小さな事件と、見え始めた補助線
子どもは、驚いた顔のまま固まっていた。
倒れてくる木箱。
暴れる馬。
荷車を押さえようとして足を滑らせる行商人。
広場の空気が一気に乱れる。
私は反射で前へ出た。
たぶん、考えていたら遅かった。
その瞬間、また視界の端に白い線が走る。
今度はもっとはっきりしていた。
落下予測
右へ二歩
読めた、気がした。
気がしただけなのに、体は迷わず動いた。
右へ踏み込み、子どもの襟を掴み、そのまま引き寄せる。倒れてきた木箱が、さっきまで子どもがいた場所へ鈍い音を立てて落ちた。
「きゃっ」
「大丈夫?」
子どもは目を丸くしたまま、こくこくと頷く。
次の瞬間、馬がさらに暴れた。
今度は荷車ごと傾く。
「ルクト!」
「見えてる!」
ルクトはすでに前へ出ていた。
暴れた馬の横へ滑り込み、手綱の根元を素早く押さえる。力任せじゃない。馬の視界と首の向きを制御して、無駄に刺激しない動きだ。
「フィア、落ち着かせろ!」
「はいっ!」
フィアの杖先から、薄い緑の光が広がる。
「《穏気》!」
風みたいな補助魔法が馬の頭部を包む。
それだけで完全に静まるわけじゃない。でも、暴れ方が一段弱まる。
その隙に私は木箱の崩れた側へ回り、荷の重心を押し戻した。
剣を使うほどじゃない。むしろ使わない方がいい場面だ。こういう時、異常火力は邪魔でしかない。
行商人が青い顔で駆け寄ってくる。
「す、すまねえ! 子どもが近いの見えてなくて――」
「謝るのは後。固定具、どれですか」
「こ、これだ!」
私は渡された革紐を木箱へ回し、ルクトが荷台を支える。
フィアは馬の呼吸が落ち着くように、弱い補助を維持している。
数十秒。
でも、体感ではもっと長かった。
ようやく荷車が安定し、馬も大きく鼻を鳴らしただけで静かになる。
広場に、遅れてざわめきが戻ってきた。
「……助かった」
「危なかったな」
「今の子、無事か?」
あちこちから声が飛ぶ。
子どもの母親らしい女性が走ってきて、涙目で頭を下げた。
「ありがとうございました、本当に……!」
私は少しだけ息を吐く。
「大丈夫です。間に合ったので」
フィアがまだ緊張した顔のまま言う。
「スズカさん、今の、また見えましたよね」
小声だった。
でも、ごまかす意味はあまりなかった。
「見えた。
白い線と、言葉みたいなもの。短く」
ルクトが荷車から手を離しながらこちらを見る。
「何て出た」
「右へ二歩、って」
「……ずいぶん具体的だな」
それは私もそう思う。
単なる予感ではない。
でも、完全な表示でもない。
何かが、剣を通して、私の知覚へ補助線を引いている。
気味が悪い。
けれど、今のは確かに役に立った。
そこへ、少し離れた場所からえんちゃんが駆け寄ってきた。
息が上がっている。どう見ても運動は得意じゃない走り方だ。
「だ、大丈夫ですか!?」
「エンさん、今いたんだ」
「いました! いや、いましたけど、ええと、その、荷車の様子を見ていて!」
本当にこの人は、何かを誤魔化す時だけ言葉が増える。
行商人がえんちゃんに向かって礼を言う。
「そっちの旦那も、馬を壁側へ寄せてくれて助かった!」
私はそこで少し驚いた。
気づかなかったけれど、えんちゃんは反対側で他の馬を引いて、二次被害を止めていたらしい。
「……やっぱり、ただの旅商人じゃないよね」
思わずそう言うと、えんちゃんはすごく困った顔になった。
「その評価、最近よくもらいます……」
「自覚あるんだ」
「あります……」
フィアが少しだけ笑う。
緊張の後だからか、そのやり取りだけで場の空気が少し軽くなった。
その夜。
宿場の食堂は、旅人たちの声でほどよく賑わっていた。
大きな町の酒場ほど騒がしくないし、リネルのギルドほど顔見知りばかりでもない。知らない者同士が一晩だけ同じ屋根の下で食事をする、そういう宿場らしい空気だ。
私たちは隅の席を取っていた。
フィアは今日の記録を書きながら、スープを飲み、パンをちぎり、またノートを見るという器用なことをしている。
「ちゃんと食べながら書けるんだな」とルクト。
「訓練です!」
「何の」
「学舎では、授業後に書き残しながら軽食を取ることがあるので!」
理屈はわかるけれど、たぶんあまり良い癖ではない。
私はフィアのノートを少し覗き込んだ。
字が綺麗だ。しかも整理されている。
「丁寧だね」
「えへへ。そこは先生にも褒められます」
嬉しそうに言う。
こういうところ、本当にまだ見習いっぽくてかわいい。
「でも、その代わり、荷物にノート詰め込みすぎるんだよな」とルクト。
「うっ」
反論できない顔だった。
私はスープを口に運んでから、少しだけ真面目な声で言う。
「今日のあれ、たぶん本当に始まってる」
二人が顔を上げる。
「白い線?」とフィア。
「うん。
今までは“見えた気がする”だった。今日は、意味のある方向で出た」
ルクトが腕を組んだ。
「剣の補助か、別の何かか」
「どっちにしても、慣れる必要はありそうです」
フィアは小さく頷いた。
「怖いですけど、使えるなら使えた方がいいです」
その言葉は、いかにもフィアらしかった。
怖いと認める。でも、逃げる理由にはしない。
私は少しだけ笑う。
「本当に、ちゃんと術師だね」
「そうです!」
すごく誇らしそうだった。
一方その頃、宿場の裏手に停めた荷車の中では、えんちゃんと白槻が再び静かに衝突していた。
「見たでしょう」
白槻が簡易画面を指さす。
そこには、涼花の視界補助反応の記録が残っていた。
「危機予測の短文表示、反応良好。
しかも本人の行動阻害なし。試験導入としては成功です」
「成功って、そんな簡単に言わないでください」
「何が問題ですか」
「本人が何を見ているのかを理解していないまま発動してることです。
たまたま今回は助けになった。でも、次にもっと強い表示が出たら? 本人が混乱したら?」
白槻は淡々と返す。
「だから段階導入なんです」
「段階でも、勝手に頭の中へ線を引くのは変わらないでしょう」
「剣との同期が進んでいる以上、いずれ自然発生する可能性が高い。
なら制御不能の自然発生より、管理可能な補助へ寄せた方がいい」
そこまで言われると、えんちゃんは完全には言い返せない。
悔しい。
でも、悔しいのと間違っているのは別だ。
白槻は画面を切り替えた。
そこには、仮設計の項目が並んでいる。
危機予測
接地補助
同期率
環境脅威推定
適応階位(仮)
「レベルって言い方、まだ使うんですか」とえんちゃん。
「内部では便宜上」
「外では?」
「まだ出しません。
ですが、主人公が自分の成長を実感できる指標はいずれ必要です」
えんちゃんは腕を組んで、しばらく黙り込んだ。
その沈黙のあとで、ようやく絞り出すように言う。
「……もしやるなら」
「はい」
「強いからすごいじゃなくて、何ができるようになったかが見える方向にしてください」
白槻が少しだけ目を細める。
「それは良い修正です」
「今の褒めてます?」
「修正案としては、です」
嫌な言い方だ。
でも、前よりほんの少しだけ会話になっている気もする。
白槻は続けた。
「あなたは主人公の痛みを嫌う。
私は、物語の停滞を嫌う。
なら、間を取るしかないでしょう」
「間、ですか」
「ええ。
壊さず、止めず、浅く揺らして、深く育てる。
理想論ですが、悪くない目標です」
えんちゃんはその言葉を聞いて、少しだけ意外に思った。
このコンサルは、もっと冷たい効率だけの人間だと思っていたからだ。
でも違うのかもしれない。
少なくとも、良いものを作る気はある。
方法論が合わないだけで。
「……わかりました。
ただ、先走るのはなしです」
「私が先走るように見えますか」
「見えます」
「それは心外です」
全然心外そうな顔ではなかった。
食事のあと、私は宿場の外れにある水場まで一人で歩いた。
夜風が少し冷たい。
宿場の灯りは小さいけれど、完全な闇ではない。
空を見上げると、異世界の月が二つ、薄く重なるように浮かんでいた。
「……眠れるかな」
そう呟きながら、手を洗う。
《微水》と《洗浄》で十分ではあるけれど、旅先ではこういう冷たい水も少し気持ちいい。
すると、背後で足音がした。
振り向くと、えんちゃん――エンさんだった。
手には水袋。やっぱり顔色はあまり良くない。
「すみません、邪魔でしたか」
「ううん。別に」
少しだけ間が空く。
昼間より、話しやすい気がした。
たぶん、朝にも少し話したからだろう。
「エンさんって、ちゃんと旅商人じゃないよね」
私がそう言うと、えんちゃんは困った顔で笑った。
「ちゃんと、の定義が難しいですね……」
「じゃあ、別の言い方する。
何かを隠してるのはわかる。でも、私たちにとって悪いことだけを考えてる人じゃないのも、たぶんわかる」
えんちゃんは水袋を持ったまま、しばらく黙っていた。
それから、ぽつりと言う。
「……あまり、嫌われたくないんです」
思っていたよりずっと素直な言葉だった。
私は少しだけ目を丸くする。
「私に?」
「皆さんに、です」
「変な言い方」
「変なんです。立場が」
そこまで言って、彼は慌てたみたいに首を振った。
「いや、今のは忘れてください」
「忘れないと思う」
「ですよね……」
私は水面を見下ろした。
月が揺れている。二つとも。
「嫌うかどうかは、たぶんこれからだよ」
そう言うと、えんちゃんは顔を上げた。
「これから?」
「うん。
今はまだ、怪しい人。
でも、敵じゃないっていうのはたぶん本当なんでしょ?」
「……はい」
「なら、ちゃんと見て決める」
それは、私なりの信頼の渡し方だった。
全部知らないうちから味方認定はしない。
でも、知らないから即切ることもしない。
嫌いな人を作らないっていうのは、そういうことだと私は思っている。
えんちゃんは、少しだけ安心したような、逆に余計に緊張したような、妙な顔をした。
「ありがとうございます」
「それ、まだ早い気がする」
「たしかに……」
二人で少しだけ笑う。
ほんの少し。
でも、昨日までより距離は縮んだ気がした。
その時、剣が腰でかすかに鳴った。
私は反射で空を見上げる。
月の近く、ほんの一瞬だけ、白い線が浮かんだ。
推定危険度:低
接近中
「……え?」
消える。
えんちゃんが怪訝そうにこちらを見る。
「どうしました?」
「また、見えた」
今度は、かなりはっきりしていた。
レベル、というほど明確じゃない。
でも、ただの予感でもない。
これはたぶん、補助線だ。
何かを見せようとする意思のある表示。
「接近中って……何が?」
そう呟いた瞬間、宿場の外柵の向こうから、誰かの怒鳴り声が上がった。
「馬がいないぞ!」
間髪入れずに、別の声。
「荷の袋も一つ消えてる!」
私はえんちゃんと顔を見合わせた。
小さな事件は、どうやら昼だけでは終わらないらしい。




