湯気のない温泉街
温泉街に着いて最初に見えた異常は、見えないものだった。
雪の積もった瓦屋根にも、川沿いの共同浴場にも、湯気がない。
路線バスを降りると、濡れた木と石鹸が混じるはずの通りから、雪と消毒液の匂いしかしなかった。軒先の足湯には板が渡され、《熱源停止につき休止》と紙が貼られている。
全国照会の端末にあったのは、たった一行だった。
――迷宮の熱が消えた。
照会が届いた翌朝、市営班は最初の列車と代替バスを乗り継いだ。道路の両側には、除雪された雪が俺の肩より高く積まれている。温泉街へ曲がる角だけ、路面の雪が厚かった。
普段は地下の湯が道路の縁を温める。その熱まで止まっているのだと、迎えの町職員が教えた。
通りのクリーニング店では、温泉熱を使う乾燥室が止まり、浴衣が縄に掛けられていた。乾ききらない布から冷たい水が垂れる。共同浴場の裏では、清掃員が使わなくなった湯桶を倉庫へ戻している。
閉館中に働く人もいる。
閉館したから仕事がなくなる人もいる。
同じ休止の札の下で、損失は同じ形をしていなかった。
現地へ来ると、その一行で止まったものが通りの両側に並んでいた。
「足元、凍っています」
白瀬さんが俺の鞄を引いた。
足湯から溢れていた水が歩道の端で固まり、雪の下に薄い氷を作っていた。普段なら温かい排水が流れ、ここだけは凍らないらしい。
「すみません。湯がない場所で滑るとは思っていませんでした」
「湯がないから滑るんです」
白瀬さんは、宿の窓に並ぶ小型暖房機へ目を移した。
暖房も一部は温泉熱を使っている。浴槽を閉じれば済む故障ではなかった。
俺たちを待っていた篠原美冬さんは、温泉組合の腕章の上に旅館の前掛けを着けていた。挨拶より先に、玄関脇の箱を指した。
「今日だけで、あれが二箱目です」
返金する宿泊券と、発送し直す荷物の控えだった。
篠原さんの旅館では、予約客の半分へ出発前に断りを入れた。すでに山へ入っていた一組は食事だけ出し、入浴料を返す。客室の暖房は電気へ切り替えたが、古い棟まで同時に動かせない。布団を新しい棟へ集める間、休館にした浴場から従業員が濡れた簀子を運び出していた。
「湯が止まると、お客さんだけじゃありません」
篠原さんは空の大浴場へ俺たちを通した。
浴槽の底に、水を抜いた跡が白く残っている。木の桶は伏せられ、天井から落ちた最後の雫が、乾いた石へ小さな音を立てた。
「共同浴場を使ってる家があります。家に風呂がないお年寄りもいる。洗い場の人、清掃の人、送迎の人。休館にすれば、明日の勤務がなくなる人もいます。暖房まで落ちたら、客室を閉めるだけでは済みません」
篠原さんが守りたいのは、温泉街という看板ではなかった。
今夜、湯を待つ人と、明朝ここへ働きに来る人だった。
「それと、先に言っておきます」
空の浴槽を挟んで、篠原さんは俺を見た。
「東京で有名な人が来れば直る、みたいな話にするなら帰ってください。直った後に毎日見るのは、ここの人間です」
「はい。正常だった時のことを教えてください」
「……まず、それを聞くんですか」
「今の状態だけでは、何が消えたのか決められません」
旅館の機械室では、地元設備員の稲葉源治さんが記録紙を広げていた。
「外の人は、古い旅館を見れば先にこっちを疑う」
挨拶の代わりに、稲葉さんは壁際の配管を手袋で叩いた。
塗装は重ねられ、曲がり角ごとに年代が違う。見た目だけなら、どこから疑っても不思議ではない。
「古いのは事実です」
俺は答えた。
「だから、悪いとも限りません。止まる前の値を見せてもらえますか」
稲葉さんは記録紙を一枚ではなく、三冊の帳面ごと渡した。
旅館側の循環記録、共同浴場の受入れ記録、町営迷宮の出口で測った熱の記録。印刷された欄の横へ、雪の深さと風向きが鉛筆で足されている。
「この町の計器には冬の癖がある。吹雪の朝は外側だけ遅れる。だが、迷宮から来る最初の箱は遅れない。そこが温かいままなら、旅館のせいだ。そこまで冷えていれば、上を見に行く」
稲葉さんは、故障前日の行を指で押さえた。
旅館三軒と共同浴場で、使用量は違う。それでも戻り方はそれぞれの平常範囲に収まっていた。夜半、全部の建物がほぼ同時に冷え始めた後も、送る側の機械は同じ動きを続けている。
「止まった後、どこか一軒でも開け直しましたか」
「共同浴場を一度だけだ」
稲葉さんは別の頁を開いた。
高齢者からの問い合わせが続き、残っていた湯を使えるか確認した時の記録だった。浴槽へ送る設備は反応し、流れも戻っている。けれど、温度だけが上がらなかった。職員は五分で確認をやめ、残り湯を排出せず保温槽へ戻していた。
「無理に続ければ、冷たい水で熱を使い切るだけだった」
「その判断で合っています」
俺は機械の外板へ手を置かず、振動計を当てる場所を稲葉さんに選んでもらった。
送る側と戻る側で、動きは揃っている。いつもなら熱を受けた後に少し遅れて返る振動が、ほぼ同時だった。水は巡っても、途中で受け取るはずの熱がない。
「ポンプを替えろと言った業者もいた」
「新しくしても、冷たい水を速く回すだけになる可能性があります」
稲葉さんは初めて、俺の持ってきた記録票へ目を落とした。
「東京でそう言って、交換を止めたのか」
「ここで測って、止めました。東京では、この設備の冬を知りません」
古い機械をかばったのではない。
交換理由がまだなかった。
一軒の浴槽が熱を使いすぎたなら、その系統から先に差が出る。
地下の管が破れたなら、送った量と戻った量にずれが残る。
今の記録には、建物ごとのばらつきより先に、町へ来る熱そのものが薄くなった形があった。
「人間側の設備が絶対に正常、とまでは言えません」
俺は帳面を戻した。
「ただ、同時に止まった原因を旅館四か所へ置くより、共通する上流を先に確かめる方がいいです」
「迷宮側か」
「候補です。まだ、迷宮が熱を作っていないのか、途中で渡せていないのかも分かりません」
稲葉さんはすぐには頷かなかった。
故障の夜、彼は町営迷宮の入口まで確認に行っていた。入口側の表示は稼働中。警報なし。けれど、平常時なら雪を落とすだけで水滴が浮く点検蓋が、乾いたままだったという。
「その蓋を見せてください」
「外から来た人間に、いきなり中を触らせはしない」
「触りません。見た位置と、稲葉さんが普段見る順番を教えてください」
稲葉さんは帳面を閉じた。
「なら、俺が先に行く」
旅館設備を止めて守る人が必要なので、稲葉さんは若い作業員を一人残した。篠原さんは客室の移動へ戻る前に、浴場の扉へ新しい札を下げた。
《本日休止》ではなく、《再開条件確認中》。
休む期間を決められない札だった。
町営迷宮は、温泉街の裏山へ半分埋まっていた。
石造りの入口を雪除けの屋根が覆い、人間が足した熱交換設備は、その脇の管理棟から迷宮内へ伸びている。獅堂さんが先に退路と魔物反応を確かめ、真央さんは入口と計器が同じ画面へ入る位置に記録器を置いた。
管理棟の温度計は三種類あった。
町が迷宮を使い始めた頃の目盛、後から追加したデジタル表示、稲葉さんが巡回に持つ携帯計器。三つは同じ数字を示さない。
「どれが正しいですか」
真央さんが聞いた。
「正しい一台を決めるな」
稲葉さんは、外の雪へ携帯計器を置き、戻してから壁の二台と並べた。
「この順で、いつもどれだけずれるかを見る。今日は三つとも低いが、ずれ方はいつもと同じだ」
計器故障で町全体が冷えて見える仮説も、ここで順位が下がった。
真央さんは表示を一つへ換算せず、三台をそのまま撮った。
「違う目盛のまま、同時刻で残します」
現地の正常は、一つのきれいな数字ではなく、長く使ってきた三台の差にも残っていた。
「映っている範囲は入口から第一点検区画まで。奥は未確認です」
真央さんが記録へ声を入れた。
俺は稲葉さんの案内で、最初の点検箱を見た。
外板は冷えていた。温度計の値も、旅館で見た上流側と大きく変わらない。
それだけなら、熱源不足でも、流れの停止でも説明できる。
箱へ手は出さず、床へ受音板を当てた。
低い振動が、迷宮の奥から一定の間隔で返ってくる。完全に止まった設備の静けさではない。ただし、人間側の管へ近づくところで、音の輪郭が薄くなっていた。
「いつもは、ここが先に汗をかく」
稲葉さんが点検箱の角を示した。
今は乾いている。
俺たちは、第一点検区画まで進んだ。
右手は人間が施工した通路、左手は元からある岩壁。奥へ行くほど空気は湿り、雪を踏んできた靴底が濡れた。熱源へ近づいているなら、計器も少しずつ上がるはずだった。
稲葉さんが携帯計器を構え、真央さんが表示を記録する。
入口の点検箱。
中継の壁面。
熱交換路へ入る手前。
測るたび、数字が一段ずつ下がった。
一番奥で、俺の息が白くなった。
熱源へ近づいたはずの場所が、入口より冷えていた。




