一晩だけのはずだった
水位を下げると、三人側の風が止まる。
仮設枝道だけを外しても、救助にはならない。先に三人が息をして戻れる別の条件を作り、それから仮設へ預けた負荷を恒久側へ戻す必要がある。
問題は、その正しい順番が現行の作業表から消えていることだった。
「宇田川さん。仮設枝道を入れた時、外す工程はどう説明されましたか」
通信の向こうで、宇田川さんはすぐに答えなかった。水音の間から、三人の息を合わせる声が聞こえた。
『先に正規戻り路を通す。向こうが受けるのを確認してから、仮設に逃がした分を順に戻す。仮設は、最後だ』
「三人のいる区画は、どの段階まで使えますか」
『正規側から風が戻るまでは、閉めるなと言われた。今いるのは、その受けを見るための点検待避所だ』
「使用期間は」
『一晩だけのはずだった』
声はぶっきらぼうだった。
『正規側の工事が終わらなくて、次の停止へ持ち越した。その次もだ。俺は巡回表の仮設欄が消えた時に、排水の項目で点検完了へ署名した。命令されただけじゃない。俺は止めなかった』
証言は、助かるための手順だけではなかった。
自分がどこで加担したかまで、宇田川さんは同じ声で言った。
ただし、それだけで正しい施工順が証明されたわけではない。
早川さんが、保全した最初の施工版と、宇田川さんの言葉を並べた。
仮設枝の使用中は、正規戻り路の完了と受入確認を先に行う。仮設枝の隔離はその後とする。
文面の順番は、宇田川さんの証言と合った。
「この版には、当時の現物状態も、作業完了の署名もありません」
早川さんは限界も読み上げた。
「これで補強できるのは、当初の計画順序と一時運用条件です。実際にその順序が守られたかは、今の現物反応と施工記録を合わせる必要があります」
真央さんは、今の証言を通信の切り抜きにしなかった。質問、水音、返事した三人の声、管体の鳴りを同じ原本時刻へ残す。証言だけが後から足されたように見えないためだ。
白瀬さんは、救助、停止、医療の三つの連絡を同じ時刻表へ置き、決裁は分けたままにした。
救助班は、三人側の風と退路を失わないこと。停止班は、正規戻り路が受ける前に仮設を切らないこと。医療側は、三人全員が自力歩行できると仮定せず、搬送後の受入を空けておくこと。
「作業を許可します」
白瀬さんが言った。
「但し、仮設枝道を外す作業ではありません。正規戻り路の受入を成立させ、三人側の風を別に確保し、その確認範囲だけ仮設の負荷を移します。一段ごとに独立確認します」
地上の時刻表が、作業手順の読み上げではなく、担当者の表に変わった。
獅堂さんは、歩廊、予備連絡扉、魔物の動線。白瀬さんは、救助開始、設備停止の段階承認、三人分の医療受入。真央さんは、施工前後の映像と通信を同じ時刻原本に残す。早川さんは、現地証言と過去版を混ぜず、合う箇所と合わない箇所を示す。施工班は、正規戻り路の実作業とその場での中止。
俺が持つのは、診断と工程の更新だ。誰かの作業を代わりに行うのではない。壁、管、水、風の順が変わったら、その理由が分からなくても、次の段階へ進まない。
救出の道を開ける条件も先に置いた。三人側の風が仮設管の反応と切り離される。水位が救助班の帰路を狭めない。歩廊の床と予備扉が、要救助者三人を加えた状態で使える。一つでも揃わなければ、扉は開けない。
獅堂さんは、歩廊の水が下がった範囲まで作業帯を作り直した。
攻撃個体を奥の流路側へ寄せ、小型種が正規戻り路の方へ動き始めるのを見る。人と施工員が使う幅は、最後まで開けた。
作業をするのは現地の施工班だ。
旧図にしかない正規戻り路の受入部を現物で確かめ、長く使われていなかった部分を施工対象と未確認へ分ける。赤札の範囲へ人を入れず、規定の資材と専用計器を持つ施工員が、使える受入だけを恒久側へ戻していく。
俺は操作に触れない。
床、壁、管体、三人側の風の反応を分け、工程をその都度更新する。一つが遅れれば、次の移し替えへ進まない。
最初の受入確認で、奥の壁が細く鳴った。
仮設管の鳴りは残っている。水位もほとんど変わらない。
ただ、三人側から答えが返った。
『今度の風は、管の方からじゃない』
正規側の受入が、初めて三人の区画へ戻り始めた。
その一言だけで、成立とはしなかった。
施工班が正規戻り路の側だけに小さな負荷変化を渡し、奥の壁が同じ間で答えるかを見た。真央さんが、仮設管の鳴りと重なっていない時刻に原本上で印を付ける。宇田川さんには、三人がそれぞれ風の向きを答えられるか確かめてもらった。
三人の答えは、同じ側で揃った。見た目の明るさではなく、仮設とは別の戻りが、三人へ届いている。
白瀬さんは、そこで正規側の受入成立を仮確認とした。まだ救助扉の開放は許可しない。仮設から一段移し、それでも三人側の戻りが残ることが必要だった。
そこから、施工班が仮設へ預けられた負荷を少しずつ恒久側へ移した。
一度目は、壁の返りが揃った。三人側の風は残った。水位が、傾いた床板の下へ退いた。
次の移し替えで、管体の白い筋が一度伸びた。
「停止」
獅堂さんと施工班が、ほとんど同時に言った。
作業はその場で止まった。負荷を一段戻し、歩廊の床を施工班が確認する。新しい破断ではなく、覆いの残っていたひびが動いたと分かるまで、誰も「大丈夫」とは言わなかった。
施工班は荷重を管体へ預けない範囲に作業帯を限定し、救助班の帰路を先に確保した。それでも残るひびは、破断候補の赤札として、復旧後も残す。
工程が再開した。
三人側の風を確かめ、正規側の戻りを確かめ、水位が下がった範囲だけ、仮設から移す。
管体の長い鳴りが、少しずつ短くなった。
黒い膜は、歩廊の下から正規戻り路の方へ動いた。
水が退いた後にも、三人側の風は止まらなかった。
そこで初めて、白瀬さんは救助扉の開放を救助班へ許可した。仮設管の隔離承認ではない。扉の内外の状態を救助班が確かめ、救出の道だけを開ける許可だ。
獅堂さんと搬送担当が、高い歩廊を進んだ。
どこからともなく魔物が消えたわけではない。獅堂さんの隊が奥の動線を保ち、反対側の隊員が連絡扉までの帰路を見る。通路の外に残った攻撃個体は、最後まで未討伐のままだった。
救助扉が開いた。
最初に、班員の一人が自分で歩いて出てきた。二人目は支えられながら、三人目の宇田川さんは後ろを確かめてから扉を越えた。
歩けたから軽いとは判断しない。三人はその場で救護担当へ引き渡され、体温と反応を見られる。白瀬さんは名簿と照合し、三人が出たことを救助記録で閉じた。
一人目は自分の名前を言い、寒いと訴えた。二人目も呼び掛けへ答え、支えがあれば移動できた。宇田川さんも自分の足で扉を越えたが、医療側は誰も「異常なし」の欄へ入れなかった。浸水区画で待った三人として、同じ受入へ回す。
獅堂さんは、救助扉が開いた時に奥の攻撃個体を倒しに行かなかった。三人目が連絡扉を越え、後方の隊員が帰路の人数を閉じるまで、同じ作業帯を守った。
一人。二人。三人。
生きて、同じ退路から戻った。
宇田川さんは救護担当に肩を支えられたまま、俺の方を見た。
「直人」
「話は、検査の後で聞きます」
「先に残してくれ」
宇田川さんは真央さんの時刻原本へ向けて言った。
「仮設は一晩の予定だった。排水という名前で巡回を続けた。俺は署名した。部長の命令だけのせいにはしない」
真央さんが記録継続の意思と、体調の有無を確かめた。宇田川さんは短く答え、救護担当と一緒に地上側へ向かった。
俺は許すとも、断罪するとも言わなかった。
三人が出たという救助記録と、本人が自分の署名を自分の責任として言った原本が残った。
それで今閉じられるのは、人命救助の工程だけだ。
設備側の作業は続いた。
施工班が正規戻り路の反応を独立に確かめ、仮設側に残った負荷を移す。仮設管は使用停止としたが、破断候補の現物は赤札隔離のまま残す。歩廊の付け替え、浸水部の回収、記録の移管は後工程だ。
長い打音が消えた。
それで安全とはしない。
所有者側の確認班が、正規戻り路へ小さな負荷変化を渡した。奥の壁が細く返し、次に別の区画から同じ間隔の返事が来た。歩廊下の水は下がり続け、黒い膜は仮設管の下へ戻らない。
恒久側の戻りが成立した。
浸水を止め、三人を出し、仮設に預けた負荷を正規側へ戻した。
但し、なぜ一晩が年数に変わったのか、誰が何を変え、誰が確認を省いたのかは、まだ閉じていない。
早川さんの端末で、新しい系統通知が開いた。
東央側の記録サーバーに障害の疑い。保全上の整合処理を行うため、重複した旧版と中間ログを現行版へ統合する。
「統合じゃありません」
早川さんが言った。
「上書きが始まっています」




