復旧より先に証拠保全
上書きが始まったという通知の横で、正規戻り路は同じ間隔の応答を返していた。
設備が落ち着いている今なら、浸水部の片付けも、歩廊の補修も進められる。けれど先に復旧作業へ入れば、動かした現物と整理された記録のどこまでが事故時の状態だったか、後から分けられなくなる。
「復旧班は待機のままにしてください」
俺は所有者側の確認班へ伝えた。
「正規戻り路は運転を維持。仮設管は使用停止のまま。赤札の内側へは入りません。今残っている状態を、先に事故時点として閉じます」
直った設備をまた止める提案ではない。
触らずに残す時間を先に取る提案だった。
早川さんの端末では、旧版と中間ログを現行版へまとめる通知が更新され続けていた。処理件数も対象も見えない。彼女にサーバーへ戻って止める権限はない。
その横で、復旧班の責任者が濡れた歩廊の写真を開いていた。水を回収しなければ床材の傷みは進む。傾いた板を残せば、次の点検者も入れない。
「いつまで待機ですか」
「全部の調査が終わるまでではありません。事故時の位置、番号、使用停止、赤札境界を、所有者側の確認者と固定するまでです」
俺は答えた。
責任者は復旧票を捨てず、開始欄だけ空けた。片付けたい人間を現場から追い出すのではなく、動かしてよい状態へ変わる時刻を待たせる。現物側の期限と、サーバー側の期限が同時に進んでいた。
早川さんは事故前に使った正規の監査経路を開いた。受領済みの版、版差一覧、上書き開始通知だけを追加提出し、見ていない会社側記録は対象に入れない。通報者保護の継続申請と、保全記録を会社の指揮系統から分ける要請を添えた。
「公開ではありません。保全済みの版を、上書き後の現行版で消させないための提出です」
送信すると、前の受領番号に追加番号が付き、早川さんの名前も作成者欄へ残った。
真央さんは事故時の定点映像、施工、三人の救助、正規戻り路の独立確認までを共通時刻で閉じ、終端へ時刻署名を付けた。今から撮る現物は、事故後保全の別記録として開始する。
「今すぐ公開すれば、上書きへの牽制にはなるかもしれません。でも、救助された三人の声と社員名まで止める道具にはしません」
真央さんは、位置と管理番号を残す調査原本、個人を伏せた保護版、未作成の公開版を分け、公開保留へ自分で署名した。
白瀬さんは、早川さんの追加提出と真央さんの原本番号から保全対象をまとめ、市の事故調査責任者へ緊急命令案を上げた。証拠保全命令は、事故調査責任者の名義で発出された。
対象は、旧管体に関する系統図、点検票、版履歴、調達・納入記録、アクセス記録。保存期限による処理と、現行版への統合を停止する。事故対応に必要な閲覧は独立した受領者を通し、東央の通常管理権限からは変更アクセスを止める。
「消去したと認定する命令ではありません。何が失われ、何が残っているかを調べられる状態にする命令です」
命令を受けた施設所有者側のサーバー管理担当が、東央の変更アカウントを一時停止した。独立受領者が反映を確認し、進み続けていた整合処理の表示が止まった。白瀬さんは技術評価から俺一人を外したまま、利益相反申告を継続した。
サーバー管理担当は、停止したアカウント一覧と最終変更時刻をその場で独立受領者へ渡した。独立受領者は新しい書込みが止まったことだけを確認し、どの記録がすでに変わったかの欄は空けた。止める操作をした人と、止まったことを確かめる人も同じにしなかった。
止まる前に何件が書き替わったかは分からない。白瀬さんは未確認のまま保全命令へ残した。止められたから無傷だった、と書けば、それも後から作る正常になる。
変更アクセスを止めると、東央の現場端末も普段どおりには使えなくなった。
東央の社員が、今夜の巡回結果をどこへ入れればよいかと尋ねた。証拠を守るために日常記録まで止めれば、今度は保全中の設備を誰も見なくなる。
白瀬さんは、過去の記録へ追記する方法を許可しなかった。施設所有者の別系統に、新しい保全期間の点検票を作らせた。事故前の版を直さず、事故後の観測を新しい番号で足す。閲覧はできても、元の版へ戻して上書きはできない。
「記録停止ではありません。履歴を切らさず、変更先を分けます」
東央側からは、記録業務まで奪うのかという異議が出た。
「会社の有罪を前提にしていません」
白瀬さんは答えた。
「事故原因を調べる期間だけ、調査対象を持つ組織と、原記録を変更できる組織を同じにしません。現在点検の記入者名は、そのまま残します」
事故後の最初の点検票へ、暫定の現場担当が自分の名前を書いた。
担当者は、前夜の「異常なし」を複写しなかった。正規戻り路の応答、赤札境界の水際、立入禁止の歩廊を、見た順に新しい欄へ書く。仮設管の裏側は見ていないため未確認とした。記録の器が変わっても、空欄を都合のよい正常で埋めない仕事は続いた。
保全命令は、サーバーを凍らせて仕事をなくす命令ではなかった。過去を変える権限と、今を記録する仕事を分ける命令になった。
同じ設備に、過去の保全番号と今日の点検番号が並んだ。どちらかを消さず、前後を結べる状態になった。
次は現物だった。
所有者側の現地確認者と俺は、高い歩廊の入口まで戻った。獅堂さんが退路と立入人数を決め、赤札より先へは誰も入れない。現物へ新しい札を直接結び付ければ、ひびや既存のひもを動かす可能性があるため、保全番号は規制柵側へ付けた。
確認するものを四つに分けた。
仮設管の系列記号と個体番号。
使用停止を示す赤札と、立入境界。
正規戻り路が独立確認後も応答していること。
管体の白い筋、歩廊の傾き、水際、黒い膜が、救助後のどの位置に残っているか。
俺は番号を読み、所有者側の確認者が現物と台帳を照合した。真央さんは二人の読み上げを同じ画角へ入れたが、見えない裏面を推測で補わなかった。
赤札のひもは残っている。管体は使われていない。正規戻り路の細い返りは続いている。歩廊下の水は下がったが、傾いた床板と白い筋は復旧していない。
「現況番号、使用停止、赤札境界、一致」
現地確認者が署名した。
俺も、設備側の確認範囲へ署名した。
事故原因や責任者の欄ではない。現物をこの状態で見たという欄だ。
赤札にも限界がある。
今付いている札は、救助後に仮設管を使用停止へ置いた記録だ。過去の赤札がいつ外され、誰が解除を認めたかまでは証明しない。閉鎖扉に残っていた古いひもも、昔の札そのものではない。
真央さんは、現在の赤札と古いひもを別の現物番号へ分けた。一本の映像へ映っていても、同じ時期の表示として説明しない。
現地確認者は、規制柵の封印を閉じた。以後、歩廊補修や管体回収のため境界を開ける時は、誰が、何の作業で、どの状態から動かしたかを新しい記録へ残す。証拠保全は、現物を永遠に触らないことではない。必要な復旧まで、動かした前後を失わないようにすることだった。
地上の机には、映像の原本番号、版差の受領番号、宇田川さんの証言番号、現物の保全番号、正規戻り路の試験番号が別々に並んだ。どれか一枚へ他の意味を書き足さなくても、同じ時刻と同じ管体を指す範囲だけは結べる。誰の命令か、誰が加担したか、設備がなぜ浸水したかを、後の調査で別々に問える状態になった。
医療側から、宇田川さんが短い聴取に応じられるという連絡が来た。
救助直後の通信は、その場の安全判断に必要な証言だった。体が冷えたままの人へ、事故全体を説明させた記録ではない。調査担当は質問を増やさず、宇田川さんが何を自分の記憶として残すかだけを確かめた。
宇田川さんは、一時運用の順序、巡回表で用途名が変わった時期、自分が点検完了へ署名したことを、改めて自分の言葉で残した。
「真壁部長の指示だった、と書けばいいのか」
調査担当は誘導しなかった。
宇田川さんはしばらく黙り、首を横に振った。
「部長から停止枠は取れないと言われた。だが、どの日のどの言葉かは、記録と合わせてくれ。俺が署名した分は、俺の署名として残してくれ」
本人証言も、それだけで命令系統を完成させなかった。
ただ、後から会社の言葉にも、俺の言葉にも置き換えられない一片になった。
地上へ戻ると、行政側の保全受領者から最初の一覧が届いていた。
停止前に確保できたのは、点検版だけではない。仮設枝道を入れた時期の調達記録と、施設所有者へ渡された納入控えも保全対象に入っていた。
早川さんが系列記号を照合した。
同じ個体番号ではない。
同じ改造がされたとも、同じ使い方をされたとも分からない。
ただ、同じ系列記号を持つ管体の納入先が、この施設だけではなかった。
一覧は一つの地域で終わらず、複数の迷宮管理施設へ続いていた。
同系列の仮設管が、全国へ納入されている可能性があった。




