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宿場の夜、盗まれたもの

水場でえんと別れたあとも、涼花の視界の端には、まだあの白い文字が薄く残っていた。


推定危険度:低

接近中の事象あり

夜間/対人トラブルの可能性


「……対人トラブルって何よ」


誰に聞かせるでもなくつぶやいて、涼花は宿場トーヴェの宿の二階へ戻った。


部屋ではフィアが、旅慣れない手つきで荷物を広げていた。替えの靴下と聖布、乾かしかけの髪留め、紙束、なぜか食卓でもらった塩の小袋まで全部いっしょくたにしていて、見ているだけで不安になる。


「フィア、それ、朝になったら絶対ぐちゃぐちゃになるよ」

「わ、分かっています……! 分かっているのですが、旅は家と違って、どこに何を入れるのが正解なのかが」

「正解っていうか、すぐ出すものを上にするだけ」

「そのだけが難しいのです……」


真顔で言われて、涼花は少し笑った。


昼間はしっかりして見えるフィアも、こういうところは年相応だ。いや、むしろ年齢より少し不器用かもしれない。学舎と町の往復はしても、何日も外を歩く旅なんて、ほとんどしたことがないのだろう。


「はい、これ。下着は布袋を分ける。薬草は匂い移るから端。紙は湿気るから真ん中」 「……涼花さん、妙に生活能力が高いですね」 「そこは褒めるとこなの?」 「かなり褒めています」 「ならいいや」


ルクトは窓際で短く息を吐いた。 「おまえら、寝るなら早くしろ。街道宿は静かな夜ほど面倒が起きる」 「それ、経験談?」 「経験則」


その言い方が妙に引っかかって、涼花はもう一度視界の端を見た。


白い文字が、さっきより少しだけ増えていた。


補助表示・試験運用中

対象:新井涼花

同期対象:青光剣

周辺異常:微弱

注意対象:未施錠の窓/深夜の人流変化


「……試験運用って何」


思わず口に出すと、ルクトがこちらを見た。 「何か見えてるのか?」 「いや、うん。まあ、たぶん」 「たぶんで済ませるな」


そう言われても説明しづらい。自分でも、剣が見せているのか、頭がおかしくなり始めたのか、まだ判別がついていないのだから。


そのときだった。


一階のほうから、木箱が倒れるような鈍い音が響いた。


続いて、誰かの怒鳴り声。


「盗まれたぞ! 荷袋が一つ消えた!」


部屋の空気が一瞬で張りつめた。


ルクトが立つ。フィアも荷物を放り出して杖をつかむ。涼花は反射で剣を取った。


その瞬間、白い文字が、今度ははっきりと形を結んだ。


発生事象:盗難

対象候補:商隊荷物/封蝋付き革袋

逃走予測:中庭 → 厩舎裏 → 東外柵

推奨初動


出口確認

同行者と役割分担

追跡は単独で行わない

「……っ」


今まででいちばん具体的だった。


「下だ!」  ルクトが先に扉を開ける。 「フィア、見える?」 「やってみます!」


三人は階段を駆け下りた。


宿の一階はすでに騒然としていた。商人風の男が青ざめた顔で荷台を指さし、宿の主人がランプを掲げている。床にはちぎれた紐、倒れた木箱、開けられたままの戸口。


「何を盗られたんですか!」  涼花が問うと、商人の男は声をひっくり返した。 「金袋もだが、それより封書だ! 依頼書と通行印の入った革袋だ、赤い封蝋の!」


白い文字が淡く瞬く。


優先対象更新:赤封蝋の革袋


金じゃない。そっちが本命だ。


「ルクト!」 「分かってる。足跡を見る」


ルクトは戸口の脇にしゃがみこみ、床、土、倒れた桶の位置、踏み散らされた藁を一息に見た。


「一人。軽い。子どもか女。だが走り方が素人じゃない」 「逃げた方角は?」 「厩舎裏。ただし――」


そこで彼は眉を寄せた。


「もう一つ、見てる奴がいた」


「え?」 「靴跡が薄い。様子見だけして消えてる。こっちは盗人じゃない」


嫌な感じがした。


フィアがそっと目を閉じ、杖の先を床に当てる。


「《淡灯観測》……残り火を、見せて」


ふわりと、宿の暗がりに薄青い粒子が浮かんだ。人の目にはただの夜気のきらめきみたいに見えるそれを、フィアは真剣な表情で追っていく。


「いました。扉、荷台、壁――それから、厩舎の角へ。急いでいます。でも、揺れています。迷ってる……?」 「迷ってる?」 「はい。何かを盗ったというより、何を持っていくか途中で迷ったような……そんな散り方です」


「上手い」  ルクトが短く言った。 「え」 「観測。使える」


たったそれだけなのに、フィアの目がまるくなった。


それから、少し遅れて頬が赤くなる。


「……はい!」


涼花はその変化に気づいて、なんだか自分まで少しうれしくなった。


「行こう。ルクトは追って、フィアは観測続けて。私は前に回る」 「単独で行くなって顔に書いてあるぞ」 「知ってる。でも先回りは必要でしょ」 「……無茶するな」 「そっちもね」


三人は宿の裏へ飛び出した。


宿場の夜は暗い。けれど完全な闇ではない。馬房の灯り、酒場の残り火、月に濡れた石畳。その間を、フィアの観測が拾った淡い残滓が糸のようにつないでいた。


「右です! 藁束の陰、そこを抜けてます!」 「速いな」  ルクトが低く言い、塀に手をかけて飛び越える。


涼花の視界では、白い補助表示が走るたびに組み替わっていた。


同行者位置

フィア:後方七歩

ルクト:左前方・高所移動


対象移動予測

残り距離:近

進路候補:外柵/荷車下/側溝


この表示、腹が立つくらい便利だ。


ただし、全部を信じる気にはなれない。信じるべきなのは、最後は自分の足と目だ。


厩舎の裏へ回った瞬間、ルクトの声が上から飛んだ。


「いた!」


小さな影が、外柵の隙間を抜けようとしていた。確かに軽い。まだ大人になりきっていない体つき。肩に革袋を抱え、必死に走っている。


涼花は地面を蹴った。


剣を抜く気はない。止めるだけだ。


だが、その瞬間、視界に別の文字が割りこんだ。


注意

対象の右前方に段差

転倒時、頸部損傷の可能性


「っ、危な――!」


涼花は踏み込みを変えた。正面からではなく、斜めに入る。段差の手前で相手の進路を切るように回りこみ、そのまま腕ではなく肩を押さえる。


「わっ!?」


影がもつれて倒れかける。そこへルクトが上から降り、逃げ道だけをきっちり塞いだ。フィアが遅れず光球を灯し、周囲を照らす。


捕まえたのは、十四か十五くらいの少年だった。


痩せていて、目だけがぎらついている。だが顔つきは、追い詰められた獣のようでもあった。


「放せよ! 金は取ってねえ!」 「じゃあ何を盗ったの」  涼花が息を整えながら言う。 「……知らねえよ。赤い袋持ってこいって言われただけだ」 「誰に」 「知らねえって!」


ルクトが少年の手元を見た。 「金袋は落としてる。こっちだけ握ってるな」


確かに、少年が抱えこんでいるのは赤い封蝋の革袋だけだった。


金目当てじゃない。


フィアがそっと一歩前に出る。 「……この方、嘘をつくときの揺れ方ではありません」 「分かるの?」 「少しだけ。観測は、光だけでなく、ためらいも見ます」


ルクトが眉を上げた。 「便利だな、それ」 「い、いま褒められました?」 「事実を言っただけだ」


フィアは口元を押さえた。たぶん今夜二回目だ。


涼花は少年から革袋を受け取り、封蝋を確認する。割れていない。よかった、と息をつきかけたそのとき、剣の柄が微かに熱を持った。


白い文字が、一拍遅れて浮かぶ。


補足

革袋に微弱な異常付着反応

旧中継塔由来に類似


「……え?」


思わず固まる。


旧中継塔と同じ。つまり、この袋はただの依頼書じゃない可能性がある。


その隙に、少年が叫んだ。


「おれは運ぶだけのはずだった! 黒い外套のやつが、あれを宿の外に出せって! 金はいらねえ、あれだけだって!」 「黒い外套?」  ルクトの声が低くなる。 「どこへ行った」 「知らねえよ! 怖くなって逃げようとしたら、お前らが来たんだ!」


ルクトが地面を見る。外柵の先、草地の途中まで続く足跡が、ある一点でふっと途切れていた。


「……おかしい」 「何が?」 「消えてる。足跡が」


フィアの灯した光が、そこだけ不自然に揺れた。


「ここ、空気が……」 「揺れてる?」 「はい。いいえ、揺れというより……継ぎ目が、ずれているみたいな」


その言葉に、涼花の背中を嫌な汗が伝った。


宿場の小さな盗難騒ぎで終わるはずだった。


なのに、まただ。旧中継塔で感じたあの、世界の布地が引っかかるような違和感が、こんなところにまで滲み出ている。


剣がかすかに震えた。


「……この袋、宿に戻そう」  涼花が言う。 「それと、この子も。話をちゃんと聞かないと」 「賛成だ」  ルクトは短くうなずく。 「ただし、今夜は交代で起きる。もう一人いる可能性が高い」 「わたしも起きます」  フィアがすぐ言った。 「大丈夫?」 「旅慣れていないからこそ、できることを増やしたいんです」


その声は、少し前よりずっと強かった。


涼花は笑う。 「じゃあ三人で起きよう。どうせ、たぶん誰もすぐには寝られないし」


少年を連れて宿へ戻る道すがら、白い補助表示がふっと薄れた。


試験表示・一時終了

観測精度:暫定良好

改善候補:文言整理/優先順位の最適化


「文言整理って……」  涼花は半眼になった。 「誰よ、これ作ってるの」


もちろん答える者はいない。

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