表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
46/60

侵入経路の痕跡と、影の定義

北側通路の騒ぎがひとまず収まったあとも、支局の中から緊張が消えることはなかった。


兵たちは倒れた見張りを運び、傷の浅い者はそのまま持ち場へ戻される。壁際に立てかけられていた槍は数を減らし、代わりに伝声管の前と記録室の前に見張りが増えていた。


さきほどまで戦っていた涼花たちも、その場で長く息をつく暇はなかった。


サナに呼ばれ、四人は北側通路から少し離れた記録室の脇へ通される。


石壁に囲まれた細い部屋には、簡素な机がひとつと、記録板、それから灯りを落とし気味にした確認用の台が置かれていた。台の上には布が敷かれ、その上に、さきほどの侵入者から回収されたものが並べられている。


黒布の切れ端。

銀線の刻まれた細い板片。

人の骨とも木組みともつかない、ねじれた芯材。


戦っていたときには、とにかく止めることに必死だった。けれど、こうして静かな部屋の中で見せられると、あれが本当にひとつの生き物だったのかどうか、かえって分からなくなる。


涼花は確認台の前で立ち止まり、布の上の残骸を見つめた。


「これ……結局、なんだったんですか」


問いに答えたのは、サナだった。


彼女は記録板へ短く書きつけていた手を止め、視線を残骸へ落としたまま言う。


「現場では、まとめて影と呼びます」


その言い方に、フィアが眉を寄せた。


「まとめて、ってことは、ひとつの種類じゃないの?」


「ええ」とサナはうなずいた。「夜に出る化け物、という意味ではありません。あくまで、こちらで便宜上そう呼んでいるだけです」


ミレイが腕を組んだまま低く問う。


「なら、その影ってのは何だ」


サナはすぐには答えず、黒布の切れ端を指先で少しだけ寄せた。布は軽いはずなのに、どこか湿ったような重たさがある。


「継目が乱れた場所で、形を失ったものが、こちら側へ半端に触れた結果です」


説明を聞いても、涼花はすぐには飲み込めなかった。何かが分かりそうで、最後の輪郭だけがぼやける。


その様子を見て、フィアがゆっくり言葉を足す。


「向こう側で曖昧なままだったものが、こっちで無理に輪郭を持っちゃう、って感じ?」


「近いです」とサナが答えた。「人のように見えることもあります。道具のように振る舞うこともあります。ですが、最初から完全な実体として存在しているわけではない。継目の揺れに引っかかって、こちらへにじみ出たもの。そのにじみ方が黒く、輪郭が不安定で、足場や灯りに影響されやすい。だから現場では影と呼ぶのです」


涼花は黒布の端を見つめた。青い剣が、かすかに熱を返してくる。斬った感触を思い出す。布のようで、霧のようで、途中だけ硬かった。


「自然に出るものでもあるんですか」と涼花が聞く。


サナは少しだけ間を置いてから答えた。


「出ます。ただし、今回のは自然発生だけでは説明がつきません」


「やっぱり」とフィアが小さく言う。


サナは台の上の銀線の板片を示した。


「見てください。これは輪郭を保つための補助に使われています。自然ににじんだだけの影なら、ここまで長く、ここまで人の動きに寄せて保てません。誰かが継目の揺れを利用して、向こう側の曖昧なものを、こちらで動ける形に寄せている」


「寄せてる……」


涼花がその言葉を反芻すると、ミレイが険しい顔で残骸を見下ろした。


「なら、あれは幻でも魔物でもなく、誰かが使ってるってことか」


「その認識で構いません」とサナは言う。「影は、ただの幻ではありません。ですが、生きた人間そのものとも違う。継目の乱れに、人為的な固定を重ねた結果です」


フィアが台の端に手をつきながら言った。


「だから槍が抜ける瞬間と、ちゃんと当たる瞬間が混ざってたんだね。全部が実体じゃない。でも、芯だけはこっちに合わせてあった」


「ええ」とサナがうなずく。「盗賊や逃走犯だけでは届かない場所へ、影を先に差し込む。見る、探る、乱す、盗る。そういう使い方をされていると考えるのが自然です」


ミレイが低く問う。


「魔王側の仕業と見ていいのか」


その問いに対してだけ、サナは即答しなかった。


代わりに彼女は、黒布の切れ端ではなく、その下に残った銀線の欠片を見つめながら静かに言う。


「利用している側はいるでしょう。ですが、影そのものがどこまで誰のものかは、まだ断定できません」


室内が少しだけ静かになった。


フィアが涼花の横でつぶやく。


「敵が使ってる。でも、敵が最初から作ったとは限らない、か」


「そういうことです」とサナは答えた。「だから厄介なんです」


涼花は、布の上の残骸を見つめた。


黒い。曖昧だ。斬った感触も、最後に崩れた音も、人と物のあいだにあるようで、どちらにも割り切れない。


青い剣の柄を握る手に、かすかな熱が戻る。


視界の隅に、白い文字が短く浮かんだ。


対象分類:影

暫定定義:継目由来の不安定実体

注意:人為的固定の痕跡あり


涼花はその表示を見ながら、ようやく口にした。


「……影っていう呼び方、ぴったりですね」


サナはほんのわずかに目を細めた。


「名前をつけないと、現場では対処できませんから」


そこでサナは記録板を閉じ、改めて全員を見渡した。


「説明はここまでにします。次は、どこから入ったかを確認します。倒しただけで終わりにしてはいけません」


「侵入経路の確認ですね」とミレイが言う。


「ええ。北側通路へ続く壁沿いと、外壁側の連絡溝、伝声管の分岐、それから天井裏に近い点検口。影が通るなら、人の通れない場所を使っている可能性があります」


フィアが苦笑する。


「人の通れない場所を通られるの、嫌だなあ」


「嫌で済めばいいんですけどね」とサナは淡々と返した。


四人は記録室を出て、再び北側通路へ向かった。


さきほどの戦闘跡はまだ生々しく残っている。床には擦れた跡が走り、壁の灯りは一本だけ交換されずに、まだ少し弱い。倒れていた見張りがいたあたりには薬布の匂いが残り、兵たちの足音もどこか硬かった。


「このへん、さっきより静かですね」と涼花が言う。


「静かにしてるんだよ」とフィアが返す。「音を立てたくないときの静かさ」


ルクトはそれには答えず、通路の角で足を止めた。彼は床よりも、壁と天井の継ぎ目を見るように視線を上げている。


「ルクト?」と涼花が呼ぶ。


ルクトは少し遅れて振り返った。


「……ここ、通ってる」


「何が」とミレイが問う。


「影。たぶん、壁際だけじゃない。上も」


その一言で、サナがすぐに兵へ指示を飛ばす。


「灯りを上げてください。点検用の細灯も」


細い持ち灯りが二つ運ばれ、北側通路の天井と梁に向けられる。


それで初めて見えたものがあった。


石壁と梁の境目に、ごく細い擦過痕が連なっている。人が爪先立ちで届く高さではない。しかも、傷は一直線ではなく、途中で少しだけ途切れ、また別の角度で続いていた。


フィアが目を細める。


「……動き方が、歩いたんじゃないね」


「這ったわけでもない」とミレイが言う。「跳んだ、でもないな」


サナが静かに補足した。


「輪郭が安定していないなら、接地の仕方も一定ではないはずです」


涼花の剣がまた、わずかに震えた。


白い表示が浮かぶ。


通過痕:高一致

侵入経路候補:天井梁/北側連絡溝

残留反応:薄

推奨:追跡より封鎖優先


「封鎖優先って出てます」と涼花が言う。


サナはすぐにうなずいた。


「その判断は妥当です。追っても、今のままでは形を失って逃がすだけでしょう」


ミレイが通路の奥を見やる。


「つまり、追い詰めるなら出口を絞るべきか」


「そうです」とサナは答える。「影は実体が曖昧なぶん、自由に見えます。ですが逆に言えば、安定できる場所が限られる」


そこでフィアが、壁際にしゃがみ込んだ。


指先を床に軽く触れ、瞼を閉じる。


「淡灯観測、細流だけ借りるね」


杖を使うほどではない、軽い観測だった。けれどフィアの周囲に淡い光が細く広がり、床板と石壁の継ぎ目を、糸みたいになぞっていく。


数秒ののち、フィアはゆっくり目を開いた。


「うん。北側通路に入ったあと、一回ここで揺れが集まってる。その先は、ふた手に分かれてる感じ」


「ふた手?」と涼花が聞く。


「ひとつは、さっき私たちが倒したやつ」とフィアが言う。「もうひとつはもっと薄い。たぶん見に来ただけ。もしくは道だけ確かめて戻ってる」


ミレイの声が低くなる。


「先遣と本命、ということか」


「そこまでは断定できないけど」とフィアは言いながら立ち上がる。「でも、ひとつじゃなかったのは確かだよ」


涼花の背に、ぞくりとしたものが走った。


さっき倒した一体で終わりではない。そのことは分かっていたつもりだったが、はっきり言葉にされると重みが違う。


そのとき、ルクトがまた別の方向を見ていた。


通路の先ではない。壁の向こうでもない。もっと曖昧な、どこか遠いものを見るみたいな目だった。


「ルクト?」とフィアが呼ぶ。


彼は少し間を置いて答えた。


「……影って、たぶん、ただ来るんじゃない」


「どういう意味?」と涼花が聞く。


ルクトは視線を落とさないまま、言葉を探すみたいにゆっくり続けた。


「引かれてる感じがする。揺れてる場所に寄るっていうより、そこへ流される前から、道があるみたいに」


フィアが少し真面目な顔になる。


「観測の流れ、みたいなもの?」


「たぶん」とルクトはうなずいた。「でも、うまく言えない。ただ、あれを見てると、ときどき……誰かが通るはずだった道を、別のものが使ってるみたいに見える」


涼花は思わず青い剣の柄を握った。


「誰かが通るはずだった道……」


ルクトは、自分で言ったことに自分でも説明がつかないような顔をした。


「ごめん。変な言い方だな」


「ううん」と涼花は首を振る。「たぶん、変じゃない」


フィアも小さく息をつく。


「その変な感じが、いままで何回も当たってるんだよねえ」


ルクトは返事の代わりに、少しだけ眉を寄せた。


「……たぶん、まだ増える」


「影が?」と涼花が聞く。


「うん」とルクトは答える。「増えるっていうか、近くなる」


その言い方は予想というより、どこかで聞いてしまった言葉を、そのまま口にしているみたいだった。


サナはルクトのほうを見たが、すぐには何も言わなかった。


代わりに、天井の擦過痕と連絡溝の位置関係を見直し、淡々と兵へ指示を出す。


「北側連絡溝、封板を追加。伝声管の分岐は今夜だけ止めてください。点検口は二重見張りに。記録室の保管棚は南側へ移します」


「そこまでやるのか」とミレイが問う。


「やるべきです」とサナは即答した。「今夜の侵入は、奪取に失敗しただけで、試しが終わったとは限りません」


兵が走っていく。


通路に残った涼花たちは、灯りの下で改めて周囲を見た。


狭い。閉じている。人の目と兵の足で守られた支局の内側だ。なのに、その守りの間をすり抜けるものがいた。


涼花はぽつりと言った。


「支局の中って、もっと安全だと思ってました」


ミレイが苦く笑う。


「そう思わせるための場所ではある。だが、現実はそう簡単じゃない」


「でも」とフィアが言う。「分かったこともあるよ。影はなんでもできるわけじゃない。安定する場所がいる。光にも引っかかる。止め方も、少し見えた」


その言葉に、涼花はさっきの戦いを思い出した。


フィアが輪郭を止め、ルクトが進路を読み、ミレイが横から押さえ、自分が正面を切った。補助表示は乱れた。それでも完全には消えず、ぎりぎりのところで繋がった。


便利だから勝てたのではない。誰かひとりが強かったからでもない。噛み合わせたから、止められた。


「うん」と涼花は言った。「あれは、ひとりじゃ無理だった」


サナがその言葉を聞いて、わずかにうなずく。


「その認識は大事です。補助表示も観測も感覚も、それぞれに穴があります。今回それでも迎撃できたのは、重ねたからです」


そこでサナは一度言葉を切り、涼花の剣へ視線を向けた。


「ただし、青い剣の反応は今後も使えるでしょう。影に対して、切るだけではなく、繋いで止める動きが出ていました」


「私にも、よく分かってなくて」と涼花が正直に言う。


「分かっています」とサナは答えた。「だからこそ、記録していきます」


そのとき、支局のどこか遠くで、短い鐘の音が鳴った。


一度。間を置いてもう一度。


警報ではない。けれど、完全解除の音でもない。


「再配置の合図です」とサナが言う。「仮部屋は移します。北側からさらに離れた部屋へ。今夜は休めるとは言いませんが、せめて座れる場所は確保します」


「ありがたいです」とフィアが言う。


「でも、寝られる気はしないなあ」


「寝られなくても、横にはなれ」とミレイが返した。「疲れた頭で次を迎えるほうが危ない」


ルクトはそのやり取りのあとも、少しだけ北側通路を見ていた。


まるで、もう誰もいないはずの先から、まだ何かが来る音を待っているみたいに。


涼花はそんな彼に近づいて、小さく声をかける。


「ルクト、行こう」


「ああ」と彼は答えた。


けれど歩き出す前に、ほんの一瞬だけ通路の天井を見上げて、低くつぶやく。


「……遅れてるだけなら、まだいい」


「え?」と涼花が聞き返す。


ルクトはすぐに首を振った。


「なんでもない」


そのなんでもないが、本当になんでもないものではないことくらい、もう涼花にも分かる。


サナに先導され、四人は北側通路を離れた。


背後では兵たちが封板を運び、点検口に鎖をかけ、灯りを増やしている。支局はまだ守りの形を保っていた。けれど同時に、守りの内側へ手を伸ばされうる場所なのだという現実も、今夜はっきりしてしまった。


廊下を曲がる前、涼花は一度だけ振り返る。


北側通路にはもう何もいない。


それでも、石壁と灯りの境目に残るわずかな黒ずみが、まだこちらを見返してくる気がした。


視界の隅に、白い文字が静かに浮かぶ。


初期分析:完了

影:暫定定義を更新

支局安全圏:限定的

次段階:封鎖維持/情報照合/第二波警戒


完了、と出ているのに、安心はどこにもなかった。


理解は一歩進んだ。

けれど、その一歩ぶんだけ、相手の不気味さも輪郭を持ってしまった。


セイル支局の夜は、まだ終わらない。


静まり返った石の廊下の奥で、次に来るものの気配だけが、ゆっくりと形を取り始めていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ