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夜の都市に走る影

窓の外を横切ったものは、ほんの一瞬だけだった。


黒い。

速い。

人の形に見えたのは、まばたきより少し長い程度の時間しかない。


「っ!」


最初に立ち上がったのは涼花だった。

同時にフィアが杖をつかみ、ルクトは扉へ走る。


「今の、見た!?」  涼花が叫ぶ。


「見ました!」  フィアの声も緊張している。 「でも、人の動きと少し違います!」


ルクトは扉を開けるなり、廊下の兵へ鋭く言った。


「北側、外壁上! いま通った!」


夜番の兵が一瞬だけ目を見開き、すぐに廊下の先へ駆けた。

続けて警笛が短く鳴る。


支局の空気が一気に張りつめる。


涼花は窓へ駆け寄った。

石造りの外壁、その向こうの屋根筋に、黒い影がひとつ走っているのが見える。


人かどうか、判別しきれない。

だが、ただの夜鳥でも猫でもない。


視界の端に文字が浮かんだ。


外周反応:高速移動体

識別:不安定

推奨:単独追跡を避ける


「単独追跡を避ける、ね……!」  涼花は舌打ちしたい気分でつぶやく。


追いたい。

でも、今それをやるのが悪手だということくらい、自分でも分かる。


フィアが窓辺に並び、外へ杖を向けた。


「《淡灯標》……遠見の灯」  フィアが静かに唱える。


小さな光点が夜気の中へ走り、屋根筋の少し先へ浮かんだ。

その光に照らされて、黒い影の輪郭が一瞬だけはっきりする。


フードを被った人影。

だが、その足元の影だけが、屋根の傾きと合っていない。


「やっぱり、ずれてる……」  フィアが息をのむ。 「完全な人ではありません」


廊下の外から、ミレイの声が飛んだ。


「全員、部屋から出るな!」  ミレイは下の階から命じているらしい。 「北側外周、追跡班を出す! 窓際から離れろ!」


ルクトが戻ってきて、涼花の腕を軽く引いた。


「下がれ」  ルクトが言う。 「いま狙われるなら、窓際だ」


「でも――」  涼花が言い返そうとすると、ルクトはきっぱり続けた。


「見るなとは言わない。だが、見せるな」


その言い方に、涼花は一瞬だけ言葉を失った。


見せるな。

つまり、こちらが見ていることを、向こうへ気づかせるなという意味だ。


ルクトは本当に、こういうときの判断が妙に早い。


フィアも窓から半歩だけ下がり、光点だけを外へ残す。


夜のセイルの屋根を、黒い影がさらにひとつ飛び越えた。

その先で、支局側の兵の灯りが動く。追っているのだ。


だが次の瞬間、影はふっと輪郭を崩した。


「……消えた?」  涼花が低く言う。


「いいえ」  フィアが目を細める。 「消えたというより、薄くなりました。屋根の影と重なっています」


「また、ずれを使ってるってこと?」  涼花が聞くと、フィアはうなずいた。


「たぶん、そうです」  フィアは杖を握る手に力をこめる。 「継目の揺れを使って、存在感そのものを曖昧にしています」


ルクトは窓の外を見ずに言った。


「下じゃない」 「え?」  涼花が聞き返す。


「下へ逃げたように見せてる」  ルクトは扉のほうを見る。 「本命はまだ近い」


その直後だった。


部屋の外、北側廊下のさらに奥で、金属が擦れるような小さな音が鳴った。


涼花とフィアが同時にそちらを見る。

ルクトは、まるで最初から分かっていたみたいに扉へ手をかけていた。


「やっぱりだ」  ルクトが低く言う。


廊下の向こうから、兵の鋭い声が上がる。


「止まれ!」


次いで、短い衝突音。

誰かが壁へぶつかる音。

そして、もう一度、警笛。


涼花の視界に新しい文字が浮かぶ。


館内反応:発生

位置:北側通路

推奨:指示待機、ただし即応準備


「……館内」  涼花は小さくつぶやいた。


外を走った影は囮だ。

本命は、最初から支局の中へ触れていた。


フィアが杖を握りしめる。


「涼花さん」 「うん」 「いまは、まだ出ないほうがいいです」  フィアの声は震えていない。 「でも、出る準備はしておいてください」


「分かった」


涼花は剣の柄を握る。

青い刃はまだ抜かない。けれど、いつでも動ける位置へ体を寄せる。


扉の外では、足音が増えていく。

支局中の兵が動き始めたのが分かった。


そのころ、支局の一階ではミレイが追跡班へ短く命令を飛ばしていた。


「外周班は屋根筋を切れ!」  ミレイの声が廊下へ響く。 「北側通路は封鎖、館内側は二重で押さえろ! 急報案件の部屋へ近づけるな!」


別の兵が応じる。


「館内反応、北側廊下から二階寄りです!」 「侵入者は一人とは限らない!」  ミレイが即座に返す。 「影に釣られるな!」


その声を、仮部屋の中でもはっきり聞き取れた。


涼花は息を整えながら思う。


門前での騒ぎも早かった。

でも、これはそれより近い。

もう、都市の中どころではない。支局の内側まで来ている。


ルクトは扉に手をかけたまま、廊下の向こうを見据えていた。

その横顔は、迷っているようにも、最初から待っていたようにも見える。


「ルクト」  涼花が呼ぶ。


ルクトは視線を動かさずに答えた。


「たぶん、次はこっちへ来る」  ルクトの声は低い。 「だから、開いたら一歩下がれ」


「……そのたぶん、信じるよ」  涼花が言うと、ルクトはほんのわずかに口元を動かした。


「それが正解だと助かる」


そのころ、えんちゃんたちの側でも支局内部の反応が一気に跳ね上がっていた。


「来た……!」  えんちゃんがモニターへ身を乗り出す。 「やっぱり外だけじゃ終わらなかった!」


白槻はすでに別窓のログを開いている。


「館内北側通路、異常反応あり」  白槻が淡々と読み上げる。 「外周の高速移動体は攪乱の可能性大。本命は内部接触を優先」


「それ、ルクトくんと同じ読みだ」  えんちゃんが言う。


「ええ」  白槻は即答した。 「先行判断としてはかなり優秀です」


「優秀っていうか、もはや怖いんだけど」  えんちゃんは眉をひそめる。 「本人に説明できないのがいちばん怖い」


「それでも動けるなら、現場では強いです」  白槻は冷静に言う。 「問題は、その先です」


「その先?」  えんちゃんが聞き返すと、白槻はモニターの仮部屋を見た。


「勘だけで切り抜け続けると、いずれ本人が自分を信じきれなくなる」  白槻が言う。 「導かれているのか、思い込みなのか、境界が曖昧になるので」


えんちゃんは小さく息をついた。


「……そうなる前に、うまく噛み合ってほしいなあ」 「同意します」  白槻はいつもどおりの声で答えた。 「今夜を越えられれば、次の手は打てます」


仮部屋の外では、また一段、足音が近づく。


誰かが走ってくる足音。

追う側か、逃げる側か、それはまだ分からない。


涼花は剣の柄を強く握り直した。

フィアは杖を構えたまま、呼吸を細く整えている。

ルクトは扉の前から動かない。


セイル支局二階、仮部屋。


扉一枚を隔てた向こうで、夜の都市の影がとうとう支局の中へ手を伸ばし、そして次の瞬間には、この部屋の前まで届こうとしていた。

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