分けた。自分の違反映像を教材へ使う範囲にも署名した。顔と所属は研修外へ出さない。真央は違反の瞬間だけを見世物にせず、人数確認が取り消され、隔離幕が止まったところまで残した。
残る五人の試験は続けた。
瀬尾を落とした基準を緩めない代わりに、診断記録を捨てもしなかった。
五人の最初の開始合図は、出なかった。
戸田が携帯中継器へ確認時刻を送り、地上の記録端末に同じ時刻が返った。表示だけなら二系統とも正常だった。
だが柏木は、黄色線を越えなかった。
「私の声が返っていません」
彼女の端末では、地上からの音声は聞こえる。地上側では、柏木の返答だけが途中で欠けていた。
一方向でも届けば連絡できる、とは数えない。内部が危険を報告できなければ、地上から指示を送れることに意味はない。
「試験時刻は減っています」
片桐が許可票の残りを見た。
「直ったら、短い範囲で始めますか」
俺は答えなかった。
決めるのは入る側だ。
朝倉が首を横へ振った。
「原因を確かめず、次の確認だけ通っても入りません。一度中継器を試験から外して、別の端末で地上側と往復を取り直します」
名取は中継器へ駆け寄らなかった。まだ試験開始前でも、仮設枝道との境に置いた機材へ不用意に近づけば、入場確認そのものが必要になる。
現地設備員が正規路の外から表示を確認し、交換用の端末を別の自立台へ置いた。古い方はその場で直さず、《片方向欠け・使用しない》の札を付けた。
戸田は、二台目の成功記録で一台目の欠けを上書きしなかった。
片桐は最初の許可時刻を閉じ、観察点を一つ減らした短い許可を出し直した。失った時間を、退避時間から借りなかった。
柏木は二往復の声を聞いてからも、すぐ線を越えなかった。
「地上、内部、記録、三者で時刻一致。今から入場確認をやり直します」
一度入らなかったことで、診断点は増えない。
だが俺の試験では、その待ち方が合格の土台だった。
昔の俺なら、声が片側だけ届くなら手信号を足し、予定時刻へ間に合わせただろう。戦闘班は、足りない物を技量で埋める訓練もする。
保守班を帰す時、同じやり方は使えない。
見えている間だけ通じる合図は、見えなくなった時の退路にならない。
朝倉、柏木、名取、片桐、戸田は、瀬尾の観察を前回記録として受け取った。柏木が進入安全、名取が現地設備との照合、片桐が許可範囲、戸田が時刻原本を持つ。朝倉は、それらから次に始めない条件を読み上げた。
「運搬種が退避線へ入る。柱の返りが前回幅を外れる。携帯中継器の往復が一度でも切れる。仮設枝道側の土が正規路へ出る。このどれかで観察を中止します」
俺は人数を確認した。
五人。
地上側の確認者は俺と現地救助班。
通信は、経路未確認の既設線と、正規路に置いた携帯中継器。どちらか一つを失えば試験中止、両方を失う前に出る。
「入れ」
五人は黄色線を越えた。
誰も仮設枝道へ向かわない。
外周観察所までの正規路を進み、曲がりで一度止まる。戸田から、五人全員が携帯中継器の画角にあると報告が来た。
地面の奥で、低い底音が鳴った。
前回から十一分。
遅れて、斜面側から別の音が来た。
湿った布を太く裂くような音だった。
「全員、戻れ」
俺が言うより先に、柏木が内部で退避を出した。
映像の端で低木が沈んだ。
正規路と仮設枝道の間から土が噴き、既設の通信線が黒い弧を描いて引かれた。
戸田の声が途切れる。
携帯中継器の映像には、五人が観察所側へ下がる姿が一度だけ残った。
既設線の表示が赤に変わった。
合格班が森林迷宮へ入った直後、土砂で通信路が切れた。




