最初の宿場と、旅慣れない足取り
リネルを出て半日ほど歩いた頃、私はようやく「旅に出た」という実感を持ち始めていた。
それまでは、見送りがあって、門を抜けて、街道を歩いて、ただ前へ進んでいるだけだった。
でも、町の匂いが完全に消えて、代わりに乾いた土と草の匂いばかりになった時、はっきりわかったのだ。
もう、後ろにあるのは昨日までの生活で、前にあるのはまだ知らない日々なんだと。
街道は思ったより歩きやすかった。
王国の中核都市セイルへ続く道だけあって、地面は踏み固められているし、橋もちゃんとしている。荷車の轍が何本も刻まれていて、人と物資が通るための道だと一目でわかる。
それでも、歩き慣れた道場の床や町の石畳とは全然違う。
足裏に来る感覚が、少しずつ溜まっていく。
剣道での踏み込みとは違う、じわじわ削る疲れ方だ。
「……旅って、地味に足がくるね」
何となく口に出すと、ルクトが前を向いたまま返した。
「半日でそれなら優秀な方だ」
「そうなの?」
「最初は変に力んで、膝から下だけ先に死ぬやつも多い」
「嫌な死に方」
「比喩だ」
フィアが後ろから元気よく言う。
「わたしはまだ平気です!」
その声が、少しだけ上ずっていた。
私は振り返る。
フィアは笑っていたけれど、頬がほんのり赤い。肩で息をするほどじゃない。でも、歩幅が朝より少し小さくなっている。
「フィア」
「はい?」
「荷物、ちょっと見せて」
「え?」
「重いでしょ」
「そんなことないです!」
否定が早い。
つまり、だいたいそういうことだ。
私は足を止めて、フィアの背負い袋を軽く持ってみた。
重い。見た目よりずっと重い。
「何入れてるの」
「えっと、観測ノート三冊、予備のインク、羽根ペン、携帯用の薬草包み、着替え、補助触媒、生活魔法の補助札、もしもの時のための――」
「多い」
「でも必要かもしれないです!」
「全部今日必要になるとは思えない」
フィアは少しだけうっと詰まった。
その様子を見て、ルクトが肩越しに言う。
「旅慣れてないやつは、だいたいもしもを全部背負う」
「だって、不安じゃないですか」
「それはわかる」と私は言った。
「でも、背負いすぎると本当に必要な時に動けなくなる」
フィアはしょんぼりした顔になった。
怒られたと思ったのかもしれない。
だから私は、できるだけやわらかく続ける。
「必要な不安と、持ちすぎな不安は違うよ。
ほら、ノート一冊は今使う。予備は一冊でいい。触媒も全部じゃなくて必要分だけ。薬草はルクトと私で少し持てるし」
「……はい」
「あと、これ」
私は自分の荷物から細い髪紐を一本出した。
「肩紐の位置がずれてる。これで結ぶと揺れにくい」
フィアが目を丸くする。
「そんなことまでわかるんですか」
「見ればなんとなく」
「女子力……」
「違うと思う」
たぶんこれは、道具の収まりが悪いと気になる性格の問題だ。
結局、荷物は少しだけ整理した。
予備ノート一冊はルクトが嫌そうな顔をしつつ引き受け、触媒の一部は私が持った。
「ルクトさん、意外と優しいですね」とフィア。
「今さら気づいたのか」
「え、認めるんですね」
「面倒だから否定しないだけだ」
その返しがだいぶルクトだった。
歩き出して少しすると、フィアは本当に楽になったらしい。
歩幅が戻り、呼吸も安定してきた。
「ありがとうございます、スズカさん」
「どういたしまして」
「旅って、もっと気合いで何とかするものだと思ってました」
「それはたぶん、途中で何とかならなくなるやつだな」とルクト。
「さっきからルクトさんの言い方だけ厳しくないですか!?」
「事実に優しい言い方を求めるな」
「ひどい!」
ひどいけど、ちょっと面白い。
こういうやり取りがあるだけで、街道の長さが少し短く感じるから不思議だ。
昼過ぎ、街道脇の小さな木陰で休憩を取ることになった。
近くには浅い流れの小川があり、荷馬車を止めて休む商人たちの姿も見える。
完全な野営じゃなく、街道の途中に自然とできた休憩点みたいな場所だ。
私は水袋を口に運びながら、辺りの人たちを観察した。
行商人夫婦、毛皮を積んだ荷馬車、巡礼っぽい格好の二人連れ、武装した護衛付きの商隊。
リネルの中だけにいた時より、明らかに人の種類が増えている。
「世界が広いって、こういうことかも」
ぽつりとそう言うと、フィアが隣で頷いた。
「わかります。
学舎で地図を見てる時は、遠くの街って“名前”だったんですけど、こうして道にいると、本当にみんな繋がってるんだなって思います」
「いいこと言うな」とルクト。
「今ちょっとだけ適当に褒めました?」
「いや、普通に感想だ」
フィアが少し得意そうな顔をしたので、たぶんちゃんと褒めていたのだろう。
私はパンをちぎって口に入れた。
噛みながら、無意識に腰の剣へ意識が向く。
リネルを出てから、剣は静かだ。
でも、完全に寝ているわけじゃない。
何かを待っているみたいな沈黙だった。
「剣、まだ変ですか?」とフィア。
「うん。昨日みたいに強くはないけど、たまに反応する」
「町を離れたから、少し落ち着いてるんでしょうか」
「かもしれない」と私は答えた。
でも、どこかで違う気もしていた。
落ち着いている、というより、測っているみたいだった。
何を、とは言えない。ただ、剣の側がこちらを見ているような妙な感覚がある。
その時だった。
視界の端に、ほんの一瞬だけ何かが浮いた。
白い線。
薄い文字。
いや、文字というより記号に近いもの。
私は思わず瞬きをした。
消えた。
「……え?」
「どうしました?」とフィア。
「今、何か見えた気がした」
「何かって?」
「白い、線……みたいな」
自分でも説明が曖昧すぎる。
ルクトが少しだけ表情を引き締めた。
「剣か?」
「わからない。
でも、目の前に何か重なった気がする。一瞬だけ」
フィアが真面目な顔で私の目を覗き込む。
「気分悪いですか? 頭痛とか、吐き気とか」
「そこまではない」
「昨日、裂け目を閉じた時の反動かもしれません」とフィア。
「景色の見え方に影響が出ることも――たぶん、あるかも」
「たぶん多いな、お前ら」とルクト。
「だって文献にないんです!」
それはそうだ。
私はもう一度、空気の中を見た。
でも、今度は何もない。街道と木陰と、小川の光だけだ。
気のせい。
そう片づけてもいい程度の違和感だった。
ただ、嫌な予感だけが、細く残った。
その頃。
えんちゃんは荷車の脇で、心底うんざりした顔をしていた。
「だから、現場でそれを試すのは早いって言ってるんです」
「だからこそ、現場でしか意味がないとも言えます」
言い返してきたのは、当然ながら白槻だった。
コンサルは本当に行動が早い。
しかも、やる気がある方向がだいたいえんちゃんの神経を逆なでする。
現在、二人は荷車の荷台に簡易モニターを広げ、涼花たちの街道移動を追っていた。
表向きには「旅商人の荷整理」だが、実態はまるで違う。
白槻が指先で画面を切り替える。
「見てください。
昨日の境界接触以降、主人公の知覚系に、例外的な補助反応が生じています。
ならば今こそ、観測可能な形へ整理する余地がある」
「整理って言い方が嫌なんですよ」
「曖昧なままにするよりいいでしょう」
白槻の言う整理とは、要するに補助表示の試験導入だった。
レベル。
基礎能力。
危険度。
剣との同期率。
そういうものを、主人公の知覚にだけ薄く重ねる。
もちろん、いきなり数字がどーんと出るような雑なものではない。白槻の案はもっと厄介で、もっと実務的だ。
最初は違和感として出す。
次に意味のある線として出す。
最後に読める情報へ育てる。
理屈はわかる。
わかるけれど、えんちゃんにはどこか引っかかる。
「それ、涼花ちゃんの感覚を勝手にいじるってことですよね」
「剣との連動補助です。完全な外部挿入ではありません」
「言い方変えても、やることは同じでは?」
白槻は少しだけ目を細めた。
「あなたは主人公に何かを与えることを過剰に恐れている」
「恐れますよ。
だって、こっちは勝手に連れてきた側なんだから」
その言葉に、白槻は一瞬だけ黙った。
えんちゃんも、言ってから少しだけ後悔した。
感情的すぎたかもしれない。
だが白槻は、意外にもそこで責めるような顔をしなかった。
「……それは、あなたの罪悪感ですか」
「そうかもしれません」
「なら厄介ですね」
「厄介ですよ」
「でも、必要な厄介さかもしれない」
えんちゃんは眉をひそめる。
白槻は淡々と続けた。
「主人公を数字の器にする気はありません。
ただ、彼女は強い。強くて、まだ自分の強さの輪郭を掴めていない。
輪郭を知らない力は、本人にも周囲にも危険です」
それは正しかった。
実際、剣の力も、裂け目を縫う力も、まだ偶発的に出ている。
制御がない。
本人の理解も追いついていない。
「だから見せるべきだと?」
「少しずつ。
今の自分は何に反応しているかを本人が掴める程度には」
えんちゃんは腕を組んで唸った。
嫌な感じのコンサルだと思っていた。今もだいぶそう思っている。
でも、ただ面白がって壊しに来ているわけではないのも、少しずつ見えてきていた。
そこがまた面倒だった。
「じゃあ、いきなりレベルとか数値じゃなくて」
「はい」
「予兆だけ。
本人が見間違いかな、くらいで済む範囲まで」
白槻が少しだけ口元を緩める。
「妥当です」
「今、初めてちょっとだけ腹立たなかった」
「それは進歩ですね」
やっぱり腹が立った。
夕方前、最初の宿場が見えてきた。
街道沿いに建てられた、小さな中継宿場。
木柵で囲まれ、中には宿、厩舎、鍛冶小屋、共同の水場、干し草置き場、それから荷馬車を止める広場がある。規模だけ見ればリネルよりずっと小さい。でも、通過する人間の密度は高い。
「あれが宿場です」とフィアが少し弾んだ声で言った。
「来たことあるの?」
「ありません! でも地図では見たことあります!」
それは知ってるの中でもだいぶ弱い方だと思う。
門をくぐると、旅人たちの視線が軽くこちらへ向いた。
新人っぽい装備の少女二人に、護衛役らしい男、それからどことなく怪しい旅商人。
目立たないとは言えない組み合わせだ。
宿を取る前に、私はまず水場を見た。
長旅の最初の夜で大事なのは、たぶん寝床と水と洗える環境だ。
フィアも同じことを考えていたらしく、こそこそと私に近づいてくる。
「スズカさん」
「うん?」
「ここ、お風呂ありますかね」
私は真顔で頷いた。
「今まったく同じこと考えてた」
フィアの顔がぱっと明るくなる。
「ですよね!?」
「ですよね」
ルクトが後ろから呆れた声を出した。
「お前ら、宿場着いて最初の確認がそれか」
「大事だよ」と私。
「大事です」とフィア。
「否定はしないけどな……」
否定しないあたり、この人も最近ちょっと慣れてきた気がする。
宿場の宿は、共同浴場つきだった。
規模は小さく、湯も浅いらしい。でもあるだけで偉大だ。
私はそれを聞いた瞬間、今日の宿に対する評価をだいぶ上げた。
「顔に出てるぞ」とルクト。
「いい宿だなって思っただけ」
「そうかよ」
フィアが小声で言う。
「スズカさん、今すごく嬉しそうです」
「フィアもでしょ」
「はい」
素直でよろしい。
荷を下ろし、部屋を分け、厩舎へ荷車を回し、最低限の手続きを済ませる。
旅というのは、移動だけじゃなく、到着後のこういう段取りも含めて旅なんだとよくわかった。
夕食前、少しだけ外を歩いた時、私はまた、あの白い違和感を見た。
今度はもっと短い。
宿場の広場で、走っていた子どもと荷車の間に、細い線が一本だけ浮かんだ。
危――
そこまで見えた気がした瞬間、線は消えた。
「……まただ」
私は足を止める。
「どうしました?」とフィア。
「何か、見える」
「今も?」
「うん。でも読めるほどじゃない。
ただ、さっきより意味がありそうだった」
ルクトも空気を読むように視線を巡らせた。
「剣は?」
私は腰の柄に触れた。
「少しだけ熱い」
ルクトが眉をひそめる。
「気味が悪いな」
「うん」
でも、その直後。
広場の端で、小さな悲鳴が上がった。
荷を積み直していた馬が、突然大きくいななき、手綱を振りほどいたのだ。
荷車の片輪が石に乗り上げ、積んでいた木箱がぐらりと傾く。すぐそばには、さっきの子どもがいる。
本当に小さな事件だった。
でも、こういうのは一瞬で人を傷つける。
「危ない!」
私は叫びながら走り出した。




