仮部屋の小休止と、北側の違和感
支局の仮部屋へ通されたあと、最初に涼花が感じたのは、安心よりも先にくる妙な空腹だった。
緊張が切れたせいだろう。
街道での待ち伏せ。
休み場での尋問。
中継柱での急報。
セイルへの到着。
支局での事情聴取。
そこまでずっと、気を張ったまま動いていた。
「……お腹すいた」
涼花が正直に言うと、椅子に腰を下ろしていたフィアが少しだけ笑った。
「それはよかったです」 フィアは胸の前で杖を抱えたまま答える。 「食欲があるうちは、たぶんまだ大丈夫です」
「たぶん、って言い方が不安なんだけど」 涼花が返すと、フィアは困ったように目を伏せた。
「断言すると、あとで外れたときに怖いので……」
そのやり取りを、窓際に立っていたルクトが聞いていた。
「飯なら持ってくるだろ」 ルクトは外を見たまま言う。 「急報案件を部屋に押しこんで、水だけ置いて放置するほど雑じゃない」
「それは信頼してるの?」 涼花が聞くと、ルクトは短く答えた。
「最低限の段取りをしてくる程度には」
そこへ、扉が軽く叩かれる。
入ってきたのは、支局で雑務をしているらしい若い職員だった。
盆の上には、湯気の立つ薄いスープ、黒パン、干し肉をほぐした皿、それから湯を張った桶が二つある。
「記録官のサナさんからです」 若い職員は少し緊張した顔で言った。 「食事と、簡単な洗い湯を。あと、替えの部屋着をお借りできましたので、必要なら」
その言葉に、涼花は思わず身を乗り出した。
「替え、あるの?」 涼花が聞くと、若い職員はこくりとうなずく。 「はい。女性用は数が少ないので仮ですが……」 「十分です」
答えながら、涼花は本気でほっとした。
肩口を裂かれた服のまま、都市の支局で一晩過ごすのは正直かなり嫌だった。
汗も気になるし、土埃もついたままだ。街道を歩いているときは後回しにできても、部屋に入って落ち着くと一気に気になってくる。
フィアもその感覚は同じだったらしい。
職員が置いていった布包みを見て、目に見えて肩の力を抜いた。
「助かります……」 フィアが小さく言う。 「さすがに、学舎の寮でもここまでのまま寝たことはありません」
「だよね」 涼花は深くうなずく。 「まず顔洗いたいし、髪も整えたいし、できればもう一回人生をやり直したいくらい」
「そこまでですか」 フィアが少しだけ笑う。
ルクトはそんな二人を見て、短く言った。
「先に使え」 ルクトは扉のほうへ視線を向ける。 「廊下側にいる。呼べば戻る」
「気を遣ってくれてる?」 涼花が聞くと、ルクトはわずかに肩をすくめた。
「必要な配慮だろ」
それだけ言って、ルクトは部屋の外へ出た。
扉が閉まったあと、涼花とフィアは顔を見合わせる。
「……ルクトさん、ああいうところはちゃんとしてますよね」 フィアが言う。 「妙に」 涼花が答えた。 「妙に、って言うと失礼だけど」
支局の貸し出し部屋着は、飾り気のない長袖の上衣と薄手のズボンだった。
かわいさも何もないが、今の涼花にはそれで十分だった。
洗い湯で顔と首筋を拭き、肩口の傷の周りをそっと洗う。
汗のにおいが落ちるだけで、少しだけ自分を取り戻した気がした。
「はあ……」 涼花が息をつく。 「生き返る」
「分かります」 フィアも髪を拭きながら言う。 「街道では、清潔にすること自体が贅沢なんですね」
「うん。前は風呂とかシャワーとか、あるのが当たり前だったんだけど」 涼花は濡れた前髪を指で整える。 「なくなると、どれだけ大事だったか分かる」
フィアは静かにうなずいた。
「生活魔法を最初に覚えたいって言っていた気持ち、いまならもっと分かります」 「でしょ」 「はい。かなり」
少しだけ笑い合ってから、涼花は肩の傷にもう一度目を落とした。
浅い。
だが、赤い筋はまだはっきり残っている。
剣を握る手に問題はない。
けれど、動けると無理していいは別だと、今日は何度も言われたばかりだった。
廊下では、ルクトが壁にもたれたまま目を閉じていた。
休んでいるようにも見える。
だが、気を抜いてはいないと分かる立ち方だった。
そこへ、階段のほうから軽い足音が近づいてくる。
「中の様子は?」
声をかけてきたのはミレイだった。
夜番への引き継ぎ前なのか、昼間と同じ青灰色の外套のままだ。
「生きてる」 ルクトが目を開けずに答える。 「疲れてはいるが、潰れてはない」
「雑な報告だな」 ミレイは呆れたように言う。 「だが、間違ってはいないか」
ミレイは廊下の窓から外を見下ろした。
支局前の通りにはまだ兵が増えている。検問の延長線上にある緊張が、支局の周囲にもそのまま流れこんでいた。
「北列の逃走者はまだ見つかっていない」 ミレイが低く言う。 「館内は押さえているが、都市の中へ完全に消えられたら面倒だ」
「……北か」 ルクトがぽつりと言った。
ミレイが視線を向ける。
「何かあるのか」 ミレイが問うと、ルクトはようやく目を開けた。
「まだ分からない」 ルクトは静かに答える。 「ただ、今日は北側がずっと嫌だ」
「また勘か」 ミレイが確認すると、ルクトは即答した。
「そうだ」 「外れていれば、それでいい」
ミレイは数秒だけ黙った。
中央路を避けさせた件がなければ、鼻で流したかもしれない。
だが今は、その勘を簡単に切る気になれなかった。
「夜番に伝えておく」 ミレイが言う。 「支局北側、屋根筋と外壁沿いを一枚厚く見る」
「そうしろ」 ルクトは短く答えた。
その返し方があまりにも自然で、ミレイは思わず少しだけ眉を上げた。
「命令する口調だな」 ミレイが言うと、ルクトは少しだけ視線を逸らした。
「そう聞こえたなら悪い」 「いや、別にいい」 ミレイは小さく息を吐く。 「たまにいるんだ。理由は曖昧なのに、間違える気配が薄いやつが」
ルクトは返事をしなかった。
ただ、自分でもうまく説明できないものを抱えているときのように、ほんのわずかだけ視線を伏せる。
そのころ、えんちゃんたちの側では、支局二階の仮部屋と廊下の映像が並べて映し出されていた。
「すずかちゃん、やっと服替えられてよかった……」 えんちゃんが心底ほっとした顔で言う。 「ずっと気になってたんですよ。いや、戦闘とか急報のほうが大事なのは分かるんですけど、あれ絶対しんどいじゃないですか」
「優先順位としては妥当です」 白槻がログを見ながら答える。 「生活条件の改善は、判断力の維持に直結します」
「そういう理屈で来るあたり、白槻さんだなあ」 えんちゃんは苦笑した。 「でも今回は、その理屈ありがたいです」
白槻はモニターの片方へ視線を動かした。
「それより、ルクトです」 白槻が言う。 「中央路の回避に続いて、北側警戒を先行させています」
「また早い」 えんちゃんが腕を組む。 「本人の中で、どういうふうに聞こえてるんですかね。あれ」
「聞こえる、というより」 白槻は少しだけ言葉を選んだ。 「そちらへ寄せられるに近いかもしれません」
「うわ、言い方がちょっと怖い」 えんちゃんが顔をしかめる。
「ですが、本人の主体性を損なっているようには見えない」 白槻は続ける。 「だから、外から見ると勘がいいで済んでしまう」
「済まない気がしてきたんだけどなあ」 えんちゃんはモニターの中のルクトを見る。 「自分で選んでるつもりの動きが、ちゃんと自分の選択でもある、みたいな」
「ええ」 白槻は淡々とうなずいた。 「今はまだ薄くていいでしょう。明かしすぎる段階ではありません」
「分かってますけど」 えんちゃんは小さく息をついた。 「心配になるんですよ。いろいろ」
「心配性ですね」 白槻が返す。
「そりゃそうでしょ」 えんちゃんは即答した。 「すずかちゃんも、フィアちゃんも、ルクトくんも、いま都市のど真ん中なんですよ」
白槻は少しだけ黙ってから、いつもより柔らかい声で言った。
「だからこそ、見張りは厚くしておきます」 「……そこは頼もしいんだよなあ」 えんちゃんは苦笑する。 「言い方は固いのに」
夜が来るのは、都市のほうが少し遅く見える。
空が暗くなっても、人の気配が簡単には引かないからだ。
セイルの通りには灯りが増え、荷を運ぶ車輪の音が細く長く続いていた。
仮部屋では、簡単な夕食を終えた三人がようやく腰を落ち着けていた。
フィアは机に広げた支局の粗い見取り図を見ている。
サナが置いていったものだ。外へ出るなという代わりに、建物の中で迷わない程度の情報は渡しておく、ということらしい。
「支局って、思ったより広いね」 涼花が寝台に腰かけながら言う。
「広いです」 フィアが見取り図を指でたどる。 「記録室、通信室、仮眠室、別棟の拘束舎、裏庭、北側通路……」
そこで、フィアの指が止まった。
「どうしたの?」 涼花が聞くと、フィアは図面を見たまま答える。
「北側通路、です」 フィアが小さく言う。 「なぜか、ここだけ気になります」
「北?」 涼花は思わずルクトを見る。
ルクトは壁際の寝台に座ったまま、短くうなずいた。
「さっきからそこが気になる」 ルクトははっきり言う。 「理由はない」
「また勘?」 涼花が聞くと、ルクトは少しだけ間を置いて答えた。
「……たぶん」 「でも、寝る前に一度見ておきたい」
フィアが見取り図から顔を上げる。
「わたしも行きます」 フィアが言う。 「観測は、じっとしているより動いたほうが拾えることがあります」
「私も行く」 涼花がすぐに言うと、ルクトが眉をひそめた。
「お前は休め」 「そう言われて休める空気じゃないでしょ」 「だから面倒なんだ」 「知ってる」
言い合いになりかけた、そのときだった。
扉が軽く叩かれる。
「夜番交代です」 外から兵の声がする。 「何か必要なものはありますか」
ルクトがすぐ立ち上がった。
「北側通路、誰が見てる」 扉越しにルクトが聞くと、外の兵が少し間を置いてから答える。
「いまは二名です。さっき追加指示が出ました」 「……ならいい」 ルクトは短く返した。
兵の足音が遠ざかったあと、部屋に一瞬だけ静けさが落ちる。
フィアが小さく言った。
「やっぱり、そこが気になっていたんですね」 「うん」 涼花も素直にうなずく。
そのときだった。
窓の外を、何かが横切った。




