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朝稽古の空き地と、二つ目の討伐依頼

翌朝、まだ市場の店が半分しか開いていない時間に、涼花たちは南市の裏手へ来ていた。


ルクトが見つけた空き地は、染物屋の裏壁と古い倉庫の間に挟まれた、細長い土の区画だった。片側は石壁、もう片側は背の低い柵。地面は踏み固められていて、大きな石も少ない。たしかに足場としては悪くない。


フィアが空を見上げる。


「ほんとにちょうどいいねえ。人通りも少ないし」


「朝だからな」とミレイが言う。「市場が本気で動き出す前なら、邪魔にもなりにくい」


涼花は周囲を見回した。


壁の向こうからは、朝の仕込みを始める店の音が聞こえる。鍋を置く音、木箱を引く音、水を撒く音。街はもう起きている。けれどこの空き地だけは、そこから半歩ずれたみたいに静かだった。


ルクトは空き地の端へ行くと、靴先で地面を軽く蹴った。


「ここ、滑らない」


「便利だな、本当に」とフィアが笑う。


ミレイは笑わず、涼花の正面へ立った。


「始めるぞ」


その一言で、空気が変わる。


涼花は慌てて背筋を伸ばし、剣の柄へ手をかけた。


「抜くな」とミレイが言う。


「え?」


「今日はまず、抜く前の足だ。お前は剣を持つと、どうしても見えるかどうかへ意識が寄る」


涼花は口をつぐんだ。否定できない。


石背猪の突進を前にしたとき、一瞬待ってしまった。あの遅れは、まだ肩に残っている。


ミレイは涼花の足元を指した。


「右足が前に出すぎだ。見えたものを追いかける時の立ち方になってる。普通の相手には、それだと遅れる」


フィアが壁際に寄りながら言う。


「観測ってね、先に答えが見える便利道具じゃないんだよ。少なくとも、今の涼花ちゃんにはそう使っちゃだめ」


「……はい」


「返事はいい。動け」とミレイ。


そこからの稽古は、地味だった。


剣を振る前に、足を引く。

前へ出る前に、半歩ずらす。

正面に立たない。

受けるより、外す。

外したあとで、初めて斬る位置へ入る。


ミレイは同じ動きを何度も繰り返させた。


「遅い」


「腰が浮く」


「いま待ったな」


「見るな、先にずれろ」


言葉は短い。容赦もない。


涼花は汗をにじませながら、何度も足を運んだ。


最初は、どうしても考えてしまう。

右か左か。

前か後ろか。

ここで表示が出るかもしれない。

そう思った瞬間に、体が止まる。


そのたびにミレイの木剣が肩や腕へ軽く当たった。


「止まるな」


「……っ」


「今の一瞬で腹を割られてる」


フィアが少し離れたところから声をかける。


「涼花ちゃん、見ようとしすぎ。目じゃなくて、足のほうを先に使って」


「足のほうを先に……」


「うん。線が見えるなら、そのあと使えばいい。最初から答え待ちしない」


ルクトは空き地の端にしゃがみ、しばらく黙って見ていたが、不意に言った。


「そこ、もう半歩だけ壁寄り」


涼花が言われたとおり位置をずらすと、次の打ち込みで木剣が肩をかすめるだけで済んだ。


ミレイがちらりとルクトを見る。


「……そこは合ってる」


「たぶん」とルクトは言った。


また何本か打ち合ったあと、ミレイはようやく木剣を下ろした。


「剣を抜け」


涼花が青い剣を抜く。朝の薄い光を受けて、刃が細く光る。


けれど白い表示は出ない。出ても、ごくかすかなざらつきだけだ。


「今日はそれでいい」とミレイが言った。「出ないなら出ないで戦え。見えないから動けません、じゃ話にならん」


今度は、足運びのあとに短い斬りを重ねる。


深く踏み込みすぎない。

大きく振りかぶらない。

当てるより、抜ける形を覚える。


地味だ。けれど、地味なぶんだけ誤魔化しがきかない。


何度目かの往復のあと、涼花の息は完全に上がっていた。額の汗が頬を伝い、握る手も少し震えている。


フィアが水袋を差し出す。


「はい、いったん休憩」


「ありがとうございます……」


水を飲むと、喉の奥が少し痛い。体力まで足りていないのが、自分でも分かる。


ミレイは壁に背を預けたまま、淡々と言った。


「技だけじゃない。足が止まるのは、考えすぎだけじゃなく、土台が弱いからでもある。走る、踏む、戻る、その全部が遅い」


「はい……」


「落ち込むな。今は足りないと分かっただけ、まだましだ」


フィアが笑いながら割り込む。


「ミレイさん、それ励ましてるつもりで言ってる?」


「事実を言ってる」


そこでルクトが、空き地の入口近くを見たままぽつりと言った。


「次、右から来るほうがいい」


「何が?」と涼花が聞く。


「打ち込み」とルクトは言う。「さっきから左ばっかりだと、足が固くなる」


ミレイが少しだけ目を細めた。


「そこも合ってるな」


「なんとなく」とルクトは答えた。


結局、朝稽古は思っていたより長くなった。


剣を大きく振る時間より、立つ位置と足の運びを直される時間のほうがずっと長い。地味だし、派手な手応えもない。けれど終わるころには、涼花は昨日の討伐よりよほど消耗していた。


空き地を出るとき、街の朝はもう完全に動き出していた。


通りには荷車が増え、パンの匂いが濃くなり、朝市の声も高くなっている。石壁の角を曲がるたび、別の匂いと別の喧騒が流れてきた。


「腹減った……」と涼花が言うと、フィアがすぐ笑う。


「それだけ動いたらねえ」


「いい傾向だ」とミレイが言う。「食えるうちは伸びる」


そのあと四人は、水場で汗を流し、安い焼きパンと温かい果実茶で簡単に腹を満たした。昨日より少しだけ街の歩き方が分かってきている。露店の並び、混む時間、値段の高い通りと安い通り。セイルは広いが、完全に知らない街ではなくなり始めていた。


フィアがパンをちぎりながら言う。


「こういうの、なんかいいね。朝に鍛えて、昼は依頼って感じ」


「そうやって金が回るならな」とミレイが返す。


「そこで現実に戻すの早いなあ」


それでも四人の足は自然にギルドへ向かった。


セイル冒険者ギルドは、朝よりさらに人が増えていた。丸盾の看板の下には数人が立ち、依頼板の前はすでに人だかりになっている。昨日見たときより、建物の中の熱気が濃い。


革鎧のこすれる音。

紙札を剥がす音。

受付に報酬を問い返す声。

奥の卓で笑う冒険者たち。


涼花はこの空気が少し好きになり始めていた。ここでは、世界の裏側より先に、今日の仕事と今日の報酬がものを言う。


「さて」とミレイが言う。「今日は軽すぎず、重すぎず、だ」


依頼板の前で札を見比べる。


倉庫鼠の駆除。

南水路沿いの灰牙兎群れ払い。

薬草採取護衛。

古井戸の蓋修理の手伝い。

荷車護衛半日。


フィアが一枚を指した。


「灰牙兎、これどう? 昨日の猪より報酬は落ちるけど、群れ相手なら足の練習にはなる」


「兎か」とミレイが言う。「速い。飛ぶ。数で来る。悪くない」


ルクトがその札を見て、少しだけ首を傾けた。


「これ、受けても大丈夫」


「大丈夫って何だ」とフィアが笑う。


「死ぬ感じじゃない」とルクトは言った。


「基準がこわいなあ」


ミレイはその札を取った。


「よし、これだ。南水路沿いの灰牙兎五匹以上、群れ払い。畑の若芽を食ってるらしい」


受付の女は昨日の四人を覚えていたらしく、札を見るなり片眉を上げた。


「あんたたち、昨日の石背猪の組だね。もう次を受けるのかい」


「飯が要る」とミレイが答える。


「正直でいいね」


書類を通しながら、受付は少し声を落とした。


「灰牙兎は大した相手じゃないけど、群れで走ると足を取られる。昨日みたいに突っ立ってると噛まれるよ」


その言葉に、涼花はほんの少しだけ顔が熱くなった。


ギルドを出て、水路沿いへ向かう。


南水路は街の外れをゆるく回るように流れていて、片側は低い土手、もう片側は草地と捨て畑が続いている。水音は穏やかだが、足元はややぬかるみやすい。群れで走る獣には都合が良さそうだった。


「灰牙兎は小さいけど、速いよ」とフィアが言う。「噛みつきは浅いけど、数で来ると厄介」


「止まったら囲まれる」とミレイ。


涼花は無意識に昨日の言葉を思い出す。

見えなくても崩れない足。

待たないこと。

正面に立たないこと。


白い表示は、やはりほとんど出ない。


かすれた反応が水路の先に薄く散っているだけだ。


草むらが揺れた。


「来るよ」とフィア。


飛び出してきた灰牙兎は、名前の通り灰色の毛並みをしていた。耳が長く、脚も細い。だが可愛げより先に速さが目につく。二匹、三匹、さらにその後ろから影が走る。


「数、多い!」と涼花が声を上げる。


「五より上だ!」とミレイが言う。「散るな、位置を保て!」


最初の一匹が跳んだ。


涼花は一瞬だけ迎え撃ちたくなって、すぐ思い直す。正面を受けるな。そう言われたばかりだ。


半歩ずれる。

兎の前脚が空を切る。

着地の瞬間に短く振る。


浅いが当たる。


「それでいい!」とミレイの声が飛ぶ。


次の二匹が左右に割れた。


フィアの淡灯が地面を薄く照らし、片側の草が一瞬だけ絡む。完全には止まらない。だが、ほんの少し遅れる。その遅れへ、ルクトの投げた小石が入り、兎の跳ぶ角度がずれた。


「右、足元!」とルクト。


涼花は見ずに足を引く。噛みつきが空振った。


昨日より、体が先に動いていた。


灰牙兎は石背猪ほど重くない。だがそのぶん、迷うと追いつけない。待てば噛まれる。だからこそ、朝の稽古がそのまま効いた。


横へずれる。

短く斬る。

踏み込みすぎない。

囲まれる前に位置を変える。


ミレイは群れの芯へ入らせないように立ち回り、フィアは水際へ寄る個体に薄く光を当てて足を滑らせる。ルクトは相変わらず正面には立たず、気づけば危ない角度へ石や短枝を入れてくる。


涼花は一匹、二匹と確実に落とした。


それでも楽ではない。息は切れるし、斬りそこねればすぐ次が来る。普通の依頼は普通の依頼で、ちゃんと難しい。


最後の一匹が水路脇へ逃げかけたとき、涼花は迷わず斜めに踏み込み、短く刃を走らせた。灰色の毛が舞い、兎が草へ転がる。


静かになった。


水路の音だけが残る。


「……今度は、昨日よりましだった気がします」と涼花が息を切らせながら言う。


フィアがにっと笑う。


「うん。少なくとも最初に待たなかった」


「足も止まっていない」とミレイが言う。「まだ粗いが、昨日よりは使える」


まっすぐ褒められたわけではない。

けれど、それでも少しうれしかった。


ルクトは倒れた灰牙兎より、水路のさらに先を見ていた。


「どうしたの」と涼花が聞く。


ルクトは少しだけ目を細める。


「……こっちは平気。でも、もう少し外はよくない」


「また何かいるの?」とフィア。


「いる、っていうか」とルクトは言葉を選んだ。「静かすぎる」


その言い方で、四人の空気が少し変わる。


ミレイが水路の先、草の濃いほうへ視線を向けた。遠くに木立がある。そのあたりだけ、風の通り方が違って見えた。


「大きい気配か」とミレイが聞く。


「昨日の畑の奥にいたやつより、近くない」とルクトは答える。「でも、ああいうのが入る場所だと思う」


涼花もそちらへ意識を向ける。


白い表示は相変わらず曖昧だったが、一瞬だけ細い文字が浮かんだ。


遠反応:不鮮明

危険濃度:上昇傾向


「また、嫌な感じの表示が出ました」と涼花が言う。


フィアが水路の先へ杖を向け、すぐに下ろす。


「遠いね。今は掴めない。でも、近づきたくはない」


ミレイは即座に判断した。


「今日はここまでだ。灰牙兎の回収だけして戻る」


「追わないんですね」と涼花が聞く。


「当たり前だ」とミレイは言う。「軽い依頼を終えたあとで、正体の分からん相手を探りに行くのは無駄だ。今のお前がやることじゃない」


その言葉に、涼花は素直にうなずいた。


悔しくないわけではない。

でも昨日より少し動けたからこそ、逆に分かる。

今はまだ勝てない相手というものが、たしかにいる。


灰牙兎を回収してギルドへ戻るころには、昼の光が街を高く照らしていた。


完了報告はすぐ通った。石背猪のときより報酬は少ないが、昨日ほど苦い気分ではない。小さくても、自分たちの腕で終えた依頼だという手応えがあった。


ギルドの掲示板の端には、新しい札が打たれていた。


南畑外縁 大型石背猪確認

要・中堅以上

単独受注不可


昨日見送った気配が、もうちゃんと依頼になっている。


その札の前で、ひとまわり年上の冒険者たちが立ち止まり、装備を見せ合いながら何か話していた。背負った槍の太さも、鎧の傷の入り方も、自分たちとは違う。


涼花はその光景を見て、静かに息をついた。


「……今の私たちじゃ、まだ無理ですね」


ミレイはごまかさなかった。


「無理だな」


フィアも軽い声を少し落として言う。


「でも、昨日よりは一歩進んでるよ。だから次は、もう少し進める」


ルクトは大型石背猪の札ではなく、その奥の地図板を見ていた。


「朝の空き地、明日も空いてると思う」


涼花は小さく笑った。


「うん。行く」


ギルドを出ると、セイルの街は相変わらず忙しかった。


通りには焼き菓子の甘い匂いが流れ、鍛冶通りからは金属を打つ音が響く。露店の布は風に揺れ、荷車は止まらず、人は途切れない。ここでは誰もが、今日の仕事をしながら明日の金を考えている。


自分たちもその中にいるのだと、涼花はようやく少し実感できた。


ただ異常を追いかけるだけじゃない。

食うために働く。

働きながら鍛える。

鍛えながら、まだ勝てない相手の気配を覚えていく。


白い表示は、今日も決して親切ではなかった。

でも、だからこそ頼り切らない足を作る意味がある。


市場のざわめきの中で、涼花はギルドの丸盾看板を一度だけ振り返った。


ここで依頼を受ける。

ここで少しずつ金を稼ぐ。

ここで、自分がまだ足りないことを何度も知る。


セイルは、そういう街だった。


そしてその街で、普通の依頼をひとつずつこなしていくことが、いずれ来る本当に勝てない相手へ向けた、いちばん地味で、いちばん確かな準備になるのだと――。


いまの涼花には、もうなんとなく分かり始めていた。

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