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封鎖の夜と、記録窓の向こう側

北側通路を離れたあとも、支局の夜は少しもやわらがなかった。


石造りの廊下を進むあいだ、涼花たちは何度も足を止められた。封板を運ぶ兵、記録箱を抱えて走る事務係、灯りの芯を替える見張り役。いつもなら静かに役割だけが流れているはずの支局が、今夜に限っては、沈黙の中で慌ただしく呼吸しているみたいだった。


先頭を歩くサナは、歩調を緩めずに言う。


「北側の封鎖は一次対応です。あくまで、今ある穴を急いで塞いでいるだけだと思ってください」


その言い方に、フィアが苦笑した。


「安心していいとは言ってくれないんですねえ」


「言えません」とサナはきっぱり返す。「今夜の相手は、こちらが安全だと思っている場所を確かめに来ています。なら、こちらも安全だと思い込まないところから始めるべきです」


ミレイが短くうなずく。


「正しいな。甘い顔をされるより助かる」


涼花は廊下の窓をちらりと見た。外はもう深い夜の色だ。けれど都市は完全に眠ってはいないらしく、遠くで荷車の音がし、ごく小さく人の声も混じる。


セイルはまだ生きている。

そのざわめきの外側に、いま自分たちは隔てられているのだと、妙にはっきり感じた。


新しく通された仮部屋は、北側からかなり離れた南寄りの一角だった。


前の部屋より少しだけ広いが、そのぶん家具は最低限で、寝台が四つ、壁際に水差し、椅子が二脚、窓には内側から板戸が追加されている。逃げやすくも、籠もりやすくもない、あくまで一時避難の部屋という印象だった。


「ここを今夜の待機場所とします」とサナが言う。「扉の外には二名立たせます。ですが、異常が出た場合は中で籠もるより、状況に応じて動いてください」


「つまり、また走れってことですね」とフィアが言う。


「その可能性はあります」


あまりにも迷いのない返答に、フィアが肩をすくめる。けれど、その顔には本気の不満よりも、今夜はそういう夜だと受け入れた苦笑があった。


サナは続けて、部屋の中を見回した。


「灯りは消さないでください。窓の板戸は半分までなら開けて構いませんが、外を長く見ないこと。呼び出しが必要なら、この鈴を使ってください」


小さな真鍮の鈴が机の上に置かれる。


涼花がそれを見て、「分かりました」と答えると、サナは一瞬だけ彼女の青い剣へ目を向けた。


「剣は手元に。今夜に限っては、そのままで」


そう言い残して、サナは部屋を出ていった。


扉が閉まると、ようやく狭い静けさが戻る。


誰もすぐには座らなかった。


フィアが先に大きく息を吐き、壁際に杖を立てかける。


「……なんというか、休んでいいって言われるほど休みにくくなる部屋だね」


「分かる」と涼花も苦笑した。「横になれって言われても、今はちょっと無理かも」


ミレイは扉の位置と窓の位置を確認してから、ようやく椅子の一つに腰を下ろした。


「無理に寝る必要はない。だが、立ったまま緊張を続けると、いざというとき足が鈍る。座れるやつは座れ」


言われて、涼花も寝台の端に腰を下ろす。


剣は膝の上に置いたままだ。熱は落ち着いているが、完全に静まってはいない。まだ何かを拾っているような、そんな微かな脈が続いている。


ルクトだけは、すぐには座らなかった。


彼は部屋の中央で立ち止まり、窓ではなく天井の梁、その次に床、その次に扉と、妙な順番で視線を動かしている。


フィアがその様子を見て、少しだけ声をやわらげた。


「ルクト、また変な感じする?」


ルクトは数秒考えてから答えた。


「……北側ほどじゃない。でも、止まってない」


「何が?」と涼花が聞く。


「流れ」とルクトは言った。「さっきのが終わった感じじゃない。どこかで、まだ続いてる」


ミレイが椅子に座ったまま目を細める。


「支局の中で、か」


「中か、外か、そこまでは分からない」とルクトは言う。「でも、切れてない」


フィアが寝台の端に腰を下ろしながら、ぽつりとつぶやく。


「やだなあ。切れてない、って言い方、すごくやだ」


それでも彼女は軽い口調を崩しすぎない。涼花には、その軽さがかえってありがたかった。


部屋の中で短い沈黙が落ちる。


やがてミレイが、実務的な声に戻って口を開いた。


「今のうちに整理するぞ。今夜わかったのは三つだ。ひとつ、影は支局の内側まで差し込める。ひとつ、完全な実体ではないが、固定されれば人を傷つける。そしてもうひとつ――」


「止められる」と涼花が答えた。


ミレイはうなずいた。


「そうだ。条件つきだが、止められる」


フィアも続ける。


「光に引っかかる。進路を絞ると安定点が見える。あと、複数で噛み合わせたほうが強い」


「単独追撃は非推奨、って出てた」と涼花が言うと、フィアが「それはすごく正しかったね」と小さく笑った。


ルクトはそこで、ようやく壁際に寄った。


けれど寝台には座らず、扉の横に近い位置で立ったままだ。


「そこがいいの?」と涼花が聞く。


「たぶん」とルクトは答えた。「ここだと、どっちに動くにしても遅れない」


その返答は相変わらず曖昧だったが、もう誰も深く突っ込まない。


理由になっていないようでいて、ルクトのそういう感覚は、いまのところ外れたことがないのだから。


少しして、扉の外から鈴ではなく、控えめなノックがあった。


「サナです。入ります」


扉が開き、サナが細長い木箱を抱えて入ってくる。その後ろから若い兵が水差しと簡単な夜食――硬いパンと温かい汁物――を運び込んだ。


「ひとまず、これを」とサナが言う。「長く起きることになるかもしれません」


「助かります」と涼花が頭を下げる。


兵が出ていったあと、サナは木箱を机の上に置いた。蓋を開くと、中には薄い板や紙片、刻印付きの小さな留め具が整然と収められている。


「北側通路で回収したものの写しと、支局側の簡易見取りです。本来は朝に回す作業ですが、いま共有しておいたほうがいいでしょう」


ミレイが立ち上がって机へ寄る。


「こちらにも見せてもらえるのか」


「今回の迎撃に立ち会った以上、共有しない理由がありません」


サナはそう言って、一枚の薄板を机に広げた。手書きの簡略図だ。北側通路、記録室、連絡溝、点検口、外壁沿いの位置関係が書き込まれている。


フィアが汁物の器を持ったまま身を乗り出す。


「思ったより細かい……」


「細かくなければ対策になりません」とサナが返す。「それから、これは私見ですが――今回の侵入は、破壊より確認が主目的だった可能性があります」


「確認?」と涼花が聞く。


「ええ」とサナは図の一点を指した。「記録室、伝声管、認証片の仮保管位置。触れようと思えばもっと強引に来られたはずです。なのに、実際に押してきたのは最小限だった」


ミレイが険しい顔になる。


「次のために見に来た、ってことか」


「その可能性があります」


フィアは器を机に置き、真面目な目になった。


「じゃあ、次はもう少し噛み合った形で来るかもしれない?」


サナは即答した。


「はい。だから今夜の封鎖は、守るためというより、相手に次の正解を渡さないための意味もあります」


その言葉に、部屋の空気がまた少しだけ引き締まる。


涼花は見取り図を見つめながら、自分でも気づかないうちに剣の柄を握っていた。


視界の端に、白い文字がかすかに浮かぶ。


封鎖状態:継続

危険水準:中

推奨:休息と情報照合

注意:第二波可能性あり


休息と情報照合。


たしかに今必要なのは、その二つだった。


「サナさん」と涼花が言う。「影って、支局の人たちの間でも、まだよく分からないものなんですか」


サナは少しだけ考えるように目を伏せた。


「現場では、分からないものを分からないままにしておく余裕がありません。だから、対処できる形の定義を先に置きます。ですが、定義と正体は別です」


「定義と正体……」


「ええ。今夜あなたたちに伝えたのは、あくまで現場で必要な範囲です。それ以上の整理は、記録を照らし合わせなければ進みません」


フィアが小さく笑う。


「つまり、今わかることだけで戦えってことだね」


「そうなります」


答えは素っ気ない。けれど、誤魔化しはなかった。


サナは図面を机に残し、最後に一度だけルクトへ視線を向けた。


「何か違和感があれば、どんな曖昧なものでも教えてください。根拠の薄いものほど、今夜は捨てないほうがいい」


ルクトは短く「ああ」と答えた。


サナが退室すると、再び部屋は四人だけになる。


フィアはようやく汁物を口に運びながら、「あったかい」とつぶやいた。その何でもない一言に、涼花も少しだけ肩の力を抜く。


しばらくは誰も大きく話さず、硬いパンを割る音や器の触れ合う音だけが小さく続いた。


その静かな時間のあいだも、支局のどこかでは人が走っている。遠い足音が、壁越しに何度か響いた。


やがてフィアが、器を置いて言った。


「ねえ、涼花ちゃん。さっきの表示、まだ出てる?」


「ずっとじゃないけど、時々」と涼花は答える。「いまは封鎖状態とか、危険水準とか。戦ってる最中より静かだけど、完全には消えてない」


「そっか」


フィアは少しだけ考えてから続けた。


「やっぱり、あれって便利なだけじゃないね。見えすぎるぶん、引っ張られる感じもある」


涼花はうなずく。


「うん。助かったけど、あれに全部任せていい感じではない」


「任せた瞬間に穴になる」とミレイが言う。「ルクトの勘も、フィアの観測も同じだ。強い手段ほど、頼り切ると鈍る」


ルクトは扉のそばに立ったまま、ぽつりと口を開いた。


「でも、重なると見える」


三人がそちらを見る。


ルクトは少し言葉を探してから続けた。


「ひとつだと抜ける。でも、重なると、たぶん向こうもずれる」


フィアが「それだねえ」と苦笑する。


「今日の勝ち方、そのものだ」


涼花はその言葉に救われる思いがした。


特別な剣がある。白い補助表示も見える。けれど、それで全部が片づくわけではない。むしろ、ひとりで背負わなくていい理由になるのなら、そのほうがずっといい。


窓の外で、風が一度だけ板戸を鳴らした。


部屋の空気が少し冷える。


ルクトがそちらへ顔を向けたが、「外はまだ遠い」とだけ言って、それ以上は何も言わなかった。




そのころ、記録窓の向こう側では、別の夜が動いていた。


薄暗い監視室のような空間に、北側通路の映像が止まったまま残っている。黒い輪郭が灯りの下でわずかにずれ、涼花の剣光がその輪郭を切り裂く直前の場面だ。


えんちゃんは椅子にもたれたまま、表示された固定ログを睨んでいた。白槻は隣で数値の崩れ方を追い、部長は少し離れた位置で腕を組んでいる。


先に口を開いたのは、白槻だった。


「現場向けの説明としては、今ので十分ですね。継目が乱れた場所で、形を失ったものがこちらへ半端に触れた結果」


えんちゃんが小さく息を吐く。


「うん。嘘ではないし、足りないだけ」


部長が低く言った。


「足りない、で済ませるな。どこが足りない」


問い返されて、えんちゃんは少しだけ姿勢を起こした。


「影を敵の兵器って言い切ると、ずれるんですよ。敵が使ってるのは確かです。でも、あれ自体はもっと管理の綻びに近い」


部長は黙って続きを促した。


えんちゃんは止まった映像を指先で示した。灯りの下で黒い輪郭の肩と影が噛み合わなくなる瞬間だ。


「本来、ああいうのはそのまま立たないんです。向こう側で曖昧なまま流れて、こっちではノイズみたいに散る。なのに継目が傷んでると、観測の線に引っかかる。引っかかったものを、さらに誰かが形に寄せると、ああなる」


白槻がその言葉を継いだ。


「影はゼロから作った駒というより、漏れたものを使える形へ整えたもの、ですね」


部長の眉がわずかに動く。


「漏れたもの、か」


「はい」と白槻が答える。「だから補助表示も乱されます。同じ系統の観測線を使っているからです。敵が出している異常というより、管理の外に出た揺れを、敵が利用しているに近い」


えんちゃんは苦い顔で笑った。


「こっちの都合で言えば、いちばん面倒なやつです。純粋な魔物なら対策を組める。純粋な人為工作でも封じ方がある。でも影は、その間にいる。しかも涼花ちゃんの剣は、そこに触れちゃう」


部長が短く問う。


「触れるのか。読んでいるのか」


「両方です」とえんちゃんは言った。「見えて、反応して、たまに繋いでしまう。だから便利なんじゃなくて、危ない」


白槻も静かに続ける。


「影は運営側そのものではありません。ただ、観測や調整が通るはずだった線路に綻びが出たとき、生まれやすい。そう考えると、今回の乱れ方も説明しやすいです」


部長はしばらく無言だったが、やがて低く言った。


「現段階で、それを本人たちに全部言う必要はないな」


「ないです」とえんちゃんは即答した。「いま必要なのは、何が危ないかまでです。なぜそんなものがあるのかは、まだ早い」


白槻がうなずく。


「ただ、次の段階では避けられません。支局の内側まで来た以上、“影”を街道の怪異扱いだけで済ませるのは無理です」


部長は止まった映像に視線を向けたまま言った。


「なら覚悟しておけ。説明は、いずれ要る」


えんちゃんは、珍しく軽口のない声で答える。


「はい。たぶん、その時はもう敵が増えたじゃ済まないです」


その会話のあと、監視室にはしばらく無音が落ちた。




記録窓の向こうでは、支局の石廊下を兵が行き交い、封板が運ばれ、北側の灯りが増やされている。どれだけ手を入れても、綻びそのものが消えるわけではない。けれど、手を入れなければもっと早く崩れる。


白槻が新しいログを開きながら言う。


「ルクトの先読みも、また早かったですね」


「早いというか、ズレ方を先に拾ってる感じかな」とえんちゃんが答える。「本人は勘だと思ってるだろうけど」


「勘で片づけるには、精度が高すぎます」と白槻。


部長が短く問う。


「介入の痕跡は」


えんちゃんは少しだけ言葉を濁した。


「断定はしません。でも、自然にあそこまで噛み合うなら、それはそれで別の意味で怖いです」


部長はそれ以上追及しなかった。


ただ、「拾えるものは全部拾っておけ」とだけ言う。


そのころ仮部屋では、ようやく灯りの位置が落ち着き、四人もそれぞれの場所を決めつつあった。


ミレイは椅子のまま目を閉じているが、眠ってはいない。フィアは寝台に横になったものの、杖は手の届く場所へ置いたままだ。ルクトは結局、扉のそばの壁に背を預けて座り込んだ。完全に休む形ではないが、少なくとも立ち続けるのはやめたらしい。


涼花も寝台へ腰をずらし、壁にもたれる。


剣は隣に置いた。白い表示はときどき薄く浮かび、また消える。その繰り返しだった。


封鎖状態。

安全圏、限定的。

第二波警戒。


同じ言葉が、何度も静かに視界を横切る。


それでもさっきまでより少しだけ、息はしやすくなっていた。


「ねえ」とフィアが天井を見たまま言う。「もし次が来たら、今度はもう少しうまくやれるかな」


涼花は少し考えてから答えた。


「怖いけど、さっきよりは分かると思う」


ミレイが目を閉じたまま言う。


「それで十分だ。分からないまま二度目を迎えるのが、いちばんまずい」


ルクトは壁に背を預けたまま、低くつぶやく。


「……二度目で終わるとも限らない」


フィアが片目だけ開けて、「そういうことを寝る前に言うかなあ」とぼやいた。


ほんの少しだけ、部屋に笑いに近いものが落ちる。


それは長くは続かない。けれど、まったく無意味でもなかった。


支局は封鎖されている。

夜はまだ続いている。

影の定義はついたが、正体はまだ遠い。


それでも、手探りのまま立ち向かうよりはましだった。


涼花は目を閉じる手前で、ふと窓の板戸の隙間に視線を向けた。


外は暗い。石の街路と屋根の線が、夜の底でじっと沈んでいる。


そのどこかに、まだ続いている“流れ”があるのかもしれない。


視界の隅に、白い文字が静かに浮かんだ。


封鎖の夜:継続

記録照合:進行中

安全圏:未確定

次段階:痕跡収束/第二波観測/内部選別


未確定、という言葉が、いまの夜にはいちばん似合っていた。


涼花はその表示を見届けてから、ゆっくり息を吐く。


支局の夜は閉じたようでいて、まだどこかが開いたままだ。


そして記録窓の向こう側でもまた、こちらを見ている誰かがいる。


封鎖の夜は、ただ守るための夜ではない。

誰が何を見て、何を隠し、何を次へ持ち越すのか。


その選別が、静かな石壁の向こうで、もう始まっていた。

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