部品は山を越えない
「毛布ではなく、部屋を暖めてほしいんです」
篠原さんの旅館に残った客は、帳場でそう言った。
雪で帰りの便を失った家族だった。子どもは貸し出された上着を着たまま、ソファで眠っている。新館の暖房は動いているが、補助電力の上限が近づくたび、廊下と客室を交互に止めていた。
「温泉に入れないことは聞きました。でも、夜中まで寒いとは聞いていません」
返金を求めているのではなかった。
今夜ここへ泊まっても大丈夫だと、決められる温かさを求めていた。
その同じ時刻、共同浴場の待合室では、家に風呂のない住民が長椅子を二つ使っていた。暖房室としては開いている。けれど、浴槽へ続く戸は閉じたままだ。
川沿いの宿は、客を全員断っていた。だから熱を送らなくてよいかというと、そうではない。雪に近い戻り側を冷えたまま三日置けば、湯が戻った日に建物側が受けられないかもしれなかった。
坂上の小さな宿には、別系統の暖房がなかった。今いる客を篠原さんの新館へ移した後も、住み込みの従業員が二人残っている。
町側に残っている熱は、全部を同時に満たせる量ではなかった。
迷宮から短く届く熱の山を、人間側の戻り槽が少しずつ受けている。そのままなら、温泉街へ着く前に薄まり、どの施設でもぬるいまま消える。
稲葉さんが車庫から出した保温布と覆いは、受入れ不良を疑っている現用継手を直せない。
ただ、人間側の受け箱で散る熱を、低い負荷のまま一つの戻り槽へ集める仮設には使えた。熱を増やすのではない。届く先を、短い時間だけ絞る処置だった。
「共同浴場へ一度まとめれば、今夜だけでも入れる人は増える」
浴場の職員が言った。
「家で洗えない人が何人いると思ってるんですか。旅館の客は、お金を返して別の場所へ――」
「その別の場所へ行く道が止まっています」
篠原さんが遮った。
「それに、うちだけの話ではありません。坂上の宿は、今夜暖房を切れば従業員も出さなきゃならない」
「空の宿へ湯を回すのは違うだろう」
川沿いの宿の主人が、自分の宿の札を机へ置いた。
《客室使用なし》と書いてある。
「うちは人へ寄越せとは言わない。だが戻り側を凍らせたら、復旧の日に旅館全部の足を引っ張る。最低限、設備へ回す時間はくれ」
同じ一単位の熱でも、欲しい理由が違った。
浴場は、今夜洗える人を増やしたい。
篠原さんは、泊まっている客の暖房を切りたくない。
坂上の宿は、働く人の寝る場所を残したい。
川沿いの宿は、空にした建物を三日後も使える状態で渡したい。
四等分すれば公平になるわけではなかった。
白瀬さんが、四つの施設へ同じ幅の紙を置いた。
数字を入れるためではない。
今使っている部屋の鍵を、その上へ載せてもらうためだった。
篠原さんは新館の鍵を六本置いた。客室四つ、従業員の休憩室、現場班が交代で眠る一室。
坂上の宿から来た従業員は、鍵を二本持っていた。一つは自分たちが寝る部屋。もう一つは、凍結巡回の後に濡れた上着を乾かす部屋だった。
川沿いの宿の主人は、客室の鍵を一つも置かなかった。代わりに、機械室の古い温度札を紙へ載せた。
共同浴場の職員は鍵ではなく、暖房室を利用した住民の記録を置いた。名前は伏せ、来た時刻と、移動洗浄車を使えるかだけが書かれている。
同じ「一施設」が、紙の上で同じ大きさではなくなった。
「新館六室へ送り続ける案は取りません」
篠原さんが、自分の鍵を二本外した。
「家族客には続き部屋へ移ってもらいます。現場班の部屋も、夜番が戻るまで一つで足ります」
帳場の客へ説明すると、父親はすぐには承諾しなかった。
「また部屋を動くんですか」
「はい。今の部屋を温め続ければ、坂上の宿で働く人が今夜泊まれなくなります。ただ、お子さんが眠っている間は動かしません。目が覚めてから、荷物はこちらで運びます」
篠原さんは、安全を理由に客の不便を見えなくしなかった。
父親は眠っている子どもを見て、鍵を一本、白瀬さんの紙へ戻した。
「起きてからなら。廊下が暖かいうちにお願いします」
配分を決めたのは、設備側の数字だけではなかった。
熱を受ける人が、自分の不便と、ほかの場所の不足を同じ机で見た。
一方で、川沿いの宿の主人は、保全時間を短くする提案を断った。
「うちは空だから最後でいい。だが、最後に一度だけ、では駄目だ。冷え切る前と、夜半の戻りを二回見る。片方を削るなら、復旧初日の予約は戻さない」
客のいない宿が強く主張すると、取り分を欲しがっているように聞こえる。
けれど、主人が守ろうとしたのは今夜の売上ではなく、三日後に客を受けられる状態だった。
滝沢課長は二回の保全を残し、空の客室へ熱を送らないことを決めた。
決まった受入れ時刻は、旅館組合の事務所だけに置かなかった。
各施設の玄関へ同じ札を下げた。
《暖房優先》《設備保全》《受入れ休止》の三種類だけにし、次に札が変わる時刻を添える。自分の宿が待つ理由と、今どこへ熱が行っているかを、客も従業員も見られるようにした。
坂上の宿の従業員は、自分たちの札が《暖房優先》へ変わるまで、篠原さんの帳場で待った。先に回せとは言わなかった。
川沿いの宿の主人も、二回目の保全が終わると、自分で《受入れ休止》へ戻した。
公平さを、配った量だけでなく、待つ順番を隠さないことでも守った。
「浴槽は開けません」
滝沢課長が、閉じた戸の前で言った。
浴場の職員が言い返そうとしたが、滝沢課長は待合室の長椅子を指した。
「入浴一回に使えば、その後の暖房室が冷える。移動洗浄車は今夜から町内を回れる。足りないのは承知していますが、残る熱は、ほかに代えのない暖房と設備保全へ使います」
住民の一人が、風呂道具の籠を床へ置いた。
「三日、風呂なしってことかい」
「少なくとも明朝までは。明日も同じとは約束しません」
滝沢課長は、不満を安全という言葉で消さなかった。
浴場の職員は戸を開けなかった。代わりに長椅子を一つ壁へ寄せ、移動洗浄車が来る時刻を書く場所を空けた。
俺たちは、旅館の帳場と共同浴場を行き来して配分を決めた。
先に、人がいる場所の暖房を落とさない。
次に、無人の設備が壊れない時間だけ熱を通す。
同じ宿へ続けて送らず、町側の温度札が下がる前に受け先を休ませる。
順番を紙で読み上げたのではない。
篠原さんが新館の廊下を一つ閉めた。空いた分で、坂上の宿へ夜半まで熱を残せた。
川沿いの宿の主人は、客室ではなく戻り側の保全だけを選び、終われば自分で札を裏返すと言った。
共同浴場は浴槽を諦め、待合室の床と手洗いへ受ける範囲を絞った。
宿ごとの取り分ではなく、今夜失うものの順番が見えた。
仮設の保温布を付ける前に、稲葉さんは赤い札を出した。
新品ではない。
三年前の《再使用不可》とは別の、まだ色の濃い札だった。
「撤去するのは俺だ」
稲葉さんは自分の名前を書いた。
「部品が来た時点で外す。来なくても、明朝の強い山の前に外す。片側だけ温度が上がる、巣の穴が二つ止まる、町の戻りがいつもの差を外れる。その時も外す」
浴場の職員が札を見た。
「外したら、また全部冷えるんじゃないですか」
「だから外せない、って言い始めたら、これは仮設じゃなくなる」
「撤去を止める判断は誰がするんです」
「止める判断は作らん。延ばすなら、いったん外して別の処置として町に決め直してもらう」
応急処置に、延長できる空欄を残さなかった。
俺は札の裏へ、受入れ不良を疑う継手へ触れていないことを書いた。
これは修理ではない。
正規部品が山を越えるまで、残った熱の散り方を変えるだけだ。
獅堂さんが迷宮側の観測帯を確認し、白瀬さんが町の縮小営業と停止条件をつないだ。真央さんは、どの宿へ何分送ったかではなく、受け先を変えた時刻と各地点の温度を同じ記録へ置いた。
最初の短い山が来た。
覆いの内側で、冷えていた戻り槽が低く鳴った。
篠原さんの旅館では、廊下の補助暖房が一台止まった。それでも客室の扉の下から、温かい空気が細く出ていた。
共同浴場の待合室では、住民が膝掛けを一枚外した。
川沿いの宿の主人は、無人の機械室から戻り、《保全済》の札を置いた。
誰も、湯が戻ったとは言わなかった。
足りない熱で、今夜失わずに済むものを増やしただけだった。
二度目の山は、最初より弱かった。
三度目は、間がほぼ十一分空いた。
真央さんが固定記録の過去分を戻す。短い山は完全な等間隔ではない。けれど、十一分前後の反応を一晩重ねた後、明け方にだけ大きな山が来る形を二日続けていた。
稲葉さんの冬季記録にも、明け方の山はある。ただし、去年までは町へ熱が渡っていたため、十一分ごとの小さな反応は今ほど形がはっきりしていない。
「次に強くなるのは」
白瀬さんが聞いた。
「この並びなら、明朝です」
俺は答えた。
その山を仮設の布で受ければ、片側へ寄った熱を押さえきれない可能性がある。
正規部品は、まだ峠の向こうだった。
仮設でしのげるのは、次の強い十一分周期が来る翌朝までだった。




